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奈良時代(6) [まとめプリント]

今日から2回にわたり天平文化をとりあげます。



天平文化は、聖武天皇と光明皇后の時代、8世紀初頭から末にかけて、平城京を中心にさかえた文化です。
特徴を簡単にまとめると、
・律令国家確立期の華やかな文化
・鎮護国家の思想にもとづく仏教文化
・遣唐使によりもたらされた唐の文化の影響を強くうけた国際色豊かな文化
となります。

奈良6.jpg

最初に、宗教を見ていきましょう。

天平文化がさかえたころ、仏教は国家の保護を受けてますます発展しました。
「仏教には国家を鎮(しず)めて護(まも)る力がある!」という、鎮護国家の思想が根底にあったからです。

なかでも聖武天皇はとくに仏教をあつく信仰し、国分寺建立の詔大仏造立の詔を出しました。
そして、聖武天皇の娘である孝謙天皇の時代には、大仏開眼供養が盛大にとりおこなわれました。

孝謙天皇はのちに重祚して称徳天皇となりますが、
そのさい恵美押勝の乱で亡くなった人々の供養と鎮護国家を願って、
百万塔陀羅尼(ひゃくまんとうだらに)をつくらせます。
奈良時代(3)のイラストでも紹介した、20cmくらいの木製の三重塔、これを100万個つくり(す、すごい数……)、
法隆寺や東大寺など10のお寺に10万個ずつおさめたものが「百万塔」(ひゃくまんとう)です。

百万塔の中心部分は、卒業証書を入れる筒みたいな感じで、円筒状の空洞になっていて、
そこに4種類の「陀羅尼経」(だらにきょう)をおさめました。
これをまとめて「百万塔陀羅尼」と呼ぶわけです。

陀羅尼経はなかなか長いお経なんだそうです。
なかなか長いので、さすがのお坊さんもよんでいる最中についウトウト…zzz
そんなときに登場するのが、「陀羅尼助丸」(だらにすけまる)です。

ご存知ですか?
奈良県の吉野を中心につくられている、にがーいにがーい胃腸薬です。

無題.png
(フジイ陀羅尼助丸HPより)

こんな感じで、ボトルに小さくて黒い粒がたっぷり入っています。
これ、成人の服用数が1回あたり30粒なんですよ(製品により異なるようですが)。
なので、10粒ずつすくえるスコップみたいな便利グッズまでついています。

薬を1回にたくさん飲むのってなかなか難しいですよね…
飲み込むのに失敗して、口の中に陀羅尼助丸が数粒でも残ろうもんなら…んもうにがいことにがいこと……

私の陀羅尼助丸との出逢いは、小学生のときでした。
田舎に住むおばあちゃんが農協の遠足で吉野に行って、まさかまさかでこれを買ってきてくれたのです。
孫へのお土産がなぜ「陀羅尼助丸」という物々しい名前の胃腸薬なんだと…
本気でショックでした…
でもそれ以来、お腹が痛くなったら陀羅尼助丸に頼っていましたねぇ…にがかったけど。

すいません、話がそれました。
陀羅尼経の話に戻しましょう。

なかなか長い陀羅尼経をよんでいる最中、ついウトウト…
そんなとき、口に入れて頭をシャッキリさせよう!と生まれたのが、このにがい陀羅尼助丸なのです。
現代でいう「フリスク」みたいなもんですね(笑)

ところでこの陀羅尼経、百万塔に入れるということは、100万枚必要なわけです。
いまならコピー機をピッとすれば簡単に印刷できますが、
(それでも100万枚となればすごい時間かかるでしょうね…コピー代も1枚10円で1000万円かかりますしね…)
もちろん奈良時代にコピー機なんてありません。
そこでどうするかというと、お経の版画をつくるのです。

小学生の時に版画ってやりませんでしたか?
私も小学生のとき、木を彫ってつくった作品の上に紙をのせ、
バレンという他ではまず見ることのない画材でもって執念深くこすりたおした記憶があります。

版画のもとになる作品を木でつくると木版(もくはん)、銅製の板でつくると銅版(どうばん)、と呼ばれます。
陀羅尼経は木版か銅版か定かではないのですが、年代の明白な世界最古の印刷物なんだそうです。
すごくないですか?世界最古なんですよ!!

100万個つくられた百万塔陀羅尼は、現在 法隆寺が4万5000個ほど所蔵しているほか、
博物館や個人がいくつかもっているようです。

なお、「中川政七商店」という奈良の老舗が手がける「遊中川」というブランドからは、

遊中川.png

こんな百万塔柄のバッグまで発売されています(左から2番目のグリーンのです)。
お、おしゃれじゃないか!百万塔!!

百万塔陀羅尼だけでずいぶん長々と語ってしまいました…
先に進みましょう!!

奈良時代、国分寺や大仏、百万塔陀羅尼がつくられたほか、
お寺の田んぼ(寺田、じでん)は税が免除される不輸租田(ふゆそでん)であったり、
お坊さんの課役は免除であったりと、国家は仏教を手厚く保護します。

一方で、厳しい統制をかけました。

お坊さんと尼さんを僧尼令(そうにりょう)という法律で規制し、
さらに僧綱(そうごう)というお坊さんの官職をもうけて彼らの監督にあたらせたのです。

そんなお坊さんたちによって、このころ南都六宗(なんとろくしゅう・なんとりくしゅう)が形成されます。
三論宗(さんろんしゅう)・成実宗(じょうじつしゅう)・法相宗(ほっそうしゅう)
倶舎宗(くしゃしゅう)・華厳宗(けごんしゅう)・律宗(りっしゅう)の6種類をまとめた名称です。
これらは、のちの浄土真宗や曹洞宗といったような実践方法の異なる宗派(しゅうは)ではなくて、
あくまでも仏教を研究するための学派(がくは)、つまり学問グループです。
それぞれ学ぶテーマを設定して研究するのです。
大学に文学部や法学部、理学部がある、ザックリそんな感じと思ってください。

たとえば、律宗は戒律をテーマに研究する学問グループです。
鑑真の来日によってちゃんとした戒律がもたらされ、律宗はますますさかんになりました。

また、華厳宗は華厳経(けごんきょう)というお経をテーマに研究しました。
この学問グループの中心人物は、良弁(ろうべん)というお坊さんです。

奈良6-1.jpg

赤ちゃんのころ、まさかのワシにさらわれるという悲しい過去を持る男です。
その後、お寺の杉の木に引っかかっているところを義淵(ぎえん)というお坊さんに救われます。
そして、義淵のもとで修行して立派なお坊さんとなり、のちのち東大寺の初代別当(べっとう)になったそうです。
ちなみに、お母さんとは30年後に再会できたそうですよ。

次に、社会事業をみていきましょう。

法相宗を学んだ行基(ぎょうき)というお坊さんは、
貧しい人を救済する施設をつくったり、必要な場所に橋をかけたり、様々な人助けをおこないました。
当時、お坊さんがお寺の外で活動することは僧尼令によって禁止されていたので、
行基はたびたび朝廷から弾圧されました。
しかし、大仏造立の詔が発令されて以降、大仏の造立に力を尽くす行基の行動は朝廷を動かし、
お坊さんにとって最高の地位である大僧正(だいそうじょう)を日本で初めて授かることになったのです。
行基はその後も大仏の造立に協力しましたが、大仏の完成を見ることなく81歳でこの世を去りました。

次に、聖武天皇の奥さんである光明皇后です。
彼女は平城京に悲田院と施薬院をつくります。
前者は孤児・病人を収容する施設、後者は病人に薬を施して治療する施設です。

また、宇佐八幡神託事件でちらっと登場した和気広虫(わけのひろむし)は、恵美押勝の乱ののち捨て子の養育に当たりました。

続いて、教育を取りあげます。

官吏を養成するための学校として、中央に大学、地方に国学がおかれました。
式部省の管轄下にあった大学は、貴族の子弟などを対象に、
明経道(みょうぎょうどう)・明法道(みょうぼうどう)・紀伝道(きでんどう)などの教科を学びました。
また、各国の国府につくられた国学では、郡司の子弟などが学びました。
大学・国学を修了したのち試験に合格すれば、官吏として朝廷に仕えることができたのです。

最後に歴史・文学を見ておきましょう。

律令国家が確立すると、「ここは日本という国なんだ!」という国家意識が高まります。
すると、「どうしてこの国には天皇がいるのだろう…」とか、「なぜこの国は朝廷によって統治されているのだろう」とか、さまざまな疑問をもつ人があらわれます。
こういった疑問にこたえるためもあって、
8世紀に入るとたてつづけに『古事記』『風土記』『日本書紀』が編纂されます。
それぞれの詳細はゴロ合わせのところで述べましたので、リンクで飛んでください。

文学では、漢詩集と和歌集が編纂されます。

751年、現存最古の漢詩集である『懐風藻』(かいふうそう)が成立します。
当時、漢詩文は貴族・官人の教養であったので、
『懐風藻』には大友皇子・大津皇子・長屋王など、名だたる有名人の作品が残されています。

このほか、すぐれた漢詩文の作者として、石上宅嗣(いそのかみのやかつぐ)や淡海三船(おうみのみふね)の名前が伝わっています。
両者ともに『懐風藻』の編者ではないか?という説がありますが、定かではありません。
なお石上宅嗣は、日本最初の公開図書館である芸亭(うんてい、「芸」の字くさかんむりは「十 十」と離れて書きます)をひらいたことでも知られます。

また、770年ごろには『万葉集』(まんようしゅう)という有名な和歌集が成立します。
宮廷の歌人や貴族の和歌だけでなく、東歌(あずまうた)や防人歌(さきもりうた)といった東国の民衆たちがよんだ作品も収録されています。
このころはまだ平仮名も片仮名も存在しませんので、すべて漢字で書かれています。
漢字の音・訓を当て字にして日本語を表記した「万葉仮名」(まんようがな)です。

代表的な歌人は、柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)や山上憶良・大伴家持(おおとものやかもち)などです。
山上憶良の「貧窮問答歌」も『万葉集』に収録されているんでしたね!

『懐風藻』は漢詩、『万葉集』は和歌、しっかり区別しておきましょう。

長くなりました。
それでは、最後に解答を載せておきます。

奈良6解答.jpg



次回は、天平文化の続き、建築物や仏像などを取り上げます。

画像出典
http://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0071894
http://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0085864
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奈良時代(5) [まとめプリント]

今日は、奈良時代~平安時代の日本と東アジアの国々との関係をみていきましょう。



奈良5.jpg

まずは、唐との関係です。

618年、隋にかわって中国を統一した唐は、長安を都とする大帝国をアジアに築きます。
中国の王朝の覚え方は、弥生時代(4)をご覧くださいね。

日本は、630年に初めて遣唐使を派遣します。
誰が派遣されたか覚えていますか?
最後の遣隋使としても知られる、犬上御田鍬でしたね!
しっかり復習しておきましょう。

遣唐使は、894年に派遣が中止されるまで、10数回海を渡っています。
これまで登場した人物でいうと、高向玄理や山上憶良、吉備真備・玄昉がそうです。

吉備真備・玄昉とともに唐にわたった人物に、阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)がいます。

当時の唐は、楊貴妃(ようきひ)を愛したことで知られる玄宗(げんそう)が皇帝の時代です。
といっても玄宗が楊貴妃にメロメロになる以前、
「開元の治(かいげんのち)」と呼ばれる立派な政治をしていたころです。

阿倍仲麻呂は、唐の国家公務員試験である科挙(かきょ)に合格し、唐の役人になります。
中国人でも超難関の試験に、日本人が合格したのです。
阿倍仲麻呂はとてつもない秀才だったのでしょう。
玄宗に気に入られて様々な役職に抜擢(ばってき)されて活躍し、
李白(りはく)や王維(おうい)といった有名な詩人たちとも交流します。

異国の地でがむしゃらに頑張ってきた阿倍仲麻呂。
気が付けば日本を離れて30年以上がたっていました…
50歳を過ぎた阿倍仲麻呂は、帰国を決意します。

唐を離れる直前に催された送別会で、阿倍仲麻呂は次の歌を披露したようです。

「天の原(あまのはら) ふりさけみれば 春日なる 三笠(みかさ)の山に いでし月かも」

奈良5-1.jpg

百人一首にも採用された有名な歌です。
「唐の大空を見上げてみると月が美しい、
この月はふるさとの春日にある三笠山で見える月と同じなんだなぁ…」 というような意味です。

唐を去る気持ち、故郷である大和国への気持ちをこの歌にこめた阿倍仲麻呂は、
753年に日本へ向けて出航します。

が!!
暴風雨にあい、現在のベトナムあたりに命からがら漂着します。
鑑真の来日のところでも触れましたが、当時の船旅というのは本当に命がけだったんですね…

遣唐使は「よつのふね」という別名があるように、基本的に4隻で派遣されます。
このうち無事に唐へ到着できるのは、だいたい1隻か2隻だったそうです…

「生きて目的地につけるかどうかはフィフティーフィフティーです!!」
なんて旅、行きたいですか?
ぜっっったいにイヤですよね…

でも、そんな危険な旅でも行きたい!!と願う先が唐だったのです。
それだけ魅力的な国だったのでしょうね…

さて、ベトナムから長安に戻った阿倍仲麻呂は再び唐の役人となり、
日本に戻ることなく73年の生涯を閉じます。
このように、帰国することなく異国で亡くなることを「客死(かくし)」といいます。

そういえば…藤原広嗣の乱のところで紹介した「吉備大臣入唐絵巻」。
唐に渡った吉備真備のピンチを救った鬼の正体は、阿倍仲麻呂でしたよね…

ん?吉備真備と阿倍仲麻呂って一緒に唐へ渡ったメンバーなんですよね。
ということは、この2人、顔見知りです。
吉備真備は752年に再び遣唐使として唐にやってきますが、
そのとき阿倍仲麻呂は帰国しようかな…と考えながら唐にいます。
そう、生きてます。
「吉備大臣入唐絵巻」に登場する鬼は、阿倍仲麻呂の生霊(いきりょう)ってことなんでしょうかね…

次に、吉備真備・玄昉・阿倍仲麻呂とともに唐へ渡った人物である
井真成(せいしんせい、いのまなり)も紹介しておきましょう。

2004年に中国の西安(長安があった場所)で墓誌(ぼし)が発見されたのですが、
そこに「井字真成国号日本」という文字が刻まれていたのです。
いまのところ、これが「日本」の国号が使用された最古の事例です。

ちょっと前までは大学入試にもちらちら登場しましたが、
墓誌の発見から10年以上が経ったので、最近はあまり見かけませんね…
ちなみに、井真成は現在の大阪府藤井寺市(ふじいでらし)の出身だったようなので、
藤井寺市は公式キャラクターとして「まなりくん」というゆるキャラをつくっています…なんてコアな……
語尾は「○○ナリ~!」です。
あはは。

遣唐使として有名な人物は、ほかにも橘逸勢・最澄・空海などがいます。
これについては後日お話しようと思います。

さて、唐への航路はというと、最初は朝鮮半島に沿ってゆく北路(ほくろ)でした。
しかし8世紀になると、南路(なんろ)をとるようになります。
このころ新羅との関係が悪化したので、遣唐使船も新羅の近くを通ることを避けたのです。
南路は途中で経由する島がほとんどないので、危険なんですよね…
コンパスもGPSもない時代、目の前に広がる海だけを見てひたすら航海するのは、怖いでしょうね…
大陸が見えたときの喜びはいかばかりかと。

そんな危険をおかしてでも行きたいと思う魅力的な唐ではありましたが、
755年に安史(あんし)の乱、さらに875年に黄巣(こうそう)の乱が起こり、どんどん衰退してゆきます。
894年、菅原道真はそんなガタガタの唐に行く必要はないと判断し、遣唐使の派遣中止を建言したわけです。

次に、767年に朝鮮半島を統一した新羅との関係をみましょう。

日本は、天智天皇のころから遣新羅使(けんしらぎし)を派遣し、
新羅もまた日本に使者を派遣するなど、両国の交流はさかんにおこなわれます。
しかし7世紀末ごろ、日本が新羅を従属国として扱おうとしたため両者の関係は悪化してしまいます。
結果、遣唐使は新羅の近くを航行することができなくなってしまいます。
ともあれ、民間の商人たちは往来を続けたようです。

最後に、渤海(ぼっかい)との関係です。

東満州・沿海州に栄えたツングース系の靺鞨族(まっかつぞく)や旧高句麗の遺民による国で、
7紀末に建国されて以降、新羅の北方にどんどん領土を広げます。
渤海は唐や新羅に対抗するため、日本に使者を派遣して国交を求めます。
新羅とモメていた日本はこれに応え、両国はとても仲よくなります。

渤海から日本にやってきた使者は、
まず現在の石川県につくられた能登客院(のときゃくいん)や福井県につくられた松原客院(まつばらきゃくいん)という施設に宿泊し、
そのあと平安京に到着すると鴻臚館(こうろかん)という施設で手厚く接待されたようです。

日本海沿岸で渤海系の遺物がたくさん出土したり、また渤海の宮都跡から大量の和同開珎が出土したりと、
考古学の面からも両国の友好的な関係をうかがうことができます。

それでは、最後に解答を載せておきましょう。

奈良5解答.jpg



次回から2回にわたり天平文化を取りあげます。

画像出典
http://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=638
http://www.craftmap.box-i.net/
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奈良時代(4) [まとめプリント]

前々回・前回のまとめプリントの右側にある、民衆と土地政策を改めてみていきましょう。



奈良4.jpg

奈良時代になると、縄文時代から続く竪穴住居が廃(すた)れ、
平地式の掘立柱(ほったてばしら)住居が普及しはじめます。
竪穴住居も平地式の掘立柱住居も、柱を直接ズボッと土に埋め込んで建てられたものです。
両者の決定的な違いはなにかというと、
竪穴住居がタテに穴を掘ってつくる半地下の住宅であるのに対して、
平地式の掘立柱住居は土を掘ることなく、地面そのものの上に生活する住宅だというところです。

この時代の結婚は、夜な夜な男性が女性の家に通う妻問婚(つまどいこん)が一般的です。
子どもが生まれれば、お母さんの一族が養育します。
こういったことも相まって、女性の発言権が強い時代だったようです。

農民の負担はというと、それはそれは大変です…

まずは班給された口分田の耕作、そして租の納入です。
さらに、乗田(じょうでん、余っている公の田んぼ)などを1年という期限つきで借りて耕作し、
収穫の1/5を地子(じし、レンタル料)として政府などに納入する賃租(ちんそ)をおこなうことがあります。
そして、男子には調・庸・運脚、そして雑徭・兵役などが課せられます。

たいへん……

ほんとたいへん……

これにくわえて、日照不足や雨不足などの天候不順や、害虫などによって飢饉が起こることもあります。

ますますたいへん……

そんな農民の苦しみを描いたのが、
山上憶良(やまのうえのおくら)の「貧窮問答歌(ひんきゅうもんどうか)」です。

「ボロボロの服を着て、ボロボロの家で地べたにワラを敷いて、家族みんな寄り添って泣いています…
カマドには火の気がなく、米を蒸す道具であるコシキには蜘蛛の巣がはってしまい、
ご飯を炊くことも忘れてしまったようです。
そんな貧乏な家に、里長はムチをもって現れるのです…」てな絶望的な内容です。

里長…鬼ですね…

有名なこの歌、出典は『万葉集(まんようしゅう)』です。

そんなたいへんな毎日を送る農民たちなので、8世紀ごろになると行方をくらます者が現れるようになります。
浮浪(ふろう)・逃亡(とうぼう)です。

浮浪は本籍地から逃げ出してふらふらしているところを見つかってしまった者です。
見つかると基本的には本籍地に強制送還されますが、
本籍地がどこかって聞かれても字も読めないし書けないしそんなの分かんないよ、帰れないよ…
などの場合、浮浪人専用の戸籍に登録され、その地で税を課せられます。

逃亡は防人や衛士などに従事している間に脱走し、行方をくらませて見つかっていない者です。
なので、調や庸を納めずに済んでいます。

ただし、両者の区別は当時から曖昧だったようなので、
浮浪・逃亡は厳密に区別するのではなく、セットで覚えておくとよいでしょう。

では、このふらふらしている人たちは今後どうするのでしょうか…

すでに墾田永年私財法が発令されているこのころ、貴族や大寺院は私有地の拡大に夢中です。
この私有地を、初期荘園と呼びます。

私有地を拡大するには、人手がたくさん必要です。
そこで、こういったふらふらしている人たちをどんどん雇うわけです。

奈良4-1.jpg

土地に関する法令は、
百万町歩の開墾計画三世一身法墾田永年私財法の順でしっかり整理しておきましょう。
それぞれのゴロ合わせのページも参考にしてくださいね!

さて、農民はなんとか重い税から逃れようと色んな作戦を決行します。

貴族などの従者である資人(しじん)になろうとする者、
勝手にお坊さんになろうとする者(私度僧)、などなどさまざまです。

また、このころの戸籍で、55人中45人が女子、というものが残っています。
いやいや、いくらなんでもこれはありえないでしょう……
男子の税はとてつもないので、男の子が生まれても戸籍には女ということで登録したのでしょう。
ほかにもやたら長生きな人が見受けられます。
このように、戸籍を偽(いつわ)ることを、偽籍(ぎせき)といいます。

つーか、こんなん絶対バレますやん……

役人もグルっぽいですよね………

とにもかくにも、こんなことをしなければならないほど、
この時代の農民たちは大変な毎日を送っていたのだということです。

それでは、最後に解答を載せておきましょう。

奈良4解答.jpg



次回は遣唐使についてまとめます。
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奈良時代(3) [まとめプリント]

前回に引き続き、奈良時代の政治の流れを見ていきます。



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仏教に夢中の聖武天皇は、光明皇后との間に生まれた娘に天皇の位を譲ります。
孝謙天皇の誕生です。

孝謙天皇の時代、実権を握ったのは、藤原武智麻呂の子である藤原仲麻呂です。
彼は、おばさんにあたる光明皇太后(藤原武智麻呂の妹)を後ろ盾として、どんどん力をつけてゆきます。
そんな藤原仲麻呂を排除しようと、橘諸兄の子である橘奈良麻呂が挙兵しようとして失敗します

こののち孝謙天皇は、藤原仲麻呂が擁立する淳仁天皇に譲位します。
藤原仲麻呂は、自分を「父」と慕ってくれる淳仁天皇から「恵美押勝」の名をもらうなど絶好調。
ますます力をつけてゆきます。

そんなおり、光明皇太后がこの世を去ります。
藤原仲麻呂は、大切な後ろ盾を失ってしまうのです。
さらに、病気の孝謙太上天皇にイケてる僧侶、道鏡がちかづきます。

道鏡を寵愛するようになった孝謙太上天皇は、政治に対する意欲を取り戻します。
そして、淳仁天皇と藤原仲麻呂の政治を批判しはじめるのです。
イトコにあたる孝謙太上天皇からそんなことされちゃぁ、藤原仲麻呂もショックでしょうよ…
藤原仲麻呂は道鏡を排除しようと挙兵しますが敗死し、
淳仁天皇も廃位に追い込まれ、淡路島に流されてしまいます。

結果、孝謙太上天皇は重祚し、称徳天皇となって道鏡とともに政治を開始します。

奈良3-1.jpg

太政大臣禅師、さらに法王となった道鏡は、
宇佐八幡宮の神様を利用して皇位を手にしようとしますが失敗し、
称徳天皇の死後、下野薬師寺の別当に追放されてしまいます。

かわって即位したのは、天智天皇の孫にあたる光仁天皇です。
皇統は、天武系から天智系へとうつります。
実権をにぎるのは、藤原百川です。
藤原宇合の子ですので、藤原式家の人間です。

藤原式家、ここはあとに繋がる重要なところですので、しっかりと覚えておきましょう!

780年には、蝦夷の伊治呰麻呂(これはりのあざまろ・これはるのあざまろ)が東北地方で反乱を起こします。
724年、現在の宮城県につくられた多賀城をおとしいれるほど大規模な反乱で、
こののち東北地方はしばらく戦争が続くことになります。

それでは、最後に解答を載せておきます。

奈良3解答.jpg



次回は、奈良時代の土地制度をまとめます。

画像出典
http://www.craftmap.box-i.net/
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奈良時代(2) [まとめプリント]

前回に続き、奈良時代の政治の流れを見ていきましょう。



奈良2.jpg

様々な功績をのこした元明天皇は、自らの年齢を理由に譲位します。
元明天皇の孫にあたる男の子がまだ幼かったため、娘(文武天皇のお姉ちゃん)が天皇の座につき、
元正(げんしょう)天皇が誕生します。
実権は、引き続き藤原不比等が握ります。

藤原不比等の死後、権力を手にしたのは長屋王です。
この時代、百万町歩の開墾計画三世一身法といった土地政策がうちだされます。
詳しくは、それぞれゴロ合わせのページを参考にしてください。

長屋王の変によって長屋王がこの世を去ったあと、藤原不比等の息子たち4人が権力を握ります。
 長男 南家(なんけ)の武智麻呂(むちまろ)
 次男 北家(ほっけ)の房前(ふささき)
 三男 式家(しきけ)の宇合(うまかい)
 四男 京家(きょうけ)の麻呂(まろ)
まとめて藤原四子(ふじわらしし・ふじわらよんし)です。
妹の光明子(こうみょうし)を聖武天皇の皇后にしたのも彼らです。
しかし、天然痘(てんねんとう)によって彼らは次々とこの世を去ります。

次に権力を握ったのは、橘諸兄(たちばなのもろえ)です。
彼は、唐から帰国した吉備真備(きびのまきび)と玄昉(げんぼう)を重用します。
ほどなく、九州で藤原広嗣の乱が起こります。
藤原宇合の子である藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)が、吉備真備と玄昉を排除すべく反乱を起こしたのです。

これに驚いた聖武天皇は、引っ越しライフを開始します。
平城京を出て、恭仁京(くにきょう)・難波宮(なにわのみや)・紫香楽宮(しがらきのみや)をうろうろします。
そのさなかに出されたのが、国分寺建立の詔と、大仏造立の詔です。
国分寺・国分尼寺や大仏をつくることで国家の安泰をはかろうとしたわけです。
仏教の鎮護国家(ちんごこっか)の思想ですね。

なお、大仏造立の詔が出された年には、墾田永年私財法が発令されています。
公地公民制が崩壊し、荘園制が始まることとなります。

最後に解答を載せておきましょう。

奈良2解答.jpg

藤原四子は4色使って色分けしておくと、あとあと便利ですよ~♪



次回も奈良時代の政治の流れをおいましょう。
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奈良時代(1) [まとめプリント]

たいへんご無沙汰してしまいました。



今日から奈良時代に突入です。

奈良1.jpg

文武天皇の死をうけて、元明天皇が誕生します。
天智天皇の娘で、文武天皇のお母さんにあたる人物、すなわち女性天皇です。
ゴロ合わせでたびたび登場した人物ですね。

708年 和同開珎を鋳造する
710年 平城京に遷都する
711年 蓄銭叙位令を制定する
712年 『古事記』を編纂する
713年 『風土記』の編纂を命じる
彼女の功績については、以上のページを参考にしてください。

では、地方社会の様子を見てみましょう。

このころ、朝廷の支配は大和を中心にどんどん広がっていましたが、
大和から遠い地域、すなわち東北や南九州のあたりには、その支配に抵抗する人々がいました。

このような、朝廷の支配にしたがわない人々のうち、
新潟・東北地方・北海道南部に住むものを蝦夷(えみし)、
鹿児島あたりに住むものを隼人(はやと)と呼んで、朝廷はそれぞれ異民族とみなしました。

朝廷は彼らを支配下に入れるべく、
712年に現在の秋田県・山形県のあたりに住む蝦夷を平定して出羽国(でわのくに)を、
翌713年には現在の鹿児島県の東部に住む隼人を平定して大隅国(おおすみのくに)を設置しました。

このころの行政区分は、国-郡-里ですよね。
朝廷は平定したそれぞれの地域に新しく国を設置し、中央から国司を派遣して支配したのです。

また、蝦夷については、「夷を以(もっ)て夷を制する」政策もとられました。
朝廷に帰順(きじゅん)した蝦夷を、朝廷に抵抗する蝦夷と戦わせることもあった、ということです。
蝦夷に対する政策はまだまだ続くので、後日まとめてお話ししようと思います。

続いて、平城京遷都です。
これについてもゴロ合わせの
710年 平城京に遷都する
に詳述しましたので、参考にしてください。

まとめプリントには、平城京の簡単な図を載せておきました。
まさに碁盤の目のように、東西・南北に道が整備されているのが分かりますね。
これが条坊制です。

条坊制と条里制の区別はついていますか?

奈良1-1.jpg

条坊制は都市計画で、条里制は農村計画です。
間違えないように!

いずれも東西、すなわち横の空間を「条」と呼びます。
北から南にいくにつれ、一条・二条…と数字が大きくなります。

条坊制は南北、すなわち縦の空間を「坊」と呼びます。
朱雀大路から離れるにつれ、一坊・二坊…と数字が大きくなります。

この条と坊によって、住所があらわせるわけです。
では!次の住所は分かりますか?

Q1、唐招提寺
Q2、東市
Q3、興福寺

数え間違いのないようにしてくださいよ~!
平城京の北側は道が入り組んでいてややこしいので、
「条」については南から北へ、すなわち九条から一条にむかってカウントする方が分かりやすいです。

A1、右京五条二坊
A2、左京八条三坊(東市と西市は左右対称ではありません!西市は右京八条二坊です)
A3、左京三条七坊(外京を左京の一部と考える)

正解しましたか?

逆のパターンもトライしてみましょう。

長屋王の邸宅は、左京三条二坊(現在イトーヨーカドーがあるんでしたね!)、
藤原仲麻呂の邸宅は、左京四条二坊にあったようです。

プリントにある平城京の図に書き込めますか?

いずれも平城宮のすぐ近くに住んでいたことが分かりますね。
エライ人ほど、通勤に便利な場所に邸宅を構えていたということです。

それでは、最後に解答を載せておきましょう。

奈良1解答.jpg

平安京遷都にそなえて、ここでしっかり条坊制を理解しておきましょうね。



次回から、奈良時代の政治の流れを見ていきます。

画像出典
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E5%90%8C%E9%96%8B%E7%8F%8E
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%8B%E5%85%83%E9%80%9A%E5%AE%9D
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%9F%8E%E4%BA%AC#/media/File:Heijokyo.jpg
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飛鳥時代(11) [まとめプリント]

今日は、古代の行政区画を見てみましょう。
9世紀ごろの様子です。



飛鳥11.jpg

教科書の表紙をめくったところなんかに載っている地図ですね。

このころ、沖縄と北海道は朝廷の支配下にありませんので、失礼ながら割愛しています。
お住まいの方、ごめんなさい…

さて。

現在、本州・四国・九州は45の都道府県にわかれていますが、
地図を見るともっと細かく区分されていることが分かりますね。

これは、古代の行政区分である国-郡-里(郷)の国です。
つまり、68の国にわかれているということなのです。

68も覚えるのは本当に大変ですよね~…
しかも厄介なことに、すべての国名が漢字2文字なんです。

なぜかというと、元明天皇が『風土記』の編纂を命じた同じ年に、
「全国の地名を漢字2文字にしましょう」という命令を出しているからなのです。

飛鳥11-1.jpg

これにより、3文字や1文字だった地名が漢字2文字に統一されたのです。

なお、それぞれの読み方は、国名のあとに「国」をくっつけて「○○のくに」となります。
たとえば「陸奥国」は、「むつこく」ではなくて「むつのくに」と読みます。

聞いたことのある国名もありますよね!
なかでも四国は覚えやすいです。

讃岐(さぬき)といえば、「うどん県」こと香川県。
伊与(いよ)といえば、イヨカンなどのみかんがたくさんとれる愛媛県。
阿波(あわ)といえば、阿波踊りがおこなわれる徳島県。
土佐(とさ)といえば、土佐犬や土佐カツオが有名な高知県。

覚えられましたか?

一方、覚えにくいのが九州です。

越前・越後、備前・備後、豊前・豊後、筑前・筑後、肥前・肥後…とあるように、
「前」「後」がつく国名がとくにややこしいんですが、九州はこれが多いんです…

ちなみに、肥後(ひご)は現在のどの都道府県のことか分かりますか?

♪ あんたがったどっこさ ひっごさ ひっごどっこさ…

こんな歌をうたいながらボールをダムダムした記憶ってありませんかね?
この歌詞の続きはというと、「熊本さ」ですよね。
そう、実はこの歌、「肥後はどこですか?」「熊本だよ」と歌っているのです。

難関の九州、頑張って覚えて下さいね!!

それから、七道もしっかり覚えておきましょう。

ややこしいのが、紀伊(きい)と淡路(あわじ)です。
和歌山県と、兵庫県の淡路島のことなのですが、
これらは現在近畿地方に区分されていますよね。
しかし七道では、四国と同じ南海道に区分されますので注意して下さい。

それでは、最後に解答をのせておきましょう。

飛鳥11解答.jpg

こんな感じで8色つかって色分けすると見やすいですよ!



では、次回からいよいよ奈良時代に入ります。

画像出典
http://www.craftmap.box-i.net/
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飛鳥時代(10) [まとめプリント]

律令制度のラストは、ややこしい租税制度をとりあげます。



飛鳥10.jpg

律令国家において民衆は、戸(こ)または郷戸(ごうこ)という組織に編成されます。
戸主(こしゅ)というリーダーを中心とする、家族+血のつながりのない居候(いそうろう)や奴婢(ぬひ)もふくめる、25人ほどの大きなグループです。

さらに717~740年ごろ、すなわち8世紀前半の一時期には、
戸(郷戸)を2~3つに分けて、房戸(ぼうこ)という組織が新設されました。
房戸は10人ほどのグループで、血のつながりのある家族で構成されるケースが多かったようです。

2~3つの房戸で1つの戸(郷戸)が構成され、
50の戸(郷戸)で1つの里(717年ごろから郷)が構成されたのです。

戸(郷戸)を単位として6年ごとに作成されるのが戸籍であり、
戸籍を基本台帳としておこなわれるのが班田収授法です。

班田収授法では、6歳以上の男女に口分田(くぶんでん)が与えられますが、
性別・身分によってその面積は異なります。

一般(良民+官有の賤民)の男子に与えられる口分田の面積は、2段(たん・反)です。
1段は360歩(ぶ)なので、360歩×2段=720歩となります。
ちなみに、1歩は3.3㎡なので、720歩は2376㎡です。
オリンピックの競技プール(50m×25m)2つ分よりすこし狭いくらいをイメージしてください。

女子に与えられる口分田の面積は、男子の2/3です。
一般女子は、720歩×2/3=480歩、すなわち1段120歩の口分田がもらえることになります。

また、奴婢(私有の賤民)の口分田は、一般の1/3です。
奴(ぬ・賤民の男子)は、720歩×1/3=240歩
婢(ひ・賤民の女子)は、480歩×1/3=160歩となります。

ここでいう奴婢とは、五色の賤のうち私有のもの、すなわち家人と私奴婢をさします。
官有の陵戸・官戸・公奴婢は一般と同額の口分田が班給されますので、注意してください。

ちなみに、口分田は売買が許されず、死ぬまで耕し続けなければなりません。
死者の口分田は、6年ごとの班年(はんねん)に収公(国家が回収すること)されます。
班年とは、口分田が班給される年のことで、だいたい戸籍調査の翌年となります。
戸籍調査の段階で6歳以上になっていなければ、口分田の班給は次の班年まで待たねばなりません。

飛鳥10-1.jpg

6歳になりましたねハッピバースデー!と、すぐにもらえるわけではないのです。

さて、このころ田んぼは国家の手によって6町四方に区画されています。
一辺を条(じょう)、もう一辺を里(り)と呼んで、○条○里で土地の場所を示します。
これを条里制(じょうりせい)といいます。
都の条坊制(じょうぼうせい)と混同しないよう注意して下さいね!

次に、民衆の負担を見ていきましょう。

毎年作成する計帳(けいちょう)を基本台帳に、民衆には様々な税が課されます。

まずは課役(かやく・かえき)です。
庸(よう)・調(ちょう)・雑徭(ぞうよう)をまとめた名称で、特権階級である貴族は免除です。
これを負担するものを課口(かこう)と呼び、
課口がいる戸(郷戸)を課戸(かこ)、課口のいない戸(郷戸)を不課戸(ふかこ)と呼びます。

課役は17~65歳の男性が負担します。
17~20歳の男性を、中男(ちゅうなん)または少丁(しょうてい)、
21~60歳の男性を、正丁(せいてい)、
61~65歳の男性を、次丁(じてい)または老丁(ろうてい)と区分します。
なかでもとくに正丁という成人男性の負担はハンパないです。

庸は、歳役(さいえき)とよばれる都での労働です。
正丁は年間10日、次丁はその1/2で年間5日、中男は免除と定められています。
しかし、たかだか10日とか5日の労働のためにわざわざ都まで出向いてられませんので、
大部分が麻布を納めることで代わりとしました。

では、道路をつくったり、朝廷の建物をつくったり、寺院をつくったり、それらを修理したり…
土木工事がさかんにおこなわれる都の労働力はどうするのかというと、
都の近くに住む人々が駆り出されることでまかなわれました。
よって、京・畿内に住む人たちの庸は免除です。

調は、諸国の特産品を1種納めることです。
正丁はもちろんのこと、次丁は正丁の1/2、中男も正丁の1/4がそれぞれ課せられます。
さらに正丁は、調の副物(ちょうのそわつもの)というものまで課せられました。

この庸と調の納入先は、都です。
都までこれらを運ばなければならないのです。
庸と調を都まで運ぶものを運脚(うんきゃく)といいます。

交通網が整った現代でも、わざわざ東京まで税金を納めに行かなければならない、とか面倒ですよね。
この時代、重い庸と調を背負って都まで歩くんですよ?その間の食料はもちろん自前です。
もう超タイヘン…
東北地方から都までだと、1ヶ月以上も歩き続けなければならないんですよ…
想像もつきませんね。
ちなみに、九州に住んでいる人は、大宰府が納入先となります。

雑徭は、年間60日を限度とする地方での労働です。
国司に呼び出されて、道路の修築をはじめとする土木工事なんかをやらされます。
ときには国司の私用に使われることもあったそうです。
正丁は、そんなもんのために2ヶ月も田んぼを留守にしなければならないのです。
まったく公私混同はなはだしいですね…
次丁は正丁の1/2なので年間30日、中男は正丁の1/4なので年間15日が上限となります。

さて、課役以外の負担を見ていきましょう。

兵役は、正丁3~4人に1人の割合で兵士として徴集され、各地の軍団において交代で勤務します。
その間の食料・武器は自弁、すなわち自腹です。
なかには、衛士(えじ)や防人(さきもり)に選ばれるものもいます。
衛士となれば都へ赴き、左衛士府・右衛士府・衛門府に配属されて1年間都の警備にあたります。
防人となれば大宰府へ赴き、3年間北九州の防衛にあたります。
この間、庸と雑徭は免除です。
また、3年間都で雑用をさせられる仕丁(しちょう)というものもあります。

一番の働き手である成人男子が、兵役や仕丁、また運脚などでながらく家を留守にすると、
残された家族も大変なんですよね…
その人の口分田をみんなで耕して、租を納めなければならないわけです。

租は口分田にかかる土地税で、口分田を班給された6歳以上の男女すべてが負担します。
田んぼ1段につき、稲を2束2把(にそくにわ、1束=10把)納入しなければなりません。
田んぼ1段あたりの平均収穫量は稲72束だそうで、税率は3%です。

出挙(すいこ)は、春に稲を貸してもらい、秋に利息つきで返済するという制度です。
もともとは農民の生活維持のために豪族たちがおこなっていた仕組みだったのですが、
次第に強制的な税になってゆきます。
豪族たちがおこなう私出挙(しすいこ)は利息が10割、国家がおこなう公出挙(くすいこ)は利息が5割です。

あとは、凶作にそなえて粟(あわ、栗(くり)ではありませんよ!)を納入し、貯蓄しておく義倉(ぎそう)があります。

たいへん長くなりましたが、以上で律令制度は終了です。

最後に解答をのせておきましょう。

飛鳥10解答.jpg



次回は古代の行政区画をとりあげます。
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飛鳥時代(9) [まとめプリント]

前回に続いて律令制度をまとめていきます。



飛鳥9.jpg

まずは、司法制度をとりあげましょう。

現代の刑法にあたる「律」には、5種類の刑罰が規定されています。
軽い刑罰から順に、笞(ち)・杖(じょう)・徒(ず)・流(る)・死(し)で、
内容はそれぞれ、ムチでボコボコ・ツエでボコボコ・強制労働・島流し・死刑です。
これらをまとめて五刑(ごけい)と呼びます。

また、「八虐」(はちぎゃく)という、天皇・国家・尊属などに対する8種類の重罪も定められています。
謀反(むへん・ぼうへん)・謀大逆(ぼうたいぎゃく)・謀叛(むほん・ぼうはん)は、天皇・国家に対する重罪です。
いずれも「謀」の漢字がついていることから分かるように、これらは謀(はか)る、すなわち計画しただけで死刑となります。
残りの5つ、悪逆(あくぎゃく)・不道(ふどう)・大不敬(だいふけい・だいふきょう)・不孝(ふこう)・不義(ふぎ)、
これらは社会や家族の秩序を乱すということから重罪とされています。

次に、身分制度を見ていきましょう。
この時代の人々は、大きく良民(りょうみん)と賤民(せんみん)にわけられます。

先に良民から見ていきましょう。

官人(かんじん・かんにん)、すなわち役人のなかで位階を授かっているものを有位(ゆうい)といいます。
飛鳥時代(8)のプリントの右上にある位階の表を参考にしてください。
有位のうち従五位下(じゅごいのげ)以上を貴族といい、ものすごい特権が認められています。
正六位上(しょうろくいのじょう)未満~少初位下(しょうそいのげ)は下級官人で、
なかなか休みもとれず、貧しい生活をしていたようです。
ちなみに、下級官人のなかには位階をもたない無位(むい)も存在します。

一般農民は公民(こうみん)と呼ばれ、官人の給与を支えるべく様々な税を負担します。
租税制度については、次回のまとめプリントで詳述します。

それから、雑色人(ぞうしきにん)という、良民と賤民の中間に位置するものもいます。
これは、特殊な技術者集団である品部(しなべ)や雑戸(ざっこ)に所属する人々をさします。

次に、賤民をとりあげましょう。

官有の賤民は、陵戸(りょうこ)・官戸(かんこ)・公奴婢(くぬひ)、
私有の賤民は、家人(けにん)・私奴婢(しぬひ)で、5種類まとめて五色の賤(ごしきのせん)と呼びます。
前者は良民と同じだけの口分田がもらえますが、後者は良民の1/3しかもらえません。
これも次回のまとめプリントで見ていきます。

最後に、貴族の特権をみておきましょう。

貴族は、代々よい位階を授かることができます。
なぜかというと、三位以上の子と孫、五位以上の子は、21歳になるとお父さん・おじいちゃんの位階に応じて一定の位階がもらえるからです。
これを蔭位の制(おんいのせい)といいます。

よい位階につくことができると、官位相当制によってよい官職に就くことができます。
また、庸・調・雑徭などの税負担が免除され、
さらに、位封(いふ)・職封(しきふ)などの食封(じきふ)、位田(いでん)・職田(しきでん)などの田んぼ、
位禄や季禄など、さまざまなお給料もいただけます。

飛鳥9-1.jpg

おじいちゃんが公卿、とか、お父さんが貴族。
そんなよい家柄に生まれれば、よい位階、よい官職、よいお給料が約束されるわけです。

無位からスタートした下級官人なんて、30~40年頑張って働いて働いて五位になれるかどうか…というのに、
貴族の子どもはいきなり六位くらいからスタートして、ぐんぐん昇進するんですよ。
こんなコネ社会、やってられませんな…

ちなみに、貴族は悪いことしても、位階を剥奪されるか、罰金を支払うことで赦(ゆる)されるそうです。
もちろん八虐に該当する場合はダメですけどね。

とにかく、貴族はめっちゃいいご身分だということです。

では、最後に解答をのせておきます。

飛鳥9解答.jpg



次回も律令制度のまとめプリントです。
ややこしい租税制度をとりあげます。
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飛鳥時代(8) [まとめプリント]

久しぶりのまとめプリントです。
これから3回にわたって律令の中身を見ていきます。



飛鳥8.jpg

まずは、律令にもとづく政治の仕組みを取りあげましょう。

中央、すなわち都には、「二官八省一台五衛府」(にかんはっしょういちだいごえふ)が整備されます。
これは現在、日本の中央に1府13省庁がおかれているのと同じような感じです。

「二官」とは、神祇祭祀をつかさどる神祇官(じんぎかん)と、行政の最高官庁である太政官(だいじょうかん)のことです。
いずれも組織の名前です、役職の名前ではありません。

太政官は、太政大臣・左大臣・右大臣・大納言・少納言・左弁官・右弁官などで組織されます。
このなかで一番エライのは、太政大臣です。
ただし、ふさわしい人物がいなければ置かれません、これを則闕の官(そっけつのかん)といいます。
太政大臣がいないとき、太政官のなかで一番エライのは左大臣です。

左弁官(さべんかん)は、中務(なかつかさ)省・式部(しきぶ)省・治部(じぶ)省・民部(みんぶ)省の4省を、
右弁官(うべんかん)は、兵部(ひょうぶ)省・刑部(ぎょうぶ)省・大蔵(おおくら)省・宮内(くない)省の4省を、
それぞれ事務的に統轄します。
これらをまとめて「八省」と呼びます。

このなかで財政をつかさどるのは大蔵省です。
ただし、租税をつかさどるのは民部省ですので、間違えないようにしてくださいね!
大蔵省といえば、日本の行政機関の名称として長く使用されてきましたが、2001年に財務省となりました。
歴史ある名前だったんですがね…残念です……

「一台」は、弾正台(だんじょうだい)のことで、官吏(かんり)、すなわち役人を監察する機関です。
のち検非違使(けびいし)の設置によって、実質的な機能を失います。

「五衛府」は、衛門府(えもんふ)・左衛士府(さえじふ)・右衛士府(うえじふ)・左兵衛府(さひょうえふ)・右兵衛府(うひょうえふ)をまとめた名称です。
いずれも都の警備をつかさどりますが、これも検非違使の設置によって実権を失います。

以上が中央の組織です。
次に、地方を見ていきましょう。

全国は、畿内(きない、五畿(ごき)とも)と七道(しちどう)に分かれます。
畿内の「畿」は、現在も「近畿地方」という名称に使用されていますが、都を意味する言葉です。
ということで、「畿」の周辺である大和・山背(のち山城)・摂津・河内・和泉の5ヶ国を畿内と呼びます。
それ以外の地域は、東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道の七道に区分されます。

さらに、国・郡・里(のち郷)が置かれます。
50戸(こ、1戸は25人前後で構成)で1里、2~20里で1郡、数郡で国が編成されます。
国・郡・里、これは現在の都道府県・市・町みたいな感じです。
ただし、都道府県の総数は47ですが、この時代の国は70近くあります。

畿内・七道、そして律令時代の国名については、後日改めてまとめプリントをアップします。

国・郡・里、それぞれのリーダーは国司・郡司・里長(のち郷長)です。
国司は中央貴族が任命される役職なので、都からやってきた人間がつとめます。
一方、郡司はその土地の有力者から任命される役職なので、地元の人間がつとめます。
国司と郡司の違いを理解しておかないと、平安時代の勉強で苦しむことになりますよ!
いまのうちにしっかり整理しておきましょう。

飛鳥8-1.jpg

次に要地をみていきましょう。

京、すなわち都には、左京職(さきょうしき)・右京職(うきょうしき)が設置され、
それぞれ朱雀大路の東側である左京、西側である右京の民政一般を担います。
さらに、京職の下には坊令(ぼうれい、条令(じょうれい)とも)と市司(いちのつかさ)が置かれ、
前者は各条内のことをつかさどり、後者は東市(ひがしのいち)・西市(にしのいち)という市の監督にあたります。

難波、すなわち現在の大阪には、国司にかわって摂津職(せっつしき)が置かれます。
都がおもに平城京におかれているこのころ、難波宮はサブの都として機能しています。
内陸の都とちがって海に面した難波宮は、外交にたいへん便利だからです。
遣唐使の船も、難波津(なにわづ)という港から出航していました。

北九州、すなわち現在の福岡県太宰府市には、七道の1つ西海道を統轄する大宰府(だざいふ)が置かれます。
律令政府の重要な出先機関なので、「遠の朝廷」(とおのみかど)なんて呼ばれます。
西海道を守る防人(さきもり)をまとめる役所である防人司(さきもりのつかさ)は、ここに所属します。

さまざまな朝廷の組織を見てきましたが、これらに勤める役人には、位階(いかい)が与えられます。
冠位十二階の制に始まるこの仕組み、
このころは正一位(しょういちい)から少初位下(しょうそいのげ)まで30種類に増えています。
五位以上の者は貴族、なかでもとくに三位(さんみ)以上の者は公卿(くぎょう)と呼ばれます。

位階には、それにふさわしい官職、すなわち役職が定められています。
たとえば最もエライ一位なら太政大臣、二位なら左大臣か右大臣といった具合です。
これを官位相当制(かんいそうとうせい)と呼びます。

藤原仲麻呂は正一位で太政大臣に就任しています。
年収は現在の価格に換算すると4億円近かったそうですよ…
う、羨ましい……

最後に、四等官制(しとうかんせい)を見ておきましょう。
各役所の幹部は、4階級で構成されます。
上から長官(かみ)・次官(すけ)・判官(じょう)・主典(さかん)です。
役所によって漢字が異なりますが、原則読み方は同じです。

ちなみに、郡司の四等官は大領・少領・主政・主帳です。
これ、見覚えありませんか?
墾田永年私財法の史料で出てきました。
詳しくは743年のゴロ合わせで確認しておいて下さい。

では最後に、解答を載せておきましょう。

飛鳥8解答.jpg



次回も律令制度の続きをまとめます。

画像出典
http://www.craftmap.box-i.net/
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E7%95%BF%E4%B8%83%E9%81%93#/media/File:Gokishichido.svg
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