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723年 三世一身法を発令する [年号のゴロ合わせ]

今日は奈良時代の土地制度の2回目、三世一身法(さんぜいっしんのほう)を取りあげます。
ひらがなが存在しない時代の法令なので、「三世一身法」と書く方がよいですが、
もちろん「三世一身の法」と表記しても構いません。



前回は、人口増加による口分田不足を補うため、722年に百万町歩開墾計画が出しましたが、
あまりにも壮大すぎる内容だったため失敗に終わった、というお話をしました。

そこで、翌723年に出されたのが三世一身法です。
まずは史料を見てみましょう。

(養老七年(〔1   〕年のこと)四月)辛亥、太政官(だいじょうかん)奏(そう)すらく、「頃者(このごろ)百姓漸(ようや)く多くして、田池搾狭(さくきょう、狭いということ)なり。望み請ふらくは、天下に勧(すす)め課(おお)せて、田疇(でんちゅう、田んぼのこと)を開闢(ひら)かしめん。其(そ)の新たに溝池を造り、開墾を営む者有らば、多少を限らず、給ひて〔2   〕に伝へしめん。若(も)し旧(ふる)き溝池を逐(お)はば、其の〔3   〕に給せん」と。(出典『続日本紀』)

空欄にあてはまる語句は分かりましたか?
1…723
2…三世(本人・子・孫の三代、子・孫・曾孫(そうそん、ひ孫のこと)の三代という説もアリ)
3…一身(本人一代)

太政官というのは、律令制度における最高機関のことです。
人ではありません、組織を指します。
その太政官から、天皇に申し上げた内容は次の通りです。

「最近人口が次第に増加していますが、田んぼや池は狭くて不足しています。
そこで、人々に田んぼの開墾を勧めておこなわせたいと思います。
新しく溝や池をつくって開墾した人には、開墾地の多少にかかわらず三代の、
古い溝や池を利用して開墾した人には、本人一代の所有を許すことにしたいと思います」

これが三世一身法です。

723.jpg

自分で頑張って開墾した土地については、所有権が認められるようになりました。
つまり、大化改新によって確立した公地公民の原則が、期間を限定しているとはいえ崩壊したのです。

ついに自分の土地が持てるんですよ!
そうなると人々は頑張って耕します!!

でも…

あくまでも期間限定なんですよね…

さぁ20年後、人々の開墾に対する情熱は一体どうなってしまうのか!
次回、墾田永年私財法でお話ししたいと思います。

それでは、今日のゴロ合わせ。

723年.jpg



年内の更新はこれにて終了です。
お付き合いありがとうございました。
来年もよろしくお願いいたします。

みなさま、良いお年を☆
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722年 百万町歩開墾計画を出す [年号のゴロ合わせ]

今回から3回にわたって、奈良時代の土地制度を取りあげます。



奈良時代の土地制度は、次の三段階で覚えましょう!

①722年 百万町歩開墾計画(ひゃくまんちょうぶかいこんけいかく)
②723年 三世一身法(さんぜいっしんのほう)
③743年 墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)

まず、①の百万町歩開墾計画です。

このころ、班田収授(はんでんしゅうじゅ)がおこなわれていました。
朝廷が6歳以上の男女に口分田(くぶんでん)という田んぼを与える制度で、
これによって租(そ)という税を徴収しました。

口分田を与える相手は「6歳以上」という制限があるため、朝廷は人々の年齢を把握しなければなりません。
ここで用いられるのが戸籍です。

班田収授という言葉が初めて登場するのは646年の「改新の詔」ですが、
全国的な戸籍が初めてつくられたのは670年の庚午年籍ですので、
班田収授はこれ以降に実施されたものと考えられます。

さて。

やがて人口が増加し、8世紀に入るころには口分田が不足してきました。
口分田が渡せないと大変です、租が徴収できません。

そこで出されたのが「百万町歩開墾計画」です。
朝廷は、農民に食料と道具を支給して10日間開墾に従事させ、良田を100万町歩開こうとしたのです。

町歩(ちょうぶ)は面積の単位で、約109m四方のことです。
(109m×109m)×100万ですよ…け、計算できます?(笑)
10世紀の初めごろでも全国で約88万町歩くらいしかなかったそうですので、
これはとんでもない数字です。
※以前、「1町歩=109㎡」と書いていましたが、お詫びして訂正いたします。
 ご指摘くださった方、ありがとうございました。(2018年6月2日)

722.jpg

当時の権力者は右大臣の長屋王(ながやおう)です。
後日まとめプリントで詳述しようと思いますが、天武天皇の孫にあたる人物です。

百万町歩というのがとんでもない数字であるため、
これはあくまでもスローガン、目標ではないか、と考えられています。
なんにせよ、残念ながら成果はあがらなかったようです。

それでは、今日のゴロ合わせ。

722年.jpg



百万町歩開墾計画が失敗に終わったということで、口分田はまだまだ不足した状態です。
これを打開すべく出されたのが、三世一身法です。
次回、詳しく述べたいと思います。
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720年 『日本書紀』が完成する [年号のゴロ合わせ]

日本で最初につくられた官撰正史は何でしょう?
「カンセンセイシ」・「セイシ」とは、国家によって公式に編纂された歴史書のことです。

正解は、『日本書紀』です。

これを含め、8~10世紀にかけて6つの正史が作られました。
本のタイトルと、それぞれの本にまとめられた歴史の範囲は以下の通りです。

①『日本書紀(にほんしょき)』:神代(じんだい・かみよ)~持統天皇
②『続日本紀(しょくにほんぎ、読み方注意!)』:文武天皇~桓武天皇
③『日本後紀(にほんこうき)』:桓武天皇~淳和(じゅんな)天皇
④『続日本後紀(しょくにほんこうき)』:仁明(にんみょう)天皇一代
⑤『日本文徳天皇実録(にほんもんとくてんのうじつろく)』:文徳天皇一代
⑥『日本三代実録(にほんさんだいじつろく)』:清和(せいわ)・陽成(ようぜい)・光孝(こうこう)天皇の三代

①~⑥は、まとめて「六国史」(りっこくし、読み方注意!)と呼ばれます。
すべて漢文で、かつ年代を追って出来事を記述する編年体(へんねんたい)で記されています。



さて、『日本書紀』。

編纂事業の中心的役割をになったのは、天武天皇の息子である舎人親王(とねりしんのう)です。
紀清人(きのきよひと)らとともに完成させたようです。

親王(しんのう)とは、基本的には天皇の息子に用いる称号です。
古くは皇子(おうじ)という称号が用いられていましたが(中大兄皇子など)、
律令の成立により、親王という称号が使われるようになったようです。
ちなみに、天皇の娘の称号は内親王(ないしんのう)です。

それにしても、天武天皇の息子さんたちは大活躍ですね…

720.jpg

親王がたくさん出てきてややこしいので、きちんと整理しておきましょう。

『日本書紀』の成立は720年のことです。
神様の誕生、そして日本列島の誕生といった神話の時代(神代)から持統天皇までの歴史を記しています。
これまで取りあげた「憲法十七条」や「改新の詔」などの出典は、『日本書紀』でしたね。

ところで。

そういえば、『古事記』という歴史書は712年に成立しているんですよね…
いずれも歴史書、なぜ8年の間に2つも作られたのでしょう…

どうやら両者は編纂の目的が異なっている、というのが通説のようです。

『古事記』は、日本国内に対して天皇による支配の正当性などを示す目的で、
『日本書紀』は、唐や新羅などの諸外国に対して日本という国家の正当性などを示す目的で、
それぞれ編纂されたと考えられます。

8世紀には律令国家が成立し、それにともなって「日本」という国家意識が高まりました。
そこで朝廷は、「なぜ天皇が日本を統治しているのか」という由来や、
「日本」という国家の形成・発展の経過を国内外に示そうと、
中国にならった歴史書の編纂をさかんにおこなったのでしょう。

それでは、今日のゴロ合わせ。

720年.jpg

『古事記』と『日本書紀』、まとめて「記紀(きき)」と呼びます。
そう、両者は「き」の漢字が違うんですよね。
混同しないよう気をつけて覚えてくださいね!



次回は、百万町歩開墾計画を取りあげます。
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718年 養老律令を制定する [年号のゴロ合わせ]

今日は養老律令について取りあげます。

律令についての詳細は、すでに701年のゴロ合わせで述べましたので、
そちらも参考にしてください。



養老律令は、中臣鎌足の息子である藤原不比等らによって編纂され、
元正(げんしょう)天皇の時代、718年に成立しました。
しかし、実際に施行されたのは40年近く経った757年のことでした。

せっかく作った養老律令がなかなか施行されなかったのは、なぜなのでしょうか…
諸説ありますが、藤原不比等が720年に亡くなったことが一因と考えられます。
彼の死により、養老律令はすぐさま施行へとつながらなかったのでしょう。

養老律令の前に成立した大宝律令は、残念ながらほとんど現存していません。
一方、養老律令は『令義解』や『令集解』などに一部収録されていたことにより、
内容の多くを復元することができています。
大宝律令の内容を、復元された養老律令などから推測した結果、
両者の内容にはあまり変化がない、というのが通説のようです。

ではなぜあまり内容に変化のない養老律令を、わざわざ757年に施行する必要があったのでしょうか。

施行当時の天皇は、女性の孝謙天皇です。
彼女の父である聖武太上天皇は絶大な力を誇っていましたが、前年の756年に亡くなっています。
聖武太上天皇の死により、中央政界では権力闘争が始まったのでしょう。

このころ、藤原武智麻呂の息子である藤原仲麻呂は、いとこにあたる孝謙天皇と協力して台頭しつつありました。
養老律令を施行することで、
2人のおじいちゃんである藤原不比等の力を自分たちが継承することを明らかにし、
2人の力をより確かなモノにしようとしたのかもしれませんね。

718.jpg

ちなみに、養老律令は平安時代の半ばには形骸化したようです。
時代が進むにつれ、内容が時代にあわなくなっていたのでしょうね。

律令の内容については、改めてまとめプリントで詳しく触れたいと思います。

それでは、今日のゴロ合わせ。

718年.jpg



次回は、『日本書紀』について取りあげます。
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