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753年 鑑真が来日する [年号のゴロ合わせ]

前回・前々回と、聖武天皇(聖武太上天皇)が仏教をあつく信仰したことについて述べたように、
奈良時代の仏教は、国家の保護をうけて発展しました。
国家によってたくさんの寺院が建立され、そこでは鎮護国家の法要がおこなわれたのです。



お坊さんたちは、国家のためにその法要をつとめ、国家からお給料をもらう、いわば国家公務員です。
さらに軍役などの税も免除されたというから、お坊さんってなかなかヨイご身分だったわけです。

そうなると、お坊さんになりたくなりませんか?

お坊さんになるには、まず国家の認める得度(とくど)という儀式を受けねばなりません。
得度を受ける者は年間10人ほどしか許されなかった、というから超狭き門です。

ところが、勝手に「オレ、今日からお坊さん!」と名乗る自称僧侶があらわれます。
これを、ワタクシに得度したと宣言する僧侶、ということで、「私度僧(しどそう)」といいます。

得度して修行し、さらに戒律(かいりつ)を受けてこそ正式なお坊さんです。
それなのに、脱税目的で私度僧がわんさか増えてしまうのはゆゆしき事態です。

ところで、戒律を受ける、とは何なんでしょうか?

戒(かい)は自分自身を律する道徳的なルール、律(りつ)は集団における社会的なルールのようなものです。
まとめて戒律といい、これを受けることを受戒(じゅかい、授戒とも)と呼びます。
また、受戒をおこなう場所のことを、戒壇(かいだん)とか戒壇院(かいだんいん)と呼びます。

当時の日本には、不完全な戒律しかなかったようで、
私度僧が増えゆくこのタイミングで、戒律をきちんと整備する必要がでてきたというわけです。

そこで聖武天皇は、唐に使者を派遣します。
使者たちは、戒律の権威である鑑真(がんじん)のもとを訪れ、
日本に来て正式な戒律を教えてくれるお坊さんを誰か紹介してください、とお願いしたのです。

さっそく鑑真は弟子たちに問います。

「日本へ行って戒律を伝えようという者はおらぬか!」と。

……………………。

まさかの全員拒否ですよ。
いや~、ショックですね…そんなに日本がイヤですかと。
日本がイヤというより、日本ヘの道のりが危ないからイヤという方が正確かもしれません。
それぐらい、当時の航海は危険だったのです。

しかし、鑑真としては頼まれた以上、誰かを派遣せねばなりません。

「みんなが行かないなら、私が行くしかないな…」

エー…まさかの師匠みずから?

そうなると弟子たちは「師匠、いってらっしゃ~い★」じゃ済みません。
では我々もご一緒しましょう…ということで、しぶしぶ21人が同行することとなりました。

743年の夏、鑑真一行は日本ヘ渡ろうとします。
ところが、これを快く思わない弟子たちに阻まれ、失敗してしまいます。
翌年、再チャレンジしますが暴風にあって断念。
再々チャレンジも、
再々々チャレンジも弟子たちに阻まれ失敗。
再々々々チャレンジはこれまた暴風にあって、なんとベトナムあたりまで流されてしまいます。

753.jpg

こ…心おれそう…

それでも鑑真はあきらめず、753年、6度目のチャレンジでついに日本ヘ到達します。
鑑真、65歳。
たびかさなる苦労の末、目が見えなくなっていたようです。

翌年、鑑真はさっそく東大寺に戒壇を築き、聖武太上天皇・光明皇太后・孝謙天皇たちに受戒をおこないます。
その後、遠方の受戒者のために、九州と東国にも戒壇を築きます。
筑紫国(つくしのくに、現在の福岡県のこと)の観世音寺(かんぜおんじ)と
下野国(しもつけのくに、現在の栃木県のこと)の薬師寺です。
東大寺・筑紫観世音寺・下野薬師寺の戒壇をまとめて「本朝三戒壇(ほんちょうさんかいだん)」と呼びます。

763年、鑑真は奈良にみずから建立した唐招提寺(とうしょうだいじ)で亡くなります。
鑑真は生前ここにも戒壇をつくっており、現在もその石壇を見ることができます。

師匠の死を悲しむ弟子によって有名な鑑真の像がつくられますが、
これについては後日、天平文化でご紹介します。

それでは、今日のゴロ合わせ☆

753年.jpg



次回は、橘奈良麻呂の変を取りあげます。
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752年 大仏開眼供養をおこなう [年号のゴロ合わせ]

前回は、様々な社会的不安から仏教にすがる聖武天皇が、国分寺建立の詔を出したことを取りあげました。
その2年後、聖武天皇はさらに大仏造立の詔(だいぶつぞうりゅうのみことのり)を発令します。



国分寺は建物なので「建立(こんりゅう)」の字を、大仏は仏像なので「造立(ぞうりゅう)」の字を用います。

ではまず、史料を見てみましょう。

(天平十五年(〔1   〕年のこと))冬十月辛巳、詔して曰く。「(中略)粤(ここ)に天平十五年歳次癸未十月十五日を以(もっ)て、菩薩(ぼさつ)の大願(仏教を興隆し、衆生(しゅじょう)を救おうという願いのこと)を発(おこ)して、盧舎那仏(るしゃなぶつ、華厳経(けごんきょう)の本尊のこと)の金銅像一軀(いっく)を造り奉(たてまつ)る。(中略)夫(そ)れ天下の富を有(たも)つ者は朕(ちん、〔2   〕のこと)なり。天下の勢を有つ者も朕なり。此(こ)の富勢を以てこの尊像を造る。事や成り易き、心や至り難(がた)き。(中略)」と。(出典『続日本紀』)

空欄に入る語句は分かりましたか?

1…743
2…聖武天皇(日本において、朕は天皇が用いる一人称)

詔の内容は、
「743年10月15日をもって、仏教を興隆し、衆生を救おうという願いをおこし、大仏をつくる。
天下の富をもつのは私であり、天下の勢いをもつのも私である。
この富と勢いとをもってすれば、大仏をつくるという事は成りやすいが、
仏教を興隆し、衆生を救おうという願いの趣旨に叶うことは難しい。」
です。

いやぁ~…天下の富と勢いをもつのは私だ!ですって。
言うてみたいもんですな。

さて、ここで問題を2つ。

・問1 大仏造立の詔と同じ年に発令された土地に関する法令は何か。
・問2 大仏造立の詔はどこで出されたか。

分かりますか?

・答1 墾田永年私財法
 この法令は、「天平十五年の格」とも呼ばれるんでしたね。
 詳しくは743年のゴロ合わせをご覧下さい。
・答2 紫香楽宮(しがらきのみや)
 藤原広嗣の乱のあと、聖武天皇は引っ越しをしまくります。
 このころ都は恭仁京にありますが、離宮(りきゅう)として滋賀に紫香楽宮もつくっています。
 で、その離宮にいるときに大仏造立の詔を発令しちゃったわけです。

つまり、大仏は滋賀でつくりはじめられるのです。

ところが…

聖武天皇はこのあと難波宮に遷都し、すぐさま紫香楽宮に遷都したと思ったら…結局、平城京に戻ります…

な…なんやねん…

ということで、滋賀で始まった大仏の造立事業は中止され、747年に奈良で再開されることになります。

752.jpg

そして、奈良の大仏の開眼供養(かいげんくよう)がおこなわれたのは752年。
開眼供養とは、仏像に目を描きこんで魂を入れる法要のことです。
これに用いられた筆や墨は、現在も正倉院宝物として伝わっているそうですよ。

このときの天皇は、聖武天皇と光明皇后との間に生まれた女性、孝謙(こうけん)天皇です。
聖武天皇は譲位したので、聖武太上天皇(だいじょうてんのう、だじょうてんのう)となっています。
また、皇后は「天皇の奥さん」を意味しますので、
光明皇后は、太上天皇の奥さんとして光明皇太后(こうたいごう)となっています。

孝謙天皇・聖武太上天皇・光明皇太后ほかおよそ1万人が参列するなか、開眼供養はおこなわれます。
大仏の目を描いたのは、インド人のお坊さんである菩提僊那(ぼだいせんな)です。
彼のもつ筆には長い長いヒモが結わえられていて、参列者たちはこれに触れることで大仏と縁を結ばんとしました。
また、さまざまな音楽やダンスも披露されるなど、とてもとても盛りあがったようです。

実はまだ大仏は完成していなかったみたいなんですけどね…
仕上げの作業は、開眼供養のあとでおこなわれました。

それでは、今日のゴロ合わせ☆

752年.jpg

ところで、奈良の大仏を実際に見たことはありますか?
最近、大仏の螺髪(らほつ、パンチパーマみたいなくるくる1個1個のこと)が古い記録では966個とあるのに、
実際数えてみると492個しかなかった、ということがニュースになりましたね。

私は小学6年生のときの遠足で初めて実物を拝見しましたが、とにかく大きくてビックリしたことを覚えています。
高さは14.73mもあるんだそうです。
そりゃ頭にくるくるがいくつあるかなんて地上からはまったく見えませんね。

ちなみに、聖武天皇がつくった大仏は高さが16.1mもあったそうで、現在の大仏より大きかったようです。
8世紀によくぞそんな大きな仏像をつくれたものですね…
さすが「天下の富と勢いをもつ」って自分で言っちゃう聖武天皇です。

しかしその後、大仏は戦乱のなかで焼失してしまいます。

しかも2回………

現在の大仏は17世紀末につくられたものです。
なぜ大仏は2度も焼失してしまったのか…
これはまた、おいおいお話ししていこうと思います。



次回は、鑑真の来日を取りあげます。
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741年 国分寺建立の詔を発令する [年号のゴロ合わせ]

聖武天皇は、仏教をあつく信仰した人物です。
それはなぜなのでしょう。



聖武天皇が即位したころ、権力を握っていたのは長屋王です。
しかし、彼はほどなく自殺に追い込まれます。

かわって権力を握ったのは藤原四子です。
しかししかし、彼らはほどなく天然痘にかかりバタバタバタバタと亡くなってしまいます。

次に権力を握ったのは橘諸兄で、玄昉と吉備真備を重用します。
すると、藤原広嗣が九州で反乱を起こします…

んもう怖いことだらけなわけです。
そりゃホトケサマにすがりたくもなりますよね…

741.jpg

こういった社会的不安のもと、聖武天皇は仏教によって国家を鎮(しず)めて護(まも)ろう、と考えました。
この考え方を、鎮護国家(ちんごこっか)の思想といいます。

741年、聖武天皇は国分寺建立の詔(こくぶんじこんりゅうのみことのり)を発令し、
国ごとに国分寺(こくぶんじ)・国分尼寺(こくぶんにじ)をつくらせることにしました。
まずはその史料を見てみましょう。

(天平十三(〔1   〕年のこと)年)三月(中略)乙巳(3月24日のこと、2月14日の誤り)、詔して曰(のたまわ)く、「(中略)宜(よろ)しく天下の諸国をして各(おのおの)敬(つつし)みて七重塔(しちじゅうのとう)一区を造り、并(あわ)せて〔2   〕・〔3   〕各一部を写さしむべし。(中略)僧寺には必ず廿僧有らしめ、其の寺の名を〔4   〕と為(な)し、尼寺には一十尼ありて、其の寺の名を〔5   〕と為し、両寺相(あい)共に宜しく教戒(きょうかい、教えのこと)を受(さず)くべし。(中略)」と。(出典『続日本紀』)

空欄に当てはまる語句は分かりましたか?

1…741
2…金光明最勝王経(こんこうみょうさいしょうおうきょう)
3…妙法蓮華経(みょうほうれんげきょう、法華経のこと)
4…金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)
5…法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)

国分寺・国分尼寺の正式名称はそれぞれ金光明四天王護国之寺・法華滅罪之寺で、
金光明最勝王経・法蓮華経(法華経)を写したものをおきました。
そして、国分寺には男性のお坊さんを20人(史料中の「廿」は20と読みます)、
国分尼寺には女性のお坊さん、いわゆる尼さんを10人おいたようです。

や…ややこしい……

簡単にまとめておきましょうね。

●国分寺(金光明四天王護国之寺)…金光明最勝王経、20人の僧
●国分尼寺(法華滅罪之寺)…………妙法蓮華経(法華経)、10人の尼僧

ちょっと大変ですが、頑張って覚えてください。

ちなみに、国分寺と国分尼寺はたいてい国府の近くにつくられました。
その跡地は、現在も「国分寺」や「国分」・「国分町」などの地名として残っていることもあります。
自分の住んでいる地域にそんな地名がないか、調べてみるとおもしろいですね。

それでは、今日のゴロ合わせ☆

741年.jpg

国分寺と国分尼寺をつくるよう命じた聖武天皇ですが、これではまだまだ安心しません。
さらに大仏をつくろうとするのです。



次回はその奈良の大仏さんについて見ていきましょう。
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740年 藤原広嗣の乱がおこる [年号のゴロ合わせ]

前回は、藤原不比等→長屋王→藤原四子という権力の流れを取り上げました。

藤原四子には、光明子(こうみょうし)という名の妹がいます。
聖武天皇の皇后となったので、光明皇后(こうみょうこうごう)とも呼ばれます。

皇后とは本来、皇族から選ばれます。
光明子は藤原不比等と県犬養三千代(あがたいぬかいのみちよ)という女性との間に生まれたので、
皇族ではありません。
すなわち、光明皇后とは人臣(じんしん)で初めて皇后になった人物なのです。
皇后になったのは長屋王の変の直後ですので、きっとお兄ちゃんたちの大きな力が働いたのでしょう…



さて、そのお兄ちゃんたちがバタバタバタバタと亡くなったあとに権力を手にしたのは、
光明皇后の異父兄(いふけい)、つまりお母さんは同じだけどお父さんは違うお兄ちゃん、である
橘諸兄(たちばなのもろえ)という人物です。

この橘諸兄とセットで覚えなければならないのが、玄昉(げんぼう)と吉備真備(きびのまきび)です。
彼らは遣唐使として唐で学んだ経験を買われ、橘諸兄政権のブレーンとして活躍します。

ところで、唐における吉備真備の様子を描いた絵巻物があるのを知っていますか?

「吉備大臣入唐絵巻(きびだいじんにっとうえまき)」と呼ばれる傑作なのですが、
現在はアメリカのボストン美術館が所蔵しているので、なかなかお目にかかれません。
私は、この絵巻物が2012~2013年に日本へ里帰りしたときに初めて美術館で拝見したのですが、
唐で次々と難題をふっかけられる吉備真備が、鬼の協力を得てそれらを巧みに乗り越えてゆく様子が痛快で、
たいへん感動しました。
図録『ボストン美術館 日本美術の至宝』に載っている金井裕子さんの解説を参考に、
その様子を紹介しましょう。

   *    *    *

遣唐使として唐にわたった吉備真備は、唐の皇帝の使者たちに迎えられます。
しかし、彼が案内されたのは、鬼が出没するため生きて出られる者はいない…という
イワク付きの楼閣(ろうかく)です。
おいおい、なんてところに案内してくれるんだよ!
しょっぱなから大ピンチです。

真夜中。

雨風が強くなったころ。

恐ろしい鬼が吉備真備の前に姿を現します!!

ヤバイ!!

食べられる!!!

ところが、この鬼、吉備真備と話がしたいと言うのです。

そこで吉備真備は、「訪ねてくるなら鬼の姿を変えよ!」と伝えます。
すかさず人っぽい格好に改める鬼。

素直だなオイ!!

というのもこの鬼、実は唐で亡くなった阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)だというのです。
よりにもよってなぜ鬼のビジュアルなんだよ…

その阿倍仲麻呂、吉備真備と話をするなかで、日本に残る自分の子孫の様子を知って喜びます。
そして、吉備真備に協力することを伝えてどこかへ消えてゆきます…

翌日。

皇帝の使者は「あの日本人、鬼に食われたんだろうな~」と、様子を見に楼閣にやってきます。
ところがまさかの吉備真備健在!
鬼に食べられていないわけですよ!!

そこで、使者たちは吉備真備に次なる難題をふっかけることにしました。
難読書である『文選(もんぜん)』の試験を課すというのです。
もう徹底的にいじめたろうという魂胆です。

さぁ吉備真備は困ります。
『文選』なんて、聞いたことも見たこともないのです。

すると、姿を現した鬼とともに吉備真備は超能力で空を飛び(!)、
楼閣を抜け出して宮殿へ行って、試験問題を2人で盗み聞きしてしまいます。

やがて、皇帝の使者が『文選』の試験を実施しようと楼閣にやってきます。
ところが吉備真備は『文選』の一部を書き散らかしていて、
「こんなもの、日本ではみーんな知っておる」と一言。
吉備真備は、この様子を見て呆然とする使者から『文選』30巻をまんまとゲットしてしまいます。

これでおしまいではありません、皇帝サイドは次なる難題を考えます。
それは、碁の名人との対決でした。

このころ囲碁は日本に伝わっていないので、吉備真備はこれまた聞いたことも見たこともないのです。

すると、再び鬼が姿を現し、楼閣の格子天井を碁盤に見立てて一生懸命碁を教えてくれます。

そしていよいよ初心者吉備真備と、名人との囲碁対決。
劣勢の吉備真備は、まさかの碁石を1つ飲み込む、という荒技で辛勝します。
この結果に納得できない名人サイド。
そこで、碁石を数えてみると1つ足りません!

お前、食べたやろ!

吉備真備は下剤を飲まされ、ウンコさんを調べられます。
しかし!超能力によって碁石は吉備真備の体内にとどまったため(!!)、
碁石を飲み込んだことがバレずに済みます。

このあとも難題を次々とくぐりぬけ、ついに吉備真備は日本に『文選』と囲碁を持ち帰ったのです。

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なんだろう…吉備真備すごい…
てゆーか、まさか阿倍仲麻呂は死んだあと鬼になって超能力を使えるようになっていたとは…

   *    *    *

というわけで、そんな吉備真備と玄昉が橘諸兄の右腕として機能します。
するとつまらないのが前の権力者である藤原四子の子どもたちです。

藤原宇合の子である藤原広嗣(ひろつぐ)は、そのころ大宰府に左遷(させん)されていました。
当然、自分もお父さんたちみたいに権力を握るつもりでいたのにです。
そこで、玄昉と吉備真備の排斥を訴えて九州で挙兵します。

これに戦慄したのが聖武天皇です。
まさかあの藤原広嗣が挙兵するなんて!!!と。

聖武天皇は恐怖のあまり平城京を飛び出し、そこから数年にわたってジプシー生活を送ることになります。
平城京→恭仁京(くにきょう)→難波宮(なにわのみや)→紫香楽宮(しがらきのみや)→平城京と、
移動しまくりです。

みなさんからすれば、都をコロコロ変えられちゃ覚えることが増えて腹が立ちますよね。
しかも結局平城京に帰ってくるんかい!!と。

これだけ移動しまくるということは、いかに聖武天皇がびびっていたかをあらわしています。
とにかく知ってる人に反乱起こされてめっちゃ怖かったんですよ、許してあげてください(笑)

それでは、今日のゴロ合わせ☆

740年.jpg

梨に深い意味はありません、ただゴロが合ったからです…すんません…



それでは、恐怖にかられた聖武天皇はどうなるのか…
次回は国分寺建立の詔からその様子をみていきます。
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729年 長屋王の変がおこる [年号のゴロ合わせ]

奈良時代の勉強で大変なところは、天皇のほかに実権を握る人物を覚えなければならないところです。

藤原不比等→長屋王→藤原四子→橘諸兄→藤原仲麻呂→道鏡→藤原百川

こんな風に実権を握る人物がころころ変わるんですね…
受験生にとっちゃホント迷惑な話です…
高校生のころ、菅野祐孝さんが書かれた日本史の参考書のなかにこの覚え方が載っていて、
とても助かった記憶があります。

「ひどい(藤原不比等)長屋(長屋王)で4人の子ども(藤原四子)、
 モ(橘諸兄)ナカ(藤原仲麻呂)どう(道鏡)?100円(藤原百川)で…」

す、すばらしい…
ぜひみなさんもこれで覚えてしまいましょう!



さて、今日は藤原不比等の次に実権を握った人物、長屋王(ながやおう)について見ていきます。

中臣鎌足の息子である藤原不比等には、4人の息子がいました。
まとめて藤原四子(しし・よんし)とか藤原四兄弟(しきょうだい・よんきょうだい)などと呼びます。

長男 藤原武智麻呂(むちまろ)…藤原南家(なんけ)の祖
次男 藤原房前(ふささき) ………藤原北家(ほっけ)の祖
三男 藤原宇合(うまかい) ………藤原式家(しきけ)の祖
四男 藤原麻呂(まろ)……………藤原京家(きょうけ)の祖

武智麻呂の家は房前の家の南にあり、房前の家は武智麻呂の家の北にあったため、
それぞれの子孫をまとめて藤原南家・藤原北家と呼びます。
宇合は式部省(しきぶしょう)の役人であったことからその子孫を式家、
麻呂は京職(きょうしき)の役人であったたことからその子孫を京家と呼びます。

藤原不比等が亡くなったとき、この藤原四子は年齢的にも身分的にもまだまだ青かったようで、
(年齢は長屋王とあんまり変わらないようですが…)
結果として天武天皇の孫である長屋王が実権を握ることとなりました。

長屋王は721年に右大臣となり、さらに724年には聖武天皇の即位と同時に左大臣となりました。
ぐいぐい出世していきます。
これは藤原四子としたらおもしろくないわけですよ。
自分たちも不比等お父さんみたいに権力を握りたいのに、長屋王が邪魔で仕方ない。

するとどうでしょう…

長屋王に謀叛(むほん)の意図がある、すなわち天皇を裏切ろうとしている、というウワサがたつのです。
そこで、藤原宇合はすかさず兵を率いて長屋王の家を取り囲みます。
長屋王は、奥さんである吉備内親王(きびないしんのう)らとともに毒をあおいで自殺してしまいました。

これが729年に起こった長屋王の変です。
長屋王の死後、実権を握ったのはもちろん藤原四子です。

しかし…

しかしですよ…

737年、権力の絶頂にあった藤原四子たちは天然痘(てんねんとう)という病気にかかり、
バタバタバタバタと亡くなってしまうのです。

え?
4人もいるのに??
全員???

人々は言いました、「これは長屋王の祟(たた)りに違いない…」と。

ちなみに、長屋王の邸宅跡は1986年に平城宮跡のすぐ近くで発見されました。
奈良時代の権力者の生活を伝える重要な遺跡であり、
また4万点もの木簡が出土したことから保存を望む声が多く聞かれましたが、
残念ながら遺跡の上に「そごう」というデパートがつくられました。

遺跡を保存するのか、現代人にとって便利なものを作るのか、難しいところですね。

さて、その「そごう」。

約10年後に経営破綻してしまい、長屋王の邸宅跡につくられた「奈良そごう」も閉店してしまったのです。

人々は言いました、「これは長屋王の祟りに違いない…」と。

長屋王の呪い、こわすぎる…

729.jpg

「そごう」の経営破綻が長屋王の祟りによるものかどうかは分かりませんが、
「奈良そごう」の跡地は、現在「イトーヨーカドー奈良店」となっています。
かたすみにここが「長屋王の邸宅跡」であることを伝える説明板がありますし、
店舗の裏手には長屋王をお祀(まつ)りした祠(ほこら)もありますので、
「イトーヨーカドー奈良店」へ買い物に行かれる際にはぜひ一度ご確認ください。

それでは、今日のゴロ合わせ☆

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次回は、聖武天皇を震撼させた藤原広嗣の乱を取りあげます。
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743年 墾田永年私財法を発令する [年号のゴロ合わせ]

ずいぶん遅くなりましたが、明けましておめでとうございます。
のろのろ更新ではありますが、本年もよろしくお願い申し上げます。



さて、今日は奈良時代の土地制度のラスト、墾田永年私財法を取りあげます。
まずは「墾」の漢字。
間違えずに書けるようにしましょうね!

前回は723年に出された三世一身法について話をしました。
この法令により、期間限定ではありますが土地の私有が認められたんでしたね。

さぁそれから20年後、墾田永年私財法が出されます。
最初に史料を見てみましょう。

(天平十五年(〔1   〕年のこと)五月)乙丑、詔(みことのり)して日(のたまわ)く、「聞くならく、墾田は養老七年の格(〔2   〕のこと)に依(よ)りて、限(げん)満つる後、例に依りて収授す。是(これ)に由(よ)りて農夫怠倦(たいけん)して、開ける地復(ま)た荒る、と。今より以後、任(まま、意のままにということ)に私財と為(な)し、〔3   〕を論ずること無く、咸(みな)悉(ことごと)くに永年取る莫(なか)れ。其の親王の一品(いっぽん)及び一位(いちい)は五百町、(中略)初位(そい)已下(いか)庶人(しょにん)に至るまでは十町。但(ただ)し郡司は大領(たいりょう)少領(しょうりょう)に三十町、主政(しゅせい)主帳(しゅちょう、大領・少領・主政・主帳はいずれも郡司の職名をさす)に十町。若(も)し先より地を給ふこと茲(こ)の限(かぎり)より過多なるもの有らば、便即(すなわ)ち公に還せ。(中略)」と。(出典『続日本紀』)

空欄にあてはまる語句は分かりましたか?
1…743年
2…三世一身法(養老七年に出された格(きゃく)、墾田永年私財法は「天平十五年の格」)
3…三世一身

詔の内容は、
「聞くところによると、墾田は三世一身法にもとづいて期限が過ぎれば回収してきた。
このため農民達が意欲を失って、せっかく開墾した田んぼが再び荒れてしまう、という。
今後は開墾者の意のままに私有地として認め、三世とか一身とかいわず全部永久に回収してはならない。
私有地の限度は、一品の位を与えられた親王と、一位の位を与えられた貴族は500町、(中略)
初位以下の位を与えられた諸臣と庶民は10町とする。
ただし、郡司については大領・少領は30町、主政・主帳は10町を限度とする。
もし以前から土地を与えられていてこの限度を超えているものがあれば、すみやかに朝廷に返却せよ」
です。

なお、このときの天皇は聖武天皇です。

三世一身法が出されてから20年。
本人一代限りの私有が認められた墾田は、そろそろ本人の死去により朝廷が回収している時期です。
さらに、三代にわたる私有が認められた墾田だって、そう遠くない将来に回収されてしまうんだって実感する時期でもありまです。

すると、こうなります。

743.jpg

農民たち、超やる気失います。
だらだらです。
すると、一度はきれいに耕された田んぼも、どんどん荒れてゆきます。

そこで朝廷は、ついに「三代」とか「本人一代」とかのしばりをなくすことを決定します。
公地公民制の崩壊、それが墾田永年私財法です。

じゃぁ農民たちは耕せば耕すだけ土地という財産を手に入れられてラッキーじゃん☆と思いますよね。
そんなオイシイだけの話があるわけないんですよ。

私有が認められた墾田にはきっちり租という税がかかります。
私有地は課税対象なんです。
これを輸租田(ゆそでん)といいます。

土地の私有が認められるということで農民たちにやる気を出させ、
一方でその土地を輸租田として朝廷は税収を確保したのです。
さらに、朝廷の掌握する土地を増やすことにより、土地支配を強化したのです。

ただし、これは貴族や寺院、地方豪族たちの私有地拡大を進めることになってしまいました。
身分によって土地の所有面積に制限をもうけましたが、
有力者たちは国司や郡司の協力のもと、付近の農民や浮浪人らを使用して灌漑施設をつくり、
どんどん大規模な開墾をおこなったのです。
これが初期荘園です。
荘園制度については、また後日まとめプリントで詳述したいと思います。

それでは、今日のゴロ合わせ☆

743年.jpg

743年は、「大仏造立の詔」が発令された年でもあります。
これつていは後日、752年のゴロ合わせでご紹介します。



次回は少し時代を巻き戻して、長屋王の変を取りあげます。
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