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平安時代(9) [まとめプリント]

前回に引き続き、国風文化を見ていきましょう。
今日は、宗教・美術、そして貴族の生活Ⅱ(日常の制約・年中行事・結婚)を取り上げます。

平安9.jpg

まずは、プリントの左側にある宗教です。

①仏教の浸透
みなさんは、神社やお寺でどんなことをお願いしますか?
 「健康で過ごせますように…」
 「夏までに痩せますように…」
 「志望校に合格できますように…」
そんな感じのお願い事が多いのではないでしょうか…

これらのお願い事は、すべて現世利益(げんぜりやく)の追求です。
現世での利益、すなわち、この世での幸せ。
それを叶えて欲しい!というアツい気持ちで、神さまや仏さまにお願いをするわけです。
だって、自分がいま生きているのはこの世なわけですから、
この世で幸せになりたいって思うのはトーゼンじゃないですか!

平安時代の貴族たちも同じです。
現世利益を成就(じょうじゅ)させるため、呪文を唱えるなどして神さまや仏さまに祈るのです。
この行為を、祈祷(きとう、正式な漢字はプリントを見てください…激ムズです!)といいます。
祈祷をおこなう天台宗や真言宗は、
このような現世利益を追求する貴族たちとも結びついて、さらに力を得るようになるのです。

②神仏習合(しんぶつしゅうごう)の発達
神仏習合とは、平安時代(3)でも登場しましたが、
神さま(神社)と仏さま(寺院)に対する信仰が、ごちゃまぜになってしまったもののことです。

このころ、神仏習合のなかから、本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)という考えが生まれます。
日本には神さまがいーっぱいいますが(天照大神(あまてらすおおみかみ)からトイレの神さままでね・笑)、
それらはホントは仏さまで、神さまに形をかえて、この世に現れたものなんだよ、という思想です。
神さまという仮()の姿でれることを、権現(ごんげん)といったりします。

また、それぞれの神さまについて、特定の仏さまがその本地(ほんじ)として定められます。
本地とは、本来の姿、まぁ正体といったところです。
つまり、「この神さまの正体は、あの仏さまなのだ!」ということが、決められるのです。
たとえば、天照大神という神さまの本地は、大日如来(だいにちにょらい)という仏さまなのだそうです。

本地垂迹説、分かりましたか?
ややこしすぎて、頭がこんがらがりそうですね…
ざっくり言うと、見た目は神さまだけど、ホントのところは仏さま!、ということです。

それにしてもこれ、神社からすると不満ですよねぇ…
だって、神社で大切にお祀(まつ)りしている神さまを、仮の姿だ、なんて言っちゃってるんですよ!
とゆーわけで、鎌倉時代の末期になると、
「この仏さまの正体は、あの神さまなのだ!」という反対の説が登場します。
その名もズバリ、反本地垂迹説(はんほんじすいじゃくせつ)!!(笑)
これについては後日、鎌倉文化のところで詳しくご紹介しましょう。

③御霊信仰(ごりょうしんこう)のひろがり
御霊信仰とは、怨霊(おんりょう)や疫神(えきじん)をお祀(まつ)りすることによって、
疫病(えきびょう)や飢饉(ききん)などの災厄(さいやく)から逃れようとする信仰のことです。
この信仰から、御霊会(ごりょうえ)がさかんにもよおされるようになります。
詳しくは、901年のゴロ合わせをご覧ください。

④浄土教(じょうどきょう)の流行
浄土教とは、阿弥陀仏(あみだぶつ)、または、阿弥陀如来(あみだにょらい)と呼ばれる仏さまを信仰し、
来世(らいせ、あの世のこと)において極楽浄土(ごくらくじょうど)に往生(おうじょう)し、
そこで悟(さと)りを得て苦がなくなることを願う教えです。

1052(永承七)年から末法の世に入るという末法思想(まっぽうしそう)を背景に、
また、空也(くうや)、源信(げんしん)または恵心僧都(えしんそうず)、
慶滋保胤(よししげのやすたね)らの活動もあいまって、
人々の間に「この世はもうダメ…せめてあの世で幸せになりたい!」という考えが広がり、
浄土教は、貴族から庶民にいたるまで、爆発的な人気を博するようになります。
現世利益も求めるけど、その現世がぐちゃぐちゃならば、せめて死んでから…!と願うわけですね。
詳しくは、1052年のゴロ合わせをご覧ください。

⑤各地に経塚(きょうづか)が営まれる
経塚とは、法華経(ほけきょう)などのお経を書き写したものを、経筒(きょうづつ)という入れ物におさめ、
地中に埋めた場所をさします。
藤原道長は、奈良の金峯山(きんぷせん)という山に、立派な経塚をつくったようで、
そのとき用いたゴージャスな経筒が、国宝として今に伝わっています。

*   *   *

続いて、貴族の生活Ⅱを見ていきましょう。

①日常の制約
このころの貴族の生活には、いろーんな制約があったようです。
たとえば、物忌(ものいみ)とか方違(かたたがえ)があるのですが、
古典の授業で習いましたか?

物忌は、占いで凶がでたときや怖い夢を見たときなど、
一定期間、特定の建物のなかで謹慎(きんしん)することです。
方違は、外出しようというとき、向かう方角が凶と出た場合は、
前の日に違う場所に一泊するなどして、向かう方角が吉になるようにすることです。
わぁ~、もう現代人からすると、どっちもめんどくさいですね…(笑)

ところで、そもそも誰が凶と判断するのかというと、陰陽師(おんみょうじ)という役人です。
10世紀ごろに活躍した安倍晴明(あべのせいめい)が最も有名ですが、聞いたことありますか?
フィギュアスケートの羽生弓弦選手が、ピョンチャンオリンピックで金メダルを獲得しましたが、
そのときのフリーのテーマは「SEIMEI」。
まさに陰陽師の安倍晴明をモチーフにしたものだったのですよ~。

さて、その陰陽師。
中国で生まれた陰陽五行説(いんようごぎょうせつ)という思想に基づいて、
さまざまな呪術や祭祀に携わります。
また、星の動きや暦などから吉凶も占い、貴族の生活にも影響をおよぼすようになるのです。

「ちゃんと制約守って生活してんのに、全然いいことないじゃん!」と、この世に失望し、
ますますあの世に期待して浄土教を信仰する貴族もいたようです。

②年中行事(ねんじゅうぎょうじ、または、ねんちゅうぎょうじ)
朝廷において、毎年同じタイミングでおこなわれる儀式のことです。
日本古来の風習や、中国に起源のあるものなど、
さまざまな行事が、宮廷生活のなかで儀式として洗練・発達してゆきます。
いくつか例をあげておきましょう。
現在もおこなわれているものが、結構ありますよ!

●神事(しんじ)
・大祓(おおはらえ)
…毎年6月と12月の晦日(みそか、最終日のこと)におこなわれる
 人々についた罪・穢(けがれ)・災(わざわい)などを取りのぞいて清浄にする儀式
・賀茂祭(かものまつり)、または、葵祭(あおいまつり)
…毎年4月におこなわれる賀茂神社(かもじんじゃ)の例祭(毎年決まった月日におこなわれるお祭りのこと)
 現在も、毎年5月15日におこなわれています
・四方拝(しほうはい)
…元日の早朝、天皇が清涼殿(せいりょうでん、朝廷の建物の1つ)で、四方を拝する儀式
 現在も、毎年1月1日に、天皇陛下が皇居においてつとめられています
●仏事(ぶつじ)
・灌仏(かんぶつ)
…毎年4月8日(お釈迦さまのお誕生日)におこなわれる
 お釈迦さまの像に、甘茶をかけたりする儀式で、現在では「花まつり」と呼ぶのが一般的です
●遊興(ゆうきょう)
・七夕(たなばた)
…毎年7月7日におこなわれる
 みなさんご存知、たなばた祭りのことです
・相撲(すまい)
…毎年7月28日前後におこなわれる
 天皇も観戦する相撲大会です
●政務
・叙位(じょい)
…役人に位階を与える儀式
・除目(じもく)
…大臣以外の官職を任命する儀式

③結婚
一般的に、結婚した男女は、奥さん側の両親と同居するか、新居を構えて住むかのどちらかになります。
旦那さんは、奥さんのお父さん(義理のお父さん)の庇護(ひご、守られること)を受け、
子どもは母方の手(子どもから見ると、お母さん側のじぃじとばぁばたちのこと)で養育されます。
つまり、お母さん側の親戚の影響力がとてもとても強いのです!
結婚して子を持つ身になった今の私からすると、これがいかに合理的かよく分かります(笑)

この外戚関係(がいせきかんけい)を利用したのが藤原北家です。
娘を天皇の奥さんとし、そこに生まれた子ども(外孫、がいそん)を次の天皇とし、
みずからは天皇の外祖父(がいそふ)として権力をほしいままにしたわけです。

また、このようにして強大化した藤原北家は、人事にも大きな発言力を持つようになります。
結果、豊かな国の国司に任命してもらいたい中級貴族や下級貴族たちによって、
藤原北家はさらにヨイショされまくるのです。



続いて、プリントの右側にうつりましょう。

*   *   *

書道

この時代の能書家(のうしょか、字がうまい人のこと)を、3人紹介しましょう。
・小野道風(おののみちかぜ、または、おののとうふう)
・藤原佐理(ふじわらのすけまさ、または、ふじわらのさり)
・藤原行成(ふじわらのゆきなり、または、ふじわらのこうぜい)
彼らをまとめて、三跡(さんせき)、または、三蹟(さんせき)といいます。
いずれも優美で流麗な文字を得意とし、その書風を和様(わよう)といいます。

ちなみに、三筆(さんぴつ)との区別はついていますか?
三筆と三跡、それぞれまとめておきましょうね。
●三筆…弘仁・貞観文化、唐風
      嵯峨天皇・空海・橘逸勢
●三跡…国風文化、和様
(三蹟) 小野道風・藤原佐理・藤原行成
↓ アホみたいな覚え方ですが、よろしければどうぞ!(笑)          
平安9-1.jpg

*   *   *

寺院

浄土教の流行にともない、このころ阿弥陀堂(あみだどう)がたくさんつくられます。
阿弥陀堂とは、阿弥陀仏を本尊(ほんぞん、そのお堂におけるメインの仏さまのこと)とする建物のことです。
国風文化の時代に建立されたものとして覚えてもらいたいのは、次の3つです。

①法成寺(ほうじょうじ)
…藤原道長が、京都に建立した阿弥陀堂(残念ながら、現存していません)
 1016年のゴロ合わせにも書いたように、彼はここで生涯を閉じます
 このお堂を建てたことから、藤原道長は「御堂関白」(みどうかんぱく)と呼ばれ、
 自身の日記のタイトルも『御堂関白記』(みどうかんぱくき)とします
 ただし!
 藤原道長は関白にはなっていませんので、注意してくださいね!!
②平等院鳳凰堂(びょうどういんほうおうどう)
…藤原頼通(ふじわらのよりみち)が、京都の宇治に建立した阿弥陀堂
 ここから、藤原頼通は「宇治殿」(うじどの)と呼ばれるようになります
 完成は、末法の世に突入した翌年にあたる1053年です
 2012年から2014年にかけて、大規模な修復工事がおこなわれ、創建当時の姿が再現されました
 ↓ before(2006年撮影)
 hououdou-old.png
 ↓ after(2015年撮影)
 hououdou.png
 いやぁ~、beforeも渋くていいですけど、
 創建当時の色鮮やかさは、まさに極楽浄土ですね(行ったことないけどね…)
 この建物は、10円玉に描かれているので、みなさん馴染(なじ)みがありますよね
 ただ、平等院鳳凰堂が描かれているのは、10円玉だけではないのです!
 さぁ!一万円札を出してみてください!!(財布に入ってますか~…?笑)
 裏面の鳥は、平等院鳳凰堂の屋根にいる鳳凰なんですよ~!!!
③法界寺阿弥陀堂(ほうかいじあみだどう)
 貴族の日野氏が、京都に建立した阿弥陀堂
 
そのほか、京都の醍醐寺(だいごじ)にある五重塔(ごじゅうのとう)も、
国風文化を代表する建築物です。

*   *   *

仏像

浄土教の流行により、仏師(ぶっし、仏像などをつくる職人のこと)のもとには、
阿弥陀仏の像をつくってほしい、との注文が殺到します。
この大量需要にこたえるには、従来の一木造(いちぼくづくり)では間に合いません。
そこで、仏師の定朝(じょうちょう)は、
仏像をパーツごとに分担してつくり、最後に寄せ集めて完成させる、という技法を編み出します。
これを、寄木造(よせぎづくり)といいいます。
平安9-2.jpg
国風文化の時代の仏像として有名なのは、次の2つです。

①平等院鳳凰堂 阿弥陀如来像(びょうどういんほうおうどう あみだにょらいぞう)
…確実に定朝が作ったことが判明している、唯一の作品です
 3m近くある、すごくすごく大きい阿弥陀如来像です
 ↓ こんな感じで、平等院鳳凰堂の正面からお顔を拝見することもできます(逆光のときは諦めてください…)
 hououdou-amida.png
②法界寺 阿弥陀如来像(ほうかいじ あみだにょらいぞう)
…平等院鳳凰堂の阿弥陀如来像と同時期につくられたとされる作品

ちなみに、①も②も座っている姿の阿弥陀如来像なので、
阿弥陀如来坐像(あみだにょらいざぞう)と表記される場合もあります。

*   *   *

絵画・工芸

①絵画
・来迎図(らいごうず)
…往生しようとする人を迎えるため、仏さまが来臨(らいりん)する場面を描いたものです
 ざっくり言うと、仏さまがお迎えに来たシーン、ということです
 代表作品は、「高野山聖衆来迎図」(こうやさん しょうじゅらいごうず)です
・大和絵(やまとえ)
…季節のうつろいなどを題材とした、日本らしい絵画のことです
 のち、土佐派(とさは)や住吉派(すみよしは)などの流派が生まれます
 中国の故事(こじ、昔々にあったいいお話のこと)などを題材とした唐絵(からえ)とともに、
 寝殿造の襖や屛風に描かれたようですが、残念ながら現存していません
 大和絵の代表的な画家として、巨勢金岡(こせのかなおか)という名前だけが伝わっています
 ちなみに、平等院鳳凰堂の扉に描かれた絵は、傷みが激しく、何度か修復をしていますが、
 平安時代の大和絵の形成を示すものとして知られています

②工芸
・蒔絵(まきえ)
…漆(うるし)で文様を描き、それに金粉や銀粉などを蒔(ま)きつけて模様とする漆器(しっき)の技法
 おうちに、金色の線で絵が描かれている、黒光りした高そうな器はありませんか?
 蒔絵のほどこされた漆器かもしれませんよ~!
・螺鈿(らでん)
…貝殻の真珠光(しんじゅこう)の部分(貝の内側のピカピカした部分)を薄く剥(は)いでみがき、
 色々な形に切って漆器に埋め込む技法

蒔絵や螺鈿がほどこされた工芸品は、輸出品としても珍重(ちんちょう)されたようです。

数年前に、京都の「嵯峨螺鈿野村」さんで、蒔絵と螺鈿の簡単な体験をしてきました。

まずは螺鈿。
貝のピカピカの部分を加工したものを、きれいに切っていきます。
結構難しいです!
↓こんな感じです。
raden.png
それを漆のお盆にのりで貼り、漆で絵を描きます。
そして、いよいよ蒔絵。
金粉をのせ、漆の線の上をこすっていきます。
↓こんな感じです。
makie.jpg
↓ 2時間ほどで、螺鈿と蒔絵がほどこされた、ステキなお盆(自画自賛…笑)が完成しましたよ!
kansei.jpg
ピカピカしている葉の部分が螺鈿、金色の線の部分が蒔絵です。
分かりますか~?

では最後に、解答を載せておきましょう。

平安9解答.jpg



次回から、ややこし~いややこし~い荘園制に入ります。

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画像出典
http://www.kashikoken.jp/museum/tenrankai/kako/2009/09spring/index.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E9%87%8E%E9%81%93%E9%A2%A8
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E4%BD%90%E7%90%86
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E8%A1%8C%E6%88%90
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%86%8D%E9%86%90%E5%AF%BA
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E7%AD%89%E9%99%A2
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E7%95%8C%E5%AF%BA
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%89%9B%E5%B3%AF%E5%AF%BA
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平安時代(8) [まとめプリント]

今日から2回にわたって、10~11世紀に平安京を中心に栄えた、国風文化(こくふうぶんか)を取り上げます。
藤原北家(ふじわらほっけ)による摂関政治(せっかんせいじ)の時代に花開いた文化なので、
たまーに藤原文化(ふじわらぶんか)と呼ばれることもあります。
この文化の担い手は、もちろん藤原北家をはじめとする貴族たちです。



はじめに、国風文化のおもな特徴を、3つにまとめておきましょう。

①大陸文化の摂取・消化のうえに成立した、日本の風土や日本人の人情・嗜好(しこう)にかなった、
  優雅(ゆうが)で洗練された文化
→これまで栄えていたのは、大陸(中国など)の文化の影響を強く受けた、唐風(とうふう)の文化でしたが、
  894年に遣唐使が停止されたこともあり、日本に合った独自の文化が発展します。
②かな文字(仮名文字、とも表記します)の発達による国文学の発達
→平がな(平仮名)や片かな(片仮名)の成立により、さまざまな文学作品が生み出されます。
③浄土教(じょうどきょう)の流行
末法思想もあいまって、このころ浄土教が流行し、それが美術面をはじめ、さまざまなところに影響を及ぼします。

以上が、国風文化の簡単な特徴です。
今日は、国風文化のうち、文学と貴族の生活Ⅰ(衣食住など)を見ていきます。

平安8.jpg

まずは、文学です。
プリントの左側を見ながら、ついて来てくださいね~!

①かな文字の発達
かな文字の成立が、国文学のめざましい発達をもたらします。
かな文字とは、みなさんよーくご存知の、平がなと片かなのことです。

これまで人々は、漢字を用いて日本語の音を表記する、万葉がな(まんようがな)を用いてきました。
しかし、漢字は、1文字1文字に意味がこめられた、表意文字(ひょういもじ)です。
そのため、万葉がなを使っていると、
表現したい言葉とは違うイメージが乗っかってきちゃうことがあったのです。

たとえば、『万葉集』に収録される和歌の1つに、
 天地(あめつし)の いづれの神を 祈らばか 愛(うつく)し母に また言(こと)とはむ
というのがあります。
意味は、天の神様、地の神様、どの神様に祈ったら、愛しい母親にまた話しができるのでしょうか…です。

これ、現代人に読みやすいよう、漢字と平がなを使って表記しなおしたのですが、
『万葉集』に収録されたまんまの万葉がなで表記すると、
 阿米都之乃 以都例乃可美乎 以乃良波加 有都久之波々尓 麻多己等刀波牟
となります。

両者を比べてみてください。
万葉がなは、日本語の1つ1つの音を、1文字ずつ漢字にあてはめているのが分かりますね。
そして、この和歌では、お母さんを意味する「はは」が、「波波」と表記されていることが見て取れます。
うーん、なんだか「お母さんって、サーファーだったの!?」ってなイメージが乗っかってきませんか?(笑)

平安8-2.jpg

極端な例を出しましたが、漢字が表意文字であるがゆえに、
万葉がなだと、自分の思ったことがそのまんま正確に伝えられないことがあったのです。
そこで誕生したのが、かな文字です。
平がなの「い」は、「い」という音だけ、
片かなの「イ」は、「イ」という音だけを表す、表音文字(ひょうおんもじ)です。
平がなは、万葉がなの草書体(そうしょたい、くずした漢字のこと)を簡単にして作られ、
片かなは、漢字の一部分から作られました。

平安8-1.jpg

これらのかな文字が成立したことで、
日本人の感情や感覚を、正確に、より生き生きと伝えられるようになり、
国文学が発達したのです。

ちなみにこの時代、平がなを使用するのは、主に女性でした。
よって、平がなは女文字(おんなもじ)とか、女手(おんなで)とも呼ばれたようです。
また、貴族が自分の娘を天皇と結婚させる際、家庭教師として才能豊かな女性を雇いました。
これらがあいまって、平安時代には多くの女流作家が活躍することになるのです。

では、おもな文学作品を、簡単に見ていきましょう。

②かな文学
古典の授業で、習ったことのある作品が多いかもしれません。

● かな物語(かな文字で書かれた物語)
・『竹取物語』(たけとりものがたり)/作者未詳
…かぐや姫の伝説を題材とした伝奇物語(でんきものがたり、いわゆるファンタジー)
 かぐや姫のお婿(むこ)さん選びのシーンでは、貴族社会の内面が描写される
・『伊勢物語』(いせものがたり)/作者未詳
…超イケメンの在原業平(ありわらのなりひら)とおぼしき男性の恋愛談
 和歌を中心とした、ラブストーリー短編集
・『宇津保物語』(うつほものがたり)/作者未詳
…左大将の娘をめぐる結婚談などで構成
 彼女が貴族たちから求婚されまくるシーンは、『竹取物語』の影響を受けているっぽく、
 また、この物語の写実的な描写は、『源氏物語』に影響を与えたとされる
・『落窪物語』(おちくぼものがたり)/作者未詳
…継子(ままこ、血のつながりのない子どものこと)いじめの物語
 継母(ままはは)に虐待されたお姫さまが、貴族と結婚して幸せになる、というシンデレラみたいなお話
・『源氏物語』(げんじものがたり)/紫式部(むらさきしきぶ)
…光源氏(ひかるげんじ)という超イケメンをおもな主人公にした、ありとあらゆるラブストーリー
 藤原氏全盛期の貴族社会を描写した大作
 作者の紫式部は、一条天皇の中宮である藤原彰子(ふじわらのしょうし、藤原道長の娘)の家庭教師

あと、院政期の文化で紹介する予定なので、このプリントには載せていませんが、
赤染衛門(あかぞめえもん)という女性が書いたと考えられる『栄華物語(栄花物語)』(えいがものがたり)は、藤原道長の栄華を賛美する歴史物語です

● かな随筆(かな文字で書かれた随筆)
・『枕草子』(まくらのそうし)/清少納言(せいしょうなごん)
…「春はあけぼの」で始まる、宮廷生活の体験をあらわしたエッセイ集
  作者の清少納言は、一条天皇の皇后である藤原定子(ふじわらのていし)の家庭教師

● かな日記(かな文字で書かれた日記)
・『土佐日記』(とさにっき)/紀貫之(きのつらゆき)
…最初のかな日記
 土佐守(とさのかみ、土佐国の国司)の任期を終え、平安京に帰るまでの旅行日記
 「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり」という一文で始まります
 「男が書く日記というものを、女の私も書いてみようと思って書くの」ってな意味ですが…
 作者は完全に男です!男!!
 かな文字は主に女性が使うものなので、女性のふりしてかな日記を書いちゃった☆、というわけです
・『蜻蛉日記』(かげろうにっき)/藤原道綱(ふじわらのみちつな)の母
藤原兼家(ふじわらのかねいえ)の奥さんが書いた日記
 旦那のほかの奥さん(藤原道長のお母さん)との競争や、旦那に次々とできる愛人について、
 また、息子である藤原道綱の成長などを書いた日記
・『和泉式部日記』(いずみしきぶにっき)/和泉式部
…和泉式部が、敦道親王(あつみちしんのう)との恋を、和歌をたっぷり盛り込んで回想した日記
・『紫式部日記』/紫式部
…藤原彰子に仕える紫式部が、宮中の様子などを記したもの
 ちなみに、紫式部はこの日記のなかで、清少納言のことを、
 「頭がいいふりして漢字を書きまくってるけど、中身は幼稚よね」みたいにディスっています…
・『更級日記』(さらしなにっき)/菅原孝標(すがわらのたかすえ)の女(むすめ)
…上総国の国司の任期を終えた菅原孝標とともに平安京に戻ってきた娘の回想日記
 念のため言っておきますが、彼女は菅原孝標の娘ですからね!
 「菅原孝標のオンナって…一体……!!」って、変な妄想をふくらませないように!!(笑)

③漢文学
このころ、公式の場では、従来通り漢文(奈良時代よりは、ちょっとくだけたもの)が使用されています。
貴族の男性の日記なども、すべて漢文で書かれています。
ちなみに、かな(仮名)に対して、漢字のことを真名(まな)と呼んだりします。

● 日記
平安時代、朝廷では儀式や行事が増大します。
そこで貴族たちは、のちの人々の参考になるように…と、
「この儀式では、こんな準備をして、当日はこうやって動いた」とか、
「この行事はこんな服装で参加した」というようなことを、日記として記録するようになります。
そう、この時代の日記は、他人に見せることが前提なのです。
まぁいまの時代のSNSもそうですけどね!
・『御堂関白記』(みどうかんぱくき)/藤原道長
…御堂関白(みどうかんぱく)と呼ばれた藤原道長の日記
 写真で見ると、こんな感じです
 御堂関白記.jpg
 漢字ばっかりで書かれているのが分かりますね
 私は、ガラスケース越しに『御堂関白記』を何度か拝見したことがあるのですが、
 もうね、「あの藤原道長が書いた文字なんや!あの藤原道長が触った紙なんや!!」と、感動しました
 機会があれば、ぜひ直接、自分の目で見て頂きたいと思います
 当たり前ですけど、「藤原道長って本当にいたんだ…」ということを実感しますよ!
 11世紀の最高権力者の日記が直筆で遺(のこ)っている、というのは世界的に珍しく、とても貴重です
 ちなみに、『御堂関白記』というタイトルですが、藤原道長は関白にはなっていませんので注意してください
 彼が就任したのは、摂政と太政大臣です
・『小右記』(しょうゆうき)/藤原実資(ふじわらのさねすけ)
…藤原道長が詠んだ「此の世をば…」の和歌を収録していることで有名な日記
 野宮家(おののみやけ)の大臣である藤原実資の日、ということで、タイトルは『小右記』です

●その他
・『和(倭)名類聚抄』(わみょうるいじゅうしょう)/源順(みなもとのしたごう)
…百科事典のような漢和辞書

④和歌集
ラブレターも和歌で!という平安時代は、和歌が非常に発達します。
平安前期を代表する和歌の名人といえば、
僧正遍昭(そうじょうへんじょう、僧正はお坊さんの位)・在原業平・小野小町(おののこまち)
喜撰(きせん)・文屋康秀(ふんやのやすひで)・大友黒主(おおとものくろぬし)の6人です。
まとめて六歌仙(ろっかせん)といいます。

・『古今和歌集』(こきんわかしゅう)/紀貫之・紀友則(きのとものり)・壬生忠岑(みぶのただみね)など
…醍醐天皇の命でつくられた、最初の勅撰和歌集(ちょくせんわかしゅう)
 収録された和歌は、優美で繊細で技巧的なものが多く、この歌風を古今調(こきんちょう)といいます
 ちなみに勅撰和歌集とは、天皇や上皇の命令で編纂された和歌集のことをいいます
 勅撰和歌集は、『古今和歌集』を含めて8つ作られ、これらをまとめて八代集(はちだいしゅう)と呼びます
・『和漢朗詠集』(わかんろうえいしゅう)/藤原公任(ふじわらのきんとう)
…朗詠(ろうえい)に適する和歌や漢詩文を集録したもの
 なお、朗詠とは、和歌や漢詩文をメロディーにのせて歌うことです

*   *   *

続いて、プリントの右側にある、貴族の生活Ⅰ(衣食住)を見ていきます。

①衣
貴族は、これまで着ていた唐風の服装を、
日本人向きにガラッとつくりかえた優美なものを着用するようになります
衣料はおもに絹で、文様(もんよう)や配色(はいしょく)などに日本風の意匠(いしょう)をこらします

● 貴族の男性
・束帯(そくたい)
…正装
 頭に冠をかぶり、衣はねます
 すそには裾(きょ)という長~いぺらぺらが見えますが、この長さで身分が分かるようになっています
・衣冠(いかん)
…束帯に次ぐ正装
 をつけ、をかぶります
 束帯と衣冠は、身分などによって着用する色やアイテムが決まっています
・直衣(のうし)
…普段着
 頭には烏帽子(えぼし)と呼ばれる帽子をかぶります
・狩衣(かりぎぬ)
…狩りなどにでかける際などに着用する普段着
 肩の部分が開いていて(下に着た着物が見えるので、おしゃれも楽しめる)、
 そでにはヒモが通してあり(ヒモを引っ張れば、そでをしぼることができる)、
 動きやすく、スポーティーな衣です
 ↓次の写真は、みんな狩衣を着用しています(私もマイ狩衣を着てどこかにいます…笑)
 狩衣.png
 直衣と狩衣は、色もガラも好きなもの自由に着られるので、集まるとこんな風にカラフルです(笑)
 ちなみに、フィギュアスケートの羽生弓弦選手が、ピョンチャンオリンピックで金メダルをとりましたが、
 フリーの衣装の肩とそでの部分を見てみてください、狩衣をモデルにしていることが分かりますよ!
● 貴族の女性
・女房装束(にょうぼうしょうぞく)
…正装、いわゆる十二単(じゅうにひとえ)
 色の組み合わせなどを考えながら、たくさんの着物を重ね着します(12枚とは限りません)
 よって、すごく重くて、だいたい20kgほどになったとか…動けませんね…
 ↓写真で見ると、こんな感じです
 女房装束1.png
 色合いがとても美しいですね…それにしても、重たそうです…
・小袿(こうちぎ)に袴(はかま)
…普段着(準正装)
 袴をつけて、着物を重ね着した上に着る、ちょっと小さいサイズの上着が小袿
 
ついでに、庶民の服装も簡単に見ておきましょう。
庶民の男子は、水干(すいかん)・直垂(ひたたれ)、
庶民の女子は、小袖(こそで)などを着用したようです。

②食
比較的簡素で、1日2食が基準です。
調理方法は焼く・蒸す・煮るくらいしかなく、油は使用しません(揚げ物が存在しないのですよ…淋しい…)。
また、仏教の影響から、動物の殺生がよろしくないとされ、獣肉は基本的には食さなかったようです。
4本足ではない鳥とか魚はオッケーだったそうです。

③住
寝殿造(しんでんづくり)という建築様式を用いた大邸宅に居住します。
↓復元模型で見ると、こんな感じです。
Miniature_Model_of_HigashiSanjoDono.jpg
①の寝殿(しんでん)という建物を中心に、
東西に対屋(たいのや)という建物が設けられ(④東対(ひがしのたい)など)、
それらが⑦渡殿(わたどの)という廊下でつながっています。
対屋からのびる⑧透廊(すきろう)の先には、⑨釣殿(つりどの)がつくられ、
南側につくられた池を臨むことができる、というわけです。
いやぁ~、プール付きのとんでもない豪邸ですよ、これ!
まぁプールといっても泳ぐわけではありません、船を浮かべたりして遊ぶのです。
優雅ですな~…

寝殿造では、皮をはいで削っただけで、塗料などを塗っていない木を柱として用います。
これを白木造(しらきづくり)といいます。
また、床は板床(いたゆか)と呼ばれるフローリングなので、
畳や円座(わろうだ、または、えんざ)と呼ばれる座布団みたいなものを敷いて座ります。
また、それぞれの部屋はかなり広いなので、空間を区切ったり、目隠しをするために、
襖(ふすま、障子の1種)や屛風(びょうぶ)を部屋の仕切りとして使用したようです。

いやぁ~、ほんとゴージャスな家ですよね…
冬はめっちゃ寒そうですけどね……(笑)

ちなみに、貴族の多くは平安京の左京に居住します。
なぜ右京ではないのかは、794年のゴロ合わせで復習してくださいね。

④その他
●成人式
男女ども、だいたい10~15歳で成年式を受けます
・男子:元服(げんぷく)
…長く伸ばした髪でマゲを結い、冠をつけます
 以降、官職をもらって朝廷につかえることになります
・女子:裳着(もぎ)
…女房装束に裳(も)というパーツをつけます
 ↓写真で見ると、裳はこんな感じです
 女房装束2.jpg

とてもとても長くなってしまいました…すいません(汗)
最後に解答を載せておきましょう。

平安8解答.jpg



次回は国風文化の2回目、宗教・美術、そして貴族の生活Ⅱをまとめていきます。

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画像出典
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E6%9D%A1%E9%99%A2
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%81%93%E9%95%B7
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%B8%89%E6%9D%A1%E6%AE%BF
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平安時代(7) [まとめプリント]

今日は、藤原北家(ふじわらほっけ)による政治の3回目、
藤原道長(ふじわらのみちなが)・藤原頼通(ふじわらのよりみち)親子の時代を取り上げます。



摂関政治(せっかんせいじ)とは、摂政(せっしょう)・関白(かんぱく)が引き続いて任命され、
政権の最高の座にあった10世紀後半から11世紀ごろにかけての政治を指します。

天皇が幼少の時に置かれるのが摂政、
天皇が成人してから置かれるのが関白です。

安和の変ののち、摂政・関白は常置(じょうち、常に置かれること)となり、
藤原北家のなかでもとくに、藤原忠平(ふじわらのただひら)の子孫から任命されることになります。
摂政・関白を排出するこの家柄を、摂関家(せっかんけ)と呼びます。

摂関家は、鎌倉時代になると、
近衛(このえ)・鷹司(たかつかさ)・一条(いちじょう)・二条(にじょう)・九条(くじょう)に分かれます。
まとめて五摂家(ごせっけ)といいます。
これは、ニ(二条)ク(九条)イ(一条)タ(鷹司)コ(近衛)、「憎いタコ」でパパッと覚えてしまいましょう!

ちなみに、五摂家の姓は、みーんな藤原ですよ!
近衛とか鷹司というのは、それぞれの家がある地名などからとった、名字なのです。
鎌倉時代には、姓よりも名字を名乗るようになるため、
藤原を姓とする摂関家は、近衛・鷹司・一条・二条・九条の名字を名乗る五摂家に分かれた、
というワケです。
姓と名字の違いについては、飛鳥時代(5)で復習してくださいね!

さて、摂政・関白に任命されると、一体どうなるのでしょうか。

まず、「一の人(いちのひと)」とか、「殿下(でんか、または、てんが)」という敬称で呼ばれます。
また、藤原氏の「氏の長者(うじのちょうじゃ)」も兼ねることになります。
「氏の長者」とは、氏のリーダーのことで、
氏寺(うじでら、藤原氏の場合は興福寺(こうふくじ))や、
氏社(うじしゃ、氏神(うじがみ)を祀る神社のこと、藤原氏の場合は春日大社(かすがたいしゃ))、
大学別曹(だいがくべっそう、藤原氏の場合は勧学院(かんがくいん))の管理のほか、
一族の官位推挙(かんいすいきょ、誰をどの官職や位階に推挙するか)にあたります。

そう、摂政・関白に任命されると、それはそれはとんでもない権力を手にすることになるのです!!

*   *   *

では、ちょっとギュウギュウ詰めで見にくいとは思いますが、
プリントを使って摂関政治をまとめていきましょう!

このプリント、黒字を全部覚える必要はありませんからね!
空欄のところをしっかり覚えてください!!

平安7.jpg

安和の変で他氏排斥が完了し、藤原北家の地位は不動のものとなります。
とはいえ、内部では摂政・関白の地位をめぐるゴタゴタが起きています。
系図を使って、2例見ておきましょう。

平安7-2.jpg

摂関家のゴタゴタ、1例目(上の系図の赤い部分)は、
兄の藤原兼通(ふじわらのかねみち)と、弟の藤原兼家(ふじわらのかねいえ)の争いです。

藤原兼通は、息子が源高明(みなもとのたかあきら)の娘と結婚しているということもあり、
藤原兼家よりも、出世が遅れていました。
弟に先を越されるだなんて、お兄ちゃんとしてはやっぱり焦りますよね…

そんななか、円融天皇(えんゆうてんのう)の摂政をつとめる藤原伊尹(ふじわらのこれまさ)が、
危篤(きとく)に陥(おちい)ります。
すると、藤原兼通と藤原兼家は、その座をめぐって争うようになるのです。
といっても、そもそもたいして出世できていない藤原兼通は、弟に勝てそうにありません。

そこで!
藤原兼通は奥の手を使うのです!!

あるとき藤原兼通は、円融天皇に1枚のメモを見せます。
メモには、「将来、摂政・関白になることがあれば、必ず兄弟の順を守るように」、とあります。
これを書いたのは、藤原兼通の妹である藤原安子(ふじわらのあんし、または、ふじわらのやすこ)です。
実はこの女性、円融天皇の亡きお母さんなのです!

結果、円融天皇は、母の遺言(ゆいごん)に従わざるを得ず、
藤原兼通は見事、関白に任命されるのです!!(円融天皇はこの年に成人)

いや~、来たる日に備えて、妹にこんなメモを書かせていただなんて…
藤原兼通、やりますな!

ちなみに、弟の藤原兼家は、のちのち一条天皇(いちじょうてんのう)の摂政に就任しています。
なお、藤原兼家といえば、奥さんが有名です。
『蜻蛉日記(かげろうにっき)』の作者、藤原道綱(ふじわらのみちつな)の母なのです!
また、国風文化(こくふうぶんか)で紹介しますね。

摂関家のゴタゴタ、2例目(上の系図の青い部分)は、
叔父の藤原道長と、甥っ子の藤原伊周(ふじわらのこれちか)の争いです。
これは、1019年のゴロ合わせに詳しく書きましたので、そちらをご覧ください。

2人の争いは、藤原道長の勝利に終わり、彼は内覧(ないらん)という役職に就任します。
内覧とは、摂政・関白と同じような職務を担う、関白に準ずるものです。
基本、摂政・関白に任命された者が、これを兼ねるのですが、
このとき藤原道長は関白には就かず、左大臣のまま内覧になっています。
令外官(りょうげのかん)である関白になるより、
まずは左大臣として、太政官を盤石(ばんじゃく)なものにしたかったようです。

このあと藤原道長は、外戚関係(がいせきかんけい)を築くべく、
娘たちを天皇(または皇太子)と結婚させまくります。
ここでは簡単に述べるにとどめますので、詳しくは1016年のゴロ合わせをご覧ください。

平安7-3.jpg

まず最初に、長女の藤原彰子(ふじわらのしょうし、または、ふじわらのあきこ)を、
一条天皇の中宮(ちゅうぐう)とします。

次に、次女の藤原妍子(ふじわらのけんし、または、ふじわらのきよこ)を、
三条天皇(さんじょうてんのう)の中宮とします。

三条天皇にかわって、後一条天皇(ごいちじょうてんのう)が即位すると、
藤原道長はついに摂政に就任します。
そうです、藤原道長にとって後一条天皇は、娘の藤原彰子が産んだ、かわいいかわいい孫です。
こうして藤原道長は、外戚関係を利用して絶大な権力を手にするのです!

とはいえ、すぐに息子の藤原頼通にその座を譲り、自らは太政大臣に就任します。
摂政・関白の座は、俺の子孫が継ぐのだ!という、まわりへのアピールでしょうね…

さらに藤原道長は、三女の藤原威子(ふじわらのいし、または、ふじわらのたけこ)を、
後一条天皇(ごいちじょうてんのう)の中宮とします。
このとき詠(よ)んだのが、あの有名な
「此(こ)の世をば 我が世とぞ思ふ 望月(もちづき)の かけたることも 無しと思へば」という和歌です。
出典は、藤原実資(ふじわらのさねすけ)の日記である『小右記(しょうゆうき)』です。

さらにさらに藤原道長は、六女の藤原嬉子(ふじわらのきし、または、ふじわらのよしこ)を、
敦良親王(あつながしんのう、のちの後朱雀天皇(ごすざくてんのう)に嫁がせます。

後一条天皇も、後朱雀天皇も、藤原彰子が産んだ子です。
つまり、藤原威子と藤原嬉子は、お姉ちゃんが産んだ甥っ子と結婚したということになるのです。

ハイ、すごくややこしくなってきたので、藤原彰子目線で登場人物を並べてみましょう。

平安7-1.jpg

うわぁ~…サザエさん家どころではない、複雑で入り組んだ家庭環境ですね…
これをやってしまう藤原道長、すごいわ……

後朱雀天皇にかわって即位するのは、藤原嬉子が産んだ後冷泉天皇(ごれいぜいてんのう)です。
藤原頼通は、彼に1人娘である藤原寛子(ふじわらのかんし、または、ふじわらのひろこ)を嫁がせますが、
2人の間に子どもが生まれることはありませんでした。

結果、次に即位するのは、藤原北家を外戚としない後三条天皇(ごさんじょうてんのう)です。
藤原北家の全盛期は、ここで終わることになるのです。

刀伊の入寇(といのにゅうこう)については、1019年のゴロ合わせで確認しておいてくださいね!

最後に、解答を載せておきましょう。

平安7解答.jpg



次回から2回にわたって、国風文化をまとめていきます。

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平安時代(6) [まとめプリント]

前回に引き続き、藤原北家(ふじわらほっけ)による政治をまとめていきます。



平安時代(5)では、
 ①藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ)
 ②藤原良房(ふじわらのよしふさ)
 ③藤原基経(ふじわらのもとつね)
の3人を順番に取り上げましたので、その続きを見ていきましょう!

平安6.jpg

④藤原時平(ふじわらのときひら)-藤原基経の子ども

藤原基経の死後、宇多天皇(うだてんのう)はまだ若い藤原時平を関白(かんぱく)に任命せず、
寛平の治(かんぴょうのち)と呼ばれる親政(しんせい)を開始します。
親政とは、摂政(せっしょう)・関白をおかず、天皇自らが政治をおこなうことで、
天皇親政(てんのうしんせい)とも呼びます。

このころ宇多天皇が重用したのは、学者の菅原道真(すがわらのみちざね)です。
894年、宇多天皇は彼を遣唐大使(けんとうたいし、遣唐使のリーダー)に任命します。
しかし、菅原道真は、唐の衰退や航海の危険などを理由に、遣唐使の派遣の取りやめを建議し、
宇多天皇は遣唐使の派遣を停止することとします。

その後、宇多天皇は、息子の醍醐天皇(だいごてんのう)に譲位します。
このとき、左大臣には藤原時平が、右大臣には菅原道真が任命されます。

やがて、菅原道真について、黒いウワサが流れるようになります。
菅原道真は、娘の旦那さんである斉世親王(ときよしんのう)を天皇にしようといている、というのです。

このウワサを信じた若い醍醐天皇は、
901年に菅原道真を大宰権帥(だざいのごんのそち、または、だざいのごんのそつ)に左遷(させん)します。

2年後、菅原道真は大宰府で亡くなります。

すると、ほどなく藤原時平がこの世を去り、
ほかにも醍醐天皇のまわりでバタバタと人が亡くなるのです!
さらに、朝廷に雷が落ちて、たくさんの死傷者が出てしまうのです!!

コッワー!!!

よって、人々は菅原道真を怨霊(おんりょう)として恐れ、
京都の北野天満宮(きたのてんまんぐう、明治時代から一時期、北野神社と改称)や、
太宰府天満宮(だざいふてんまんぐう)にお祀(まつ)りし、彼の祟(たた)りを鎮(しず)めようとします。
いまでは学問の神さまとして広く信仰されているので、
受験前にお参りに行こうと考えている人もいるかもしれませんね。

さて、醍醐天皇はというと、延喜の治という親政をおこないます。
902年には久しぶりに班田を実施し、
延喜の荘園整理令(えんぎのしょうえんせいりれい)も出して、律令体制の復興をめざします。
しかし、時すでに遅し…
浮浪(ふろう)・逃亡(とうぼう)・偽籍(ぎせき)などの横行もあって、
結果としてこれが最後の班田となってしまいます。
三善清行(みよしのきよゆき)が「意見封事十二箇条」(いけんふうじじゅうにかじょう)を提出したのは、
このころのことです。

⑤藤原忠平(ふじわらのただひら)-藤原時平の弟

醍醐天皇にかわって、8歳の朱雀天皇(すざくてんのう)が即位し、
藤原忠平は摂政に任命されます。
このころ起きたのが、平将門の乱藤原純友の乱
まとめて承平・天慶の乱(じょうへい・てんぎょうのらん)です。

藤原忠平は、朱雀天皇の成人にともない関白となり、
かわって即位した村上天皇(むらかみてんのう)を、引き続き関白として補佐してゆきます。
ただし、藤原忠平の死後、村上天皇は、天暦の治(てんりゃくのち)という親政を開始します。
ここでは、本朝十二銭(ほんちょうじゅうにせん)、または、皇朝十二銭(こうちょうじゅうにせん)の最後である
乾元大宝(けんげんたいほう)の鋳造を覚えておきましょう。

949.jpg

なお、醍醐天皇の延喜の治、村上天皇の天暦の治は、のちのち理想とされ、
まとめて「延喜・天暦の治」(えんぎ・てんりゃくのち)と呼ばれます。

⑥藤原実頼(ふじわらのさねより)-藤原忠平の子ども

村上天皇にかわって即位した冷泉天皇(れいぜいてんのう)は、
精神的な病をかかえていたようで、藤原実頼を関白に任命します。
ここで、最後の他氏排斥事件である安和の変が起こるのです。
左大臣の源高明(みなもとのたかあきら)は、
娘の旦那さんである為平親王(ためひらしんのう)を天皇にしようとしている、
と源満仲(みなもとのみつなか)という人物がリークし、
源高明は大宰権帥に左遷されてしまうのです。

これにて藤原北家による他氏排斥は完了し、
以降、藤原忠平の子孫が摂政・関白に就任することがきまりとなります。

では、藤原時平・藤原忠平・藤原実頼、この3人をまとめておきましょう。

平安6-1.jpg

最後に、プリントの右側にある、東アジアの様子を見ておきましょう。
このあたりは1019年のゴロ合わせに詳しく書きましたので、そちらもご覧ください。

まずは中国です。
907年に唐が滅亡し、五代十国時代(ごだいじっこくじだい)に突入します。
これを960年に統一するのが、宋(北宋)です。
ただし、日本は宋と正式な国交をひらいていません。
といっても、博多に宋の商人がたびたびやってきて、さかんに私貿易(しぼうえき)がおこなわれていたようです。

朝鮮半島はというと、
918年におこった高麗(こうらい)が、936年に朝鮮半島を統一します。

その北方では、日本と古くから交流のあった渤海(ぼっかい)という国が、
遼(りょう)、または、契丹(きったん)という国に滅ぼされています。

それでは、解答を載せて終わりにしましょう。

平安6解答.jpg



次回は、いよいよ藤原北家の全盛期、
藤原道長(ふじわらのみちなが)と藤原頼通(ふじわらのよりみち)の時代をまとめていきます。

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平安時代(5) [まとめプリント]

今日見ていくのは、平安時代(4)の続きにあたる、平安時代5枚目のまとめプリントです。
3回にわたって藤原北家(ふじわらほっけ)による政治をとりあげます。



藤原北家の祖って、誰でしたか?
答えは、藤原房前(ふじわらのふささき)です。

藤原房前にはじまる藤原北家は、
9世紀ごろから勢力を拡大させ、11世紀ごろに最盛期を迎えます。
その手法は、
 ・他氏排斥(たしはいせき、他の有力な貴族を退けること)
 ・外戚関係(がいせきかんけい、娘を天皇の奥さんとし、その娘が生んだ子を天皇にすること)
の2つです。

では、藤原北家のリーダーたちを、順番に見ていきましょう。

平安5.jpg

①藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ)

810年、嵯峨天皇から蔵人頭(くろうどのとう)に任命されます。
その後、薬子の変(平城太上天皇の変)が起こり、
藤原式家の兄妹、藤原仲成(ふじわらのなかなり)・藤原薬子(ふじわらのくすこ)がこの世を去ります。
この事件をきっかけに、藤原式家は没落し、かわって藤原北家が台頭するようになるのです。
ただし、同じ藤原氏なので、これを他氏排斥と呼ぶかどうかは微妙なところです…

②藤原良房(ふじわらのよしふさ)-藤原冬嗣の子ども

妹の藤原順子(ふじわらのじゅんし、または、ふじわらののぶこ)を仁明天皇(にんみょうてんのう)と結婚させ、
天皇家と姻戚関係(いんせきかんけい)を結びます。
2人の間に生まれた道康親王(みちやすしんのう)を皇太子にするべく、
842年に承和の変を起こします。
これにより、伴健岑(とものこわみね)と橘逸勢(たちばなのはやなり)は流罪(るざい)となります。
その後、娘の藤原明子(ふじわらのあきらけいこ、または、ふじわらのめいし)を道康親王と結婚させ、
2人の間に生まれた子を清和天皇(せいわてんのう)とします。
外戚関係の成立です!
866-1.jpg
藤原良房は、清和天皇の外祖父(がいそふ)という立場を利用し、
臣下(しんか)ではじめて実質的な摂政となり、政務をとります。
866年には謎だらけの応天門の変が起こり、
伴善男(とものよしお)や紀豊城(きのとよき)などを流罪とし、
自らは正式に摂政に就任します。

③藤原基経(ふじわらのもとつね)-藤原良房の養子
884年、なかなかご高齢の光孝天皇(こうこうてんのう)が即位し、関白に任命されます。
884-2.jpg
光孝天皇の死後、息子の宇多天皇が即位しますが、
その際、阿衡の紛議(阿衡事件)が起こります。
宇多天皇は、藤原基経の要求通りに勅書を撤回し、橘広相(たちばなのひろみ)は処罰されます。
この事件によって、関白の政治的地位が確立し、藤原北家の勢力が急速に強大化してゆくのです。

藤原冬嗣・藤原良房・藤原基経、まずはこの3人を整理しておいてください。

平安5-1.jpg

最後に解答を載せておきましょう。

平安5解答.jpg

次回も引き続き、摂関政治をとりあげます。



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平安時代(4) [まとめプリント]

前回に引き続き、弘仁・貞観文化を見ていきます。



平安4.jpg

まずは建築です。

弘仁・貞観文化で覚えるべき寺院は1つ、
奈良にある室生寺(むろうじ)です。

奈良といっても、東大寺や興福寺がある奈良市ではありません。
室生寺は、そこから電車とバスを2時間ほど乗り継いだ、宇陀市(うだし)の山の中にあります。
山の中ですので、「○○式伽藍配置」というような形式は通用しません。
プリントにある①室生寺金堂や②室生寺五重塔は、
山の地形に応じた場所に、点々とつくられています。

このころには、檜皮葺(ひわだぶき)や杮葺(こけらぶき)の屋根がつくられるようになっています。
檜皮葺というのは、漢字のまんま、檜(ひのき)という木の表面の皮を、屋根として重ねていく技法です。
一部分だけ見ると、こんな感じです。
DSC01773.JPG
うすくスライスした檜の皮を、ずらしながら積み重ねていっている様子が分かりますか?
プリントにある②室生寺五重塔の屋根はまさにこの檜皮葺です。

ちなみに、室生寺五重塔は高さがおよそ16mと、屋外にあるものとしては日本で1番小さい五重塔です。
あまりの小ささに、「空海が一晩で作り上げた」、なんてウワサもあったりします…
前回に引き続き、空海の豪腕っぷりがハンパない…(笑)

一方の杮葺は、杉などの木でつくった2ミリほどのうす~い板を、
屋根になるよう、ずらしながら積み重ねていく技法です。
プリントにある①室生寺金堂は、もとは檜皮葺であったようですが、現在はこの杮葺です。

なお!
「杮(こけら)」の漢字は、くだものの「柿(かき)」という漢字とは異なります。
「柿(かき)」は9画ですが、「杮(こけら)」は8画なのです!
いや~…見た目は同じなんですけどね~…
一体どこが違うのかは、一番下にある解答のプリントでご確認下さい~。

続いて、書道を見ていきましょう。

弘仁・貞観文化のころ、3人の能書家(のうしょか)が活躍します。
能書家というのは、字がめっちゃきれいな人のことです。

嵯峨天皇
空海
橘逸勢(たちばなのはやなり)、

彼らをまとめて三筆(さんぴつ)と呼びます。
プリントで、3人が書いた文字を見てみてください。
なんか分かりませんけど、字、めっちゃきれいですよね!
彼らに共通するのは、唐風(とうふう)の力強い文字を書く、ということです。
なんか分かりませんけど、そういうことなんだそうです!!
(書道を習っている人になら分かることなのでしょうか…私にはサッパリです!!)

ところで、前回もチラっと登場した「弘法にも筆の誤り」という言葉、ご存知ですか?
「どんな達人でも、時には失敗することがあるサ!」という意味のことわざです。
弘法とは、弘法大師、そう、空海のことです。
空海が字の達人だということが、ことわざとして今に残っておるのです。

では、空海は得意の筆で、一体何を誤ったのでしょうか?

平安京の大内裏の中に、朝堂院(ちょうどういん)という重要な建物があります。
その入り口にあるのが、応天門(おうてんもん)という門です。
現在、京都にある平安神宮(へいあんじんぐう)の正面の門として、復元されています。
DSC00477.JPG
こんな感じです。
ただし、5/8スケールでの復元ですので、オリジナルの応天門はもっと大きかったようです。

あるとき、達筆で知られる空海は、この門の正面を飾る看板に、「応天門」と書くよう依頼されます。
↓ これです、これ。
DSC00478.JPG
「応」の漢字は、昔の難しい「應」の漢字になっていて、「應天門」と書かれているのが分かりますね。
空海は、これを書くことになったのです。

空海は、さすがの筆で作品を見事に書き上げます。
そして、完成した看板を応天門の正面にかかげたところ…

ん?
んん??

空海ったら、漢字間違ってるんですよ!
「應」の漢字の「广(まだれ)」を、「厂(がんだれ)」にしてしまってるのですよ!!

いや、フツー1画目から間違うか?というツッコミは置いといて、
空海はこれをすかさず修正します。

看板をわざわざ地面におろして点を書き加えた…のではありません!
まさかまさか、空海は墨をふくませた筆を看板に投げつけて、正しい漢字になおしたのです!!

平安4-1.jpg
出たー!
空海の豪腕伝説パート2!!
(パート1はこちらをご覧ください。それにしても空海ったら色んなもの投げますね…)

これが「弘法にも筆の誤り」ということわざができた由来です。
なお、応天門はのちのち重要な事件の舞台として登場しますので、それまで覚えておいてくださいね~。

ちなみに、空海の書としてプリントで紹介したのは、最澄に送った手紙の一部です。
「風信雲書…」で始まる手紙なので、これを「風信帖(ふうしんじょう)」と呼びます。
「風」の文字は読み取れますね。

次に、彫刻をザッとまとめて見ていきましょう。

①室生寺弥勒堂 釈迦如来坐像(むろうじみろくどう しゃかにょらいざぞう)
②室生寺金堂 釈迦如来像(むろうじこんどう しゃかにょらいぞう)
③神護寺 薬師如来像(じんごじ やくしにょらいぞう)
④元興寺 薬師如来像(がんごうじ やくしにょらいぞう)
⑤教王護国寺 不動明王像(きょうおうごこくじ ふどうみょうおうぞう)
⑥薬師寺 僧形八幡神像(やくしじ そうぎょうはちまんしんぞう)
⑦薬師寺 神功皇后像(やくしじ じんぐうこうごうぞう)
⑧法華寺 十一面観音像(ほっけじ じゅういちめんかんのんぞう)
⑨観心寺 如意輪観音像(かんしんじ にょいりんかんのんぞう)

いずれも、一木造(いちぼくづくり)の作品です。
一木造とは、1本の木を彫って、1体の仏像をつくる、という技法です。
一本造じゃないですよ、一木造ですからね!

また、仏像が身につけている衣服のシワが、
翻(ひるがえ)る波のように美しく表現されているのも、このころの彫刻の特徴です。
これを翻波式(ほんぱしき)と呼びます。

なお、⑥薬師寺 僧形八幡神像と⑦薬師寺 神功皇后像は、神仏習合を反映した彫刻です。
いずれも薬師寺の南門のすぐ前につくられた休ヶ岡八幡宮(やすがおかはちまんぐう)という神社にある、
神さまの像です。
⑥は、八幡神(はちまんしん)という神さまですが、見た目はお坊さん(これを僧形といいます)です。
まさに神仏習合ですね。
⑦の神功皇后(じんぐうこうごう)というのは、倭の五王のちょっと前の時代に活躍した女性です。
実在したのかどうか今でも学説が分かれる人物ですが、
休ヶ岡八幡宮では、神さまとして⑥の隣にお祀りしています。

最後に、絵画を見ておきましょう。

①曼荼羅(まんだら)
漢字、気をつけてくださいね!
2文字目は「茶」ではありません、「荼」です。
くれぐれも「まんちゃら」と書かないように…

密教は、すごく奥が深くてなかなか言葉であらわすことは難しい、ということで、
その世界を目で見て理解できるようイラスト化したものが曼荼羅です。

胎蔵界曼荼羅は『大日経』(だいにちきょう)、金剛界曼荼羅は『金剛頂経』(こんごうちょうきょう)というお経を絵でしめしたものです。もともと別々であった2つの曼荼羅が1つのセットとなり、空海はさらにその考えを発展させ、この2つの界(両界)が、大日如来という仏を中心とした密教の宇宙を表すと考えました。両界曼荼羅はお寺のお堂の壁にかけられ、その前で大事な儀式が行われました。

プリントの左下にあるのが、教王護国寺の金剛界曼荼羅(こんごうかいまんだら)です。
金剛界曼荼羅とは、「金剛頂経」というお経をイラスト化したものです。
9つの正方形が3列ずつ集まって、1つの曼荼羅を形成している様子が分かりますね。
1番上の列の真ん中のブースにいる大きな仏さまが、大日如来です(他のブースにも描かれています)。
大日如来の智徳は金剛石(こんごうせき、ダイヤモンドのことです)のように強いんだ、ということや、
大日如来から修行者にどうやって智徳が流れるのか、などをこのイラストであらわしているのだそうです。

もう一度プリントを見てください。
いま見ていた金剛界曼荼羅の右隣にあるのが、
「大日経」というお経をイラスト化した胎蔵界曼荼羅(たいぞうかいまんだら)です。
こちらも教王護国寺のものです。
真ん中の大日如来を中心に、まわりに小さな仏さまが描かれているのが分かりますね。
胎児がお母さんのお腹のなかで成長していくように、
人間が悟りに進む姿をあらわしているのだそうです。

この金剛界曼荼羅と胎蔵界曼荼羅を、まとめて両界曼荼羅(りょうかいまんだら)といいます。
お寺で密教の法要などをおこなうときに、壁にかけたりするそうです。
弘仁・貞観文化のころの曼荼羅としては、教王護国寺のものと神護寺(じんごじ)のものが現存しています。

ちなみに空海は、イラスト化した曼荼羅をさらに分かりやすくするため、
教王護国寺の講堂に様々な仏像を配置した立体曼荼羅を作っています。
2Dの曼荼羅を、3Dにしちゃったわけです。
これがめちゃくちゃかっこいい!
ぜひ京都に行かれる際はご覧あれ。
プリントの彫刻のところ、⑤教王護国寺不動明王像は、その立体曼荼羅の1つです。

②園城寺不動明王像/黄不動(おんじょうじ ふどうみょうおうぞう/きふどう)
③青蓮院不動明王二童子像/青不動(しょうれんいん ふどうみょうおうにどうじぞう/あおふどう)
④高野山明王院不動明王像/赤不動(こうやさんみょうおういん ふどうみょうおうぞう/あかふどう)

このころ、密教を代表する仏さまである、不動明王(ふどうみょうおう)の絵がたくさん描かれます。
不動明王というのは、目を見開いて、キバを出し、めらめらの炎を背負って表現されることが多いです。
とにかくビジュアルはめっちゃ怒ってます。
それもそのはず、大日如来の怒った顔バージョンだ、とも言われているのです。
②の黄不動は、非公開のため画像がありません。
黄不動をマネして描いたとされるものが、曼殊院というお寺にありますので、
プリントにはそちらをかわりに掲載しています。
なお、③の青不動は国風文化に区分されたり、④の赤不動は鎌倉時代の作品だという説があったりで、
最近はこの2作品はあまり取り上げられなくなっています。

⑤西大寺十二天像(さいだいじ じゅうにてんぞう)も参考までに載せておきました。
9世紀に活躍した絵師としては、
百済河成(くだらのかわなり)や巨勢金岡(こせのかなおか)の名が伝わっています。

それでは、最後に解答を載せておきましょう。

平安4解答.jpg



次回からゴロ合わせを見ていきます。
藤原氏が他氏を排斥しまくるので、覚えることがいっぱいですよ~!

画像出典
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%B8%E7%BF%B0
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A2%A8%E4%BF%A1%E5%B8%96
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%98%E9%80%B8%E5%8B%A2
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%A4%E7%94%9F%E5%AF%BA
http://www.jingoji.or.jp/treasure01.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E8%88%88%E5%AF%BA
http://www.toji.or.jp/ten.shtml
http://www.nara-yakushiji.com/guide/hotoke/hotoke_hatiman.html
http://wakuwaku-nara.com/ibent/hotukejikannon/
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%B3%E5%BF%83%E5%AF%BA
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%AF%BA
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8D%E5%8B%95%E6%98%8E%E7%8E%8B
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%A4%A7%E5%AF%BA_(%E5%A5%88%E8%89%AF%E5%B8%82)
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平安時代(3) [まとめプリント]

2回にわたって、弘仁・貞観文化(こうにん・じょうがんぶんか)を取り上げます。



嵯峨天皇(弘仁年間)と清和天皇(貞観年間)の時代、平安京を中心にさかえた文化です。

平安3.jpg

特徴を簡単にまとめると、
・貴族を中心とした文化
・貴族の間で漢文学が発達
・密教の伝来
・晩年の唐文化の影響をうけた文化、です。

*   *   *

まずは宗教から見てゆきましょう。

①平安仏教

平安時代、あらたに密教(みっきょう)という教えが日本に伝来します。
密教とは、大日如来(だいにちにょらい)という仏さまが説いた、
奥が深すぎて人間にはなかなか明らかにできない秘密の教え、なのだそうです。

密教には、加持祈禱(かじきとう、正しい漢字はプリントで確認してください)によって
現世利益(げんぜりやく)を求める、という面があり、
皇族や貴族たちによって支持されます。

って、難しすぎて意味が分かりませんね…

とてもとても簡単に言ってしまうと、
この世での幸せ(現世利益)を期待して、
呪文をとなえたり、火をたいたりして仏さまにお祈りする(加持祈禱)ので、
皇族や貴族たちが密教を支持した、となります。

呪文をとなえたり、火をたいたりして仏さまにお祈りする…といえば、
シーズンオフのたびに広島カープの新井選手がやってますね。
あんな感じだと思ってください(分かります?)。

これまでの宗教、たとえば南都六宗はというと、仏教を研究するグループでしたね。
お経などで顕(あきら)かにされているお釈迦さまの考えを学ぶので、
密教に対して、これを顕教(けんぎょう)と呼びます。

では、密教を日本に初めて伝えたのは誰なのでしょう。

答えは、最澄(さいちょう)です。
死後、清和天皇(せいわてんのう)から伝教大師(でんぎょうだいし)という名を賜った人物です。

幼いころから国分寺で修行した最澄は、785年に東大寺で受戒し、正式なお坊さんになります。
その後、比叡山(ひえいざん)に小さなお寺(のちの延暦寺(えんりゃくじ))を建てて修行していたところ、
唐への短期留学生に選ばれます。
804年、遣唐使の1人として中国に渡り、天台山というところで中国の天台宗の教えや密教などを学びます。
そして、翌805年に帰国したのち日本で天台宗をひらき、比叡山延暦寺を拠点に活動するのです。

最澄は、法華経(ほけきょう)にあるように、人は誰もが「仏性(ぶっしょう)」をもつ、と説きます。
「仏性」とは、仏さまになれる性質のことなのだそうです。
すなわち最澄は、みんな仏さまになれる可能性をもっているんだよ、と説いたわけです。

また最澄は、大乗戒壇(だいじょうかいだん)創設の必要性を説きます。
戒壇とは、戒律を受ける場所のことでしたね。
当時、戒壇は東大寺・筑紫観世音寺・下野薬師寺にありました。
3つまとめて本朝三戒壇というんですよ、復習しておきましょうね。
この3か所のうち、いずれかで受戒をしなければ、当時は正式なお坊さんになれなかったのです。
前述のとおり、最澄も東大寺の戒壇で受戒をしています。

ところが最澄は、鑑真が伝えた戒律とはちがう戒律(大乗戒というものです)を授けるための、
天台宗オリジナルの戒壇、いわゆる大乗戒壇を延暦寺につくろうとするのです。

すると、もちろん南都六宗などと激しく対立することになります。
最澄は、『顕戒論(けんかいろん)』という本を著して、彼らに論駁(ろんばく)します。

平安3-2.jpg

822年、朝廷は延暦寺に大乗戒壇を設立することを許可します。
日本に4つめの戒壇が設立されたのです。
それは、最澄の死後7日目のことでした…
ちょっと最澄!あと1週間がんばんなよー!!と言いたくなりますね…残念……

次に、空海(くうかい)を見ていきましょう。
死後、醍醐天皇から賜った弘法大師(こうぼうだいし)という名でも知られる人物です。
「弘法にも筆の誤り」の「弘法」ですね。

讃岐(さぬき、現在の香川県)に生まれた空海は、役人になるため上京し、大学で学んでいましたが、
やがて仏教の修行に身を投じるようになります。
そして804年、最澄と同じタイミングで留学僧として中国にわたります。

ちなみに、このとき派遣された遣唐使船は4隻です。
空海は1つ目の船に、最澄は2つ目の船に乗り、それぞれ中国へたどりつきます。
しかし、3つ目・4つ目の船は途中で遭難し、中国にたどりつくことはできませんでした。
実に生存率50%…
遣唐使たちは、本当に命がけで中国にわたったのです…

さて、空海。

途中、船が嵐にあいつつもなんとか中国にたどりつき、
長安にある青竜寺(せいりゅうじ)で、恵果(けいか)というお坊さんから密教をがっつり学びます。
そして2年後、空海は帰国し、日本で真言宗をひらきます。
816年には、嵯峨天皇にお願いして高野山(こうやさん)を賜り、
ここに金剛峰寺(こんごうぶじ、「峰」の漢字は「峯」でもOK)を建てるのです。

ところで、空海はなぜ高野山を選んだのでしょう…

こんなおはなしが伝わっています。

まだ空海が中国にいたころ、彼は悩んでいました…
日本に帰ったあと、一体どこを拠点に自分が学んだ密教を広めればよいのか…と。

悩みをかかえる空海は、あるとき、「三鈷杵(さんこしょ)」という密教で使う金ピカの道具を手にしながら、
海岸を歩いていました…

そして!
次の瞬間!!

「どこを拠点にしたらいいのか教えてくれーっ!!」と、空海はその三鈷杵を日本に向かって投げたのです!!!
亡き師匠、恵果からいただいた大切な道具をです!!!!

で、空海帰国。

相変わらず悩みをかかえたまんまの空海が、高野山の近くを歩いていると、
「夜になると光る松があるんだよね」というウワサを耳にします。
なにそれ不思議!

試しにウワサの松を見に行ってみると…

な、なんと!

空海が中国の海岸から投げた三鈷杵が引っかかっているではないですか!!

平安3-1.jpg

ここを拠点に密教を広めればいいよ!と、亡き師匠がくれた三鈷杵が空海に教えてくれたのです。

これが、空海が高野山を選んだ理由です(諸説アリマス)。
金剛峰寺には、今でもその松が「三鈷の松」として保存されています。
信じるか信じないかはアナタ次第。
それにしても空海さん、肩つよすぎでしょ!大谷翔平もビックリだわ!!

さてその後、空海は、嵯峨天皇から平安京にある東寺(とうじ)を賜ります。
正式名称は、教王護国寺(きょうおうごこくじ)です。
空海はここに住居を構え、密教の根本道場とします。
ゆえに、真言宗の密教は「東密(とうみつ)」と呼ばれるようになるわけです。

「東密」に対して、天台宗の密教を「台密(たいみつ)」といいます。

最澄は中国で密教を学びましたが、実はそれはメジャーな密教ではなかったのです…
最澄は、メジャーな密教をすべて学んで帰ってきた空海の弟子となり、教えを請います。
しかし、空海にお経を借りることなどを繰り返した結果、二人の関係は壊れてしまいます…

最澄の死後、弟子の円仁(えんにん)と円珍(えんちん)が中国にわたって密教を学び、
天台宗に密教が本格的に取り入れられるようになります。
円仁は、中国での様子を『入唐求法巡礼行記(にっとうぐほうじゅんれいこうき)』という日記にまとめています。

ところが、10世紀以降、円珍の弟子たちと円仁の弟子たちは対立するようになります。
円珍の弟子たちは比叡山をおりて、園城寺(おんじょうじ、または三井寺(みいでら))というお寺に入ります。
これを寺門派(じもんは)と呼びます。
一方、円仁の門流は比叡山にとどまりますので、これを山門派(さんもんは)と呼びます。
山門派か寺門派か、混同しないよう気をつけてくださいね。

②神仏習合(しんぶつしゅうごう)

神さま(神社)と仏さま(寺院)に対する信仰が、ごちゃまぜになってしまったものです。
天平文化でもちらっと出てきましたね。
このころになると神仏習合はさらに広まっており、
神社の中にお寺がつくられたり(これを神宮寺(じんぐうじ)と呼びます)、
お寺の中に神さまがまつられたり、
神さまの前でお経がとなえられたり…と、かなりごちゃまぜになっています。
まぁね、日本ってそうじゃないですか…
クリスマスを楽しんだ1週間後に神社へ初詣に行ったりね、
チャペルで結婚式あげて、お寺でお葬式したりね、
神仏習合は、そんな日本ならではのごちゃまぜの宗教観だと思ってください(笑)

③修験道(しゅげんどう)

山にこもって厳しい修行をして悟りをひらこうとする山岳信仰に、仏教が結びついた宗教です。
修験道を修行する人を、山伏(やまぶし)と呼びます。
天狗(てんぐ)みたいな格好をした人、といえばイメージわきますかね?

ちなみに私、数年前に1日修験道体験をしました…
ボンノーがうずまいていたので、ちょっときれいになろうかな、と(笑)

山伏さんと一緒に山をひたすら登り、ロープをつたって岩場を進み、
いざ山の頂上付近にある崖へ。
崖から上半身を出した状態で、うつぶせに寝かされ、
山伏さんから「真面目に仕事をするかァァァ!!」などと聞かれました。
もうね、「ウワー!ごめんなさーい!!しますしますしますー!!!」ですよ。
いや、仕事は真面目にしていましけどね。
なんてったって、崖から見えるふもとの人間がアリサイズでしたからね…怖かった……
そして最後は滝にうたれる…というフルコース。
マッパダカの上に、濡れてもそれなりに透けない白い衣をつけて、滝のある川に入ります。
(水着持参で行ってみましたが、ダメデスと言われました…そりゃそうか……)
数日前に大雨が降ったせいで、その滝が瀑布っておりまして、
滝にうたれている間、ずっと頭を力いっぱいどつかれてる感覚でした…
でもなんかすごく心が清められた気がしましたよ、うん。
これが修験道なのか…と、ちょっぴり分かった気分になりました。

*   *   *

続いて、教育を見ていきましょう。

①貴族の教育

このころ、貴族の子弟は、中央に置かれた大学で勉強しているのでしたね。
大学ではとくに、儒教を学ぶ明経道(みょうぎょうどう)や、
中国の歴史や文学を学ぶ紀伝道(きでんどう)が重視されています。

9世紀ごろ、貴族たちは大学で学ぶ子どもたちのために、大学別曹(だいがくべっそう)を設けます。
これは大学の近くにつくった寄宿舎です。
「別荘」ではありませんよ!「別曹」です。
一族の子どもたちをここに住まわせて、勉強しやすい環境をつくってあげるわけです。
和気(わけ)氏は弘文院(こうぶんいん)、
藤原氏は勧学院(かんがくいん)、
橘(たちばな)氏は学館院(がっかんいん)、
在原(ありわら)氏は奨学院(しょうがくいん)、という名前のものをつくります。

②庶民の教育

当時の教育機関である大学・国学は、貴族や郡司の子弟のためのものであり、
庶民が学ぶための場所ではありません。
そこで空海は、綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)という学校を平安京につくります。
どこまで実現できたかは分かりませんが、
空海には、貧しい人も学べるよう無料で給食を出す構想もあったようです。

*   *   *

最後に学問を見ておきましょう。

①漢詩文集

このころ、「文学がさかえると国家の経営がうまくゆき、国家がさかえる」という文章経国(もんじょうけいこく)の思想から、
漢文学がさかんになります。
漢詩文をつくることが、貴族の教養とされたのです。

嵯峨天皇は、すぐれた漢詩文をあつめた本を編纂するよう、小野岑守(おののみねもり)らに命じます。
こうして、最初の勅撰漢詩文集(勅撰漢詩集でもOK)である『凌雲集(りょううんしゅう)』が成立します。
「凌」の字はサンズイではなく、ニスイですからね、気をつけてください。
続いて嵯峨天皇は、もう1冊、勅撰漢詩文集を編纂するよう命じ、
藤原冬嗣らによって『文華秀麗集(ぶんかしゅうれいしゅう)』が成立します。
のち、嵯峨天皇の弟である淳和天皇(じゅんなてんのう)が編纂を命じた『経国集(けいこくしゅう)』とあわせて、
3つの勅撰漢詩文集が成立します。

なお、勅撰というのは、天皇が編纂を命じたもの、ということですからね。
その本が漢詩文集なら勅撰漢詩文集、和歌集ならば勅撰和歌集、となるわけです。

勅撰ではないそのほかの漢詩文集としては、
空海の漢詩や書簡などを、弟子の真済(しんぜい)がまとめた『性霊集(しょうりょうしゅう)』、
菅原道真(すがわらのみちざね)が自らの漢詩を本にまとめて、醍醐天皇(だいごてんのう)にプレゼントした『菅家文草(かんけぶんそう)』などがあります。

ちなみに嵯峨天皇は、平安宮にある門や建物の名前を中国風に改めたり、
宮廷の儀式に中国風のテイストを取り入れたりするなど、唐風(とうふう)を重んじた天皇でもあります。

②詩論

詩論とは、詩についての評論のことです。
中国に留学したことのある空海が、『文鏡秘府論(ぶんきょうひふろん)』という本で、
漢詩文を作成するにあたっての評論をまとめています。

③史書

菅原道真は、六国史の内容を、部門別に分類し、
『類聚国史(るいじゅうこくし)』という本を著しています。
ちなみに「類聚」とは、同じ種類のものを聚(あつ)める、という意味です。

④説話集

822年ごろ、薬師寺のお坊さんである景戒(けいかい、または、きょうかい)によって、
現存する日本最古の説話集である『日本霊異記(にほんりょういき)』が成立します。
正式名称は『日本国現報善悪霊異記(にほんこくげんほうぜんあくりょういき)』です。
善いことをしたら善い報(むく)いが、悪いことをしたら悪い報いがあるよ…という、
仏教の影響を受けた、いわゆる因果応報を説いたストーリーが多く収録されています。
いくつか古典の授業で習ったことがあるのではないでしょうか…?

⑤日記

前述しましたが、円仁の『入唐求法巡礼行記』がこのころ成立しています。

とてもとても長くなりました…
最後に解答を載せておきましょう。

平安3解答.jpg



次回は、弘仁・貞観文化の2回目、建築や美術を取り上げます。
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平安時代(2) [まとめプリント]

随分ご無沙汰してしまいました…
更新が滞っているにもかかわらず、あたたかいコメントを下さった方々、
本当にありがとうございました。
ぼちぼちではありますが、更新を再開します。



*   *   *

前回から、平安時代のまとめプリントを取り上げていました。
今日は2枚目、平城朝と嵯峨朝を見ていきます。

平安2.jpg

806年、桓武天皇の息子である平城天皇(へいぜいてんのう)が即位しますが、
病弱だったこともあり、わずか3年で弟の嵯峨天皇(さがてんのう)に譲位します。

平安京にいる嵯峨天皇と、平城京にもどった平城太上天皇(へいぜいだいじょうてんのう)。
この兄弟は、やがて対立するようになります。
いわゆる「二所朝廷(にしょちょうてい)」という状態です。

810年、嵯峨天皇は蔵人頭(くろうどのとう)という令外官(りょうげのかん)を設置し、
藤原北家の藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ)らをこれに任命します。
その後に起こったのが、薬子の変(平城太上天皇の変)です。
藤原薬子(ふじわらのくすこ)は自害し、藤原仲成(ふじわらのなかなり)は処刑されてしまいます。
2人は藤原種継(ふじわらのたねつぐ)の子ども、すなわち藤原式家の人間です。
薬子の変をきっかけに、藤原式家は没落し、かわって藤原北家が台頭するようになるのです。

以上の流れは、薬子の変のゴロ合わせのことろで詳しく述べましたので、そちらをご覧ください。

では、その後の嵯峨天皇の政治を見ていきましょう。

816年ごろ、嵯峨天皇は令外官をもう1つ設置します。
「検非違使」という名の令外官ですが…
さぁこれ、読めますか?

正解は、ケビイシです。
平安京の警察官であり、かつ裁判官でもあるという重要な役職です。

検非違使と勘解由使(かげゆし)、混同しないように気をつけてくださいね!
検非違使は、非法・違法がないか検察する人、
勘解由使は、解由状(げゆじょう)を勘ぐる人、ということで頭を整理してください。

次に、嵯峨天皇は弘仁格式(こうにんきゃくしき)の編纂を命じます。
大宝律令のところでも触れましたが、
格(きゃく)は、律令の条文を補足したり、改正したりするために出された法令のこと、
式(しき)は、律・令・格を施行するにあたっての細かい取り決めのことです。

このころ、大宝律令・養老律令がつくられてから100年がたとうとしていますが、
新しい律令は作られていません。
律令はそのままに、時代に合わせて必要な法令をそのつど追加しているのです。
それが格です。
たとえば、三世一身法墾田永年私財法がそうです。
どちらも律令には書いていない新しい土地に関する法令、格なのです。
それぞれ、養老七年の格・天平十五年の格、というんでしたね。

また、律令や格でざっくり書いていることを、
「こういう場合はこうしましょう!」と細かく取り決めたものが、式です。
たとえば、国司などが交替するときのために、「交替式」という式が作られています。

平安2-1.jpg

嵯峨天皇の時代に成立した、この『弘仁格式』、
清和天皇の時代に成立した『貞観格式(じょうがんきゃくしき)』、
醍醐天皇の時代に成立した『延喜格式(えんぎきゃくしき)』を、まとめて三代格式といいます。
三「大」格式ではありませんので気をつけてください。
嵯峨・清和・醍醐の3つの「代」で編纂された格式、ということですからね!

なお、『弘仁格』・『貞観格』・『延喜格』は、いずれも失われてしまいましたが、
『類聚三代格(るいじゅうさんだいきゃく)』という本が、それぞれの一部を今に伝えています。
これは、11世紀ごろに成立した、三代格の中身をジャンル分けした本です。
一方、『弘仁式』・『貞観式』は一部のみ残っており、『延喜式』についてはほぼ完全な形で残っています。

それから、養老令の注釈書を2つ取り上げておきましょう。
清原夏野(きよはらのなつの)らが編纂した官撰注釈書の『令義解(りょうのぎげ)』と、
惟宗直本(これむねのなおもと)らが編纂した私撰注釈書の『令集解(りょうのしゅうげ)』です。

『令義解』は官撰、すなわち天皇の命令で清原夏野らがつくった注釈書です。
一方の『令集解』は私撰です。
『令義解』に載らなかった他の解釈を、惟宗直本が自分で集めて本にしたのが『令集解』なのです。
よく似た名前でややこしいですが、区別しておきましょう。
「自分(私撰)でこれ(惟宗直本)だけ集(『令集解』)めたよ!」ってな感じで覚えてください(笑)

続いて、プリントの右上、蝦夷との戦いを見ていきましょう。

桓武天皇の時代に行われた徳政論争で、蝦夷との戦いを停止することが決定ました。
でも、戦いはすぐには停止できません。
キリのよいところまで続けられます。

嵯峨天皇は、文室綿麻呂(ふんやのわたまろ)を将軍に任命し、東北に派遣します。
結果、彼は蝦夷を制圧し、蝦夷の平定を完了させます。
なお、803年に坂上田村麻呂が築いた志波城(しわじょう)が、近くの川の氾濫により被害を受けたので、
813年に志波城から南に約10km下ったところに徳丹城(とくたんじょう)を築きます。

これをもって、覚えるべき蝦夷との関係はおしまいです。
右上の地図で主な城を確認しておいてください。

最後に、地方の変容を見ておきましょう。

8世紀後半から9世紀ごろにかけて、農民たちの間に貧富の差が広がります。
貧しい農民はもちろん、有力な農民までもが、いろいろな方法で厳しい税負担から逃れようとします。
浮浪・逃亡、そして偽籍が頻発するのです。
詳しくは奈良時代(4)に書きましたので、参考にしてください。

浮浪・逃亡・偽籍が頻発すると、戸籍や計帳が信用できなくなります。
すると、これらに基づいた税の徴収も困難になります。

政府は、勘解由使などを設置して、役人の不正や怠慢をなんとかしようと奔走します。
そしてなにより、国家の財源を確保しなければなりません。
そこで政府は、国家が直接経営する田んぼ、すなわち直営田(ちょくえいでん)を作ります。

嵯峨天皇は、大宰府が管轄する地域に公営田(くえいでん)という名の直営田を期間限定で設置します。
このころ、とくに九州では米の不作が続いていたのです。
一部の口分田などを公営田とし、周辺の農民たちに耕作することを義務づけます。
公営田の耕作にかり出された農民たちにはきちんと報酬が支払われ、かつ調・庸も免除されたようです。

879年には、陽成天皇(ようぜいてんのう)が、公営田にならって畿内に官田(かんでん)を設置します。
元慶(がんぎょう)年間に設置された官田なので、元慶官田(がんぎょうかんでん)ともいいます。
ここからの収益を、中央の財源にあてたようです。

なお、このころ中央の各官庁が諸司田(しょしでん)を所有することが認められ、
役人の給料などがそれぞれの諸司田の収益から支払われるようになります。
また、役人たちも自分たちで墾田を集めることで、国家財政に依存することを弱めてゆきます。

天皇はというと、勅旨田(ちょくしでん)という田んぼをもちます。
勅旨(ちょくし、天皇の命令のこと)によって開発された田んぼのことで、皇室の財源としました。

皇族などは、賜田(しでん)という田んぼをもちます。
これは、天皇から賜(たまわ)った田んぼです。

天皇と身近な関係にある皇族や有力貴族は、天皇から賜田を賜ったり、有力な農民を保護したりして、
土地をどんどん増やして力をつけてゆきます。
このような数少ない有力な皇族や貴族を、院宮王臣家(いんぐうおうしんけ)と呼びます。
イングウオウシンケ、なにこのかっこいい響き…

力のない役人は、院宮王臣家の家人(けにん、従者のこと)になることで保護されようとし、
力のある農民は、院宮王臣家の傘下に入ることで国司に対抗しようとします。

墾田永年私財法によって公地公民制が崩壊し、
このころ力のある者がどんどん土地を集積し、ますます力をつけてゆくのです。

それでは、最後に解答を載せておきましょう。

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次回からは、嵯峨天皇のころにさかえた弘仁・貞観文化を2回にわたってとりあげます。

画像出典
http://www.craftmap.box-i.net/
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平安時代(1) [まとめプリント]

今日から平安時代のまとめプリントを取り上げます。



平安時代は長いですよ~…
しかも藤原まみれでややこしい……
めげずに頑張っていきましょう!

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781年、光仁天皇(こうにんてんのう)と高野新笠(たかののにいがさ)の子である桓武天皇(かんむてんのう)が即位します。
天武天皇・文武天皇・聖武天皇・桓武天皇……と、
「武」のつく天皇はたくさんいますので、しっかり整理しておいてくださいね!

それでは、桓武天皇の政治を3つに分けて見ていきましょう。

最初は、プリントの左がわにある「政治改革」です。

光仁天皇は、行財政の簡素化や公民の負担軽減などに取り組みました。
桓武天皇は、そんな父の政治再建政策を受け継いでゆきます。

792年に軍団兵士制を廃止し、かわって健児の制を採用します。
さらに、公出挙の利率を5割から3割に引き下げたり、
雑徭の日数を年間最大60日から30日に半減したりと、
公民の負担を軽くするための改革を次々とおこないます。

また、班田収授も見直します。

このころ、墾田永年私財法が成立してからすでに50年以上が経っており、
人口と荘園が増える一方、班田として与えるべき国の土地は不足していました。
しかも、浮浪・逃亡する農民がいるわ、戸籍をごまかす農民がいるわで戸籍はもうぐちゃぐちゃ。
ただでさえ大変な班田収授の事務作業は、ますます大変になっています……
ということで、班田収授はもはやガタガタの状態です。

そこで桓武天皇は、6年に1度とはいわない!せめて12年に1度でいいから班田収授を続けよう!!
と考えたのです。
班田収授を12年に1度おこなうことを、一紀一班(いっきいっぱん)と呼びます。

ところがやっぱり墾田永年私財法がある以上、班田収授はうまくいかないのです…
9世紀になると、班田が30年、50年とおこなわれない地域が増えてゆき、
ついに、902年の班田が最後となってしまいます……
最後の班田については、のちのち触れたいと思います。

そのほか、桓武天皇は、国司の監督を強化するため、勘解由使(かげゆし)を設置します。
勘解由使は、新しく設置された官職なので、もちろん律令の令には規定されていません。
このような官職を、まとめて令外官(りょうげのかん)といいます。
「令」の「外」に新しく規定された「官職」、ということで令外官です。
プリントの左下に表をつくってまとめておきましたので、参考にしてください。

漢字も読み方も覚えにくい厄介な存在、勘解由使…
国司が提出する「解由状(げゆじょう)」を「勘」ぐるヒト、と覚えてください。

国司は、中央貴族が任命される官職で、このころ任期は4年です。
4年たてば、都から新しく任命された国司がやってきます。
すると、これまでの国司は、新しい国司に仕事の引き継ぎをします。

引き継ぎが終わると、新しい国司は「前任者からの事務引き継ぎが完了しました!」という証明書を書いて、
これまでの国司に渡します。
この証明書が解由状です。
そして、これまでの国司は都に戻り、解由状を式部省に提出し、新たな官職に任命してもらうのです。

しかし…すんなりと事務引き継ぎが完了しない場合があります。
これまでの国司が税をとりすぎていたとか、お給料を多くもらっていたとか、不正をしている場合です。
不正を目の当たりにした新しい国司が解由状を書かず、なかなか国司が交替できなかったり、
これまでの国司が新しい国司にワイロを渡してウソの解由状を書いてもらったり…
そんな事態がたくさんあったようです。

こうして、解由状を審査する勘解由使が置かれたのです。

平安1-1.jpg

続いては、プリントの真ん中のブースにある遷都です。

桓武天皇は、784年に長岡京遷都
さらに794年には平安京遷都を行います。
これらについてはゴロ合わせで詳述しましたので、それぞれのページをご覧ください。

最後に、プリントの右はしのブース、蝦夷(えみし)との戦いを見ていきましょう。

光仁天皇の時代に伊治呰麻呂の乱が起こって以降、
東北地方では30年以上にわたって、蝦夷との戦いが続いていました。

そこで桓武天皇は、789年に東北地方へ大軍を派遣します。
伊治呰麻呂の乱で蝦夷と戦った経歴をもつ紀古佐美(きのこさみ)を
征東大使(せいとうたいし、または征東大将軍(せいとうだいしょうぐん))に任命し、
胆沢(いさわ)地方(現在の岩手県奥州市のあたり)の蝦夷を制圧しようとしたのです。

しかし、この胆沢地方の蝦夷がなかなか手強い!
族長の名は、阿弖流為(あてるい、または大墓公阿弖利為(たものきみあてりい))といいます。
彼の活躍によって、紀古佐美はボッコボコにされてしまうのです…

797年、桓武天皇は、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)を征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任命します。
征夷大将軍も令外官ですよ、プリントの左下にある表にも載っていますね。
これがのちのち幕府をひらく存在になってゆきます。
略して「将軍」です。

さてその征夷大将軍・坂上田村麻呂。
801年に軍を率いて東北地方へゆき、蝦夷との戦いを制します。
翌802年には阿弖流為らの降伏を認め、この地に胆沢城(いさわじょう)を築きます。

ちなみに、阿弖流為は都に連れていかれ、処刑されてしまいました。
坂上田村麻呂は助命を訴えたようですが…

京都には坂上田村麻呂が建立した有名な清水寺(きよみずでら)がありますが、
そこにはこんな石碑があります。

P3294759.JPG

暗い写真ですいません…
なぜか夜に撮ったものしか見つからなくって……

たとえ暗くとも、阿弖流為の名前が刻まれているのが分かりますよね。
隣の母礼(もれ)とは、阿弖流為とともに処刑された、蝦夷のリーダーとされる人物です。
清水寺にお参りされる際は、ぜひこちらも探してみてくださいね★
出口付近にありますので、見落とさないように!

803年、坂上田村麻呂は胆沢城のさらに北に志波城(しわじょう)を築きます。
これによって、朝廷の支配は北上川の北部にまでおよぶようになったわけです。

そんななか、805年に徳政論争(徳政相論)が行われます。
詳しくはゴロ合わせのページをご覧ください。
この徳政論争で、桓武天皇は藤原緒嗣(ふじわらのおつぐ)の意見を採用し、
軍事(ぐんじ、蝦夷との戦い)と造作(ぞうさく、平安京の造営)の二大政策の打ち切りを決定します。

が!
蝦夷との戦いは急にやめられません、戦いが一段落するまで継続されます。
続きは次のプリントで見ていきましょう!

それでは、最後に解答を載せておきます。

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次回は、桓武天皇の息子である平城天皇と嵯峨天皇の時代を取り上げます。
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奈良時代(7) [まとめプリント]

天平文化の2回目は、建築・仏像・絵画・工芸をとりあげます。



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最初に建築物を7つ見ていきましょう。

①法隆寺夢殿(ほうりゅうじゆめどの)
  珍しい八角形の建物です。
  夢殿の本尊は、飛鳥文化で登場した救世観音像です。
  フェノロサが包帯をぐるぐる解いてしまったあの仏像ですよ、あわせて復習しておきましょう!
②法隆寺伝法堂(ほうりゅうじでんぽうどう)
  聖武天皇の奥さん(光明皇后のほか4人ほどいたようです…)の1人である
  橘古那可智(たちばなのこなかち)の住宅を仏堂に改造したものと伝わっています。
  当時の貴族がどんな家に住んでいたのかを知る貴重な手がかりとなる建物です。
  なお、①と②はいずれも法隆寺式伽藍配置から東に300mほど歩いたところにあります。
③東大寺法華堂(とうだいじほっけどう)または東大寺三月堂(とうだいじさんがつどう)
  3月に法華会(ほっけえ)という法要がおこなわれた時期があったことから、この名があるようです。
  プリントの写真のように西側から法華堂を見ると、
  向かって左側が三角形、右側が四角形になっているのが特徴です。
  法華堂には天平文化を代表する仏像がたくさん安置されていますので、のちほど取り上げます。
④東大寺転害門(とうだいじてがいもん)
  東大寺が創建されたときにつくられた門のうち、唯一現存しているものです。
⑤正倉院宝庫(しょうそういんほうこ)
  聖武太上天皇の死後、彼が大切にしていた品々や大仏開眼供養で使用した品々を、
  奥さんである光明皇太后が東大寺に献上したのですが、それらをながらく保管してきた倉庫です。
  宝物は現在、正倉院宝庫のすぐ近くに建てられたコンクリート造りの倉庫に収蔵されています。
  正倉院宝庫の写真を見ると、扉が3つあることが分かりますね。
  正倉院倉庫は北倉(ほくそう)・中倉(ちゅうそう)・南倉(なんそう)という3つの倉で構成されているのです。
  両サイドの北倉と南倉には、校倉造(あぜくらづくり)が用いられています。
  ちなみに、いずれの倉の扉も開けるには勅許(ちょっきょ、天皇の許可のこと)が必要です。
  このような倉を勅封倉(ちょくふうそう)といいます。
 先ほど述べたコンクリート造りの倉庫も、もちろん勅封倉です。
⑥唐招提寺金堂(とうしょうだいじこんどう)
  奈良時代に建立された金堂として、唯一現存しているものです。
⑦唐招提寺講堂(とうしょうだいじこうどう)
  平城宮の東朝集殿(ひがしちょうしゅうでん)という建物を移築・改修したものと伝わっています。
  平城宮の宮殿の様子を伝える唯一の建物です。
  ちなみに、講堂とはお坊さんたちが学問や研究をおこなう場所でしたね。
  南都六宗の律宗は、ここを拠点にさかえたわけです。

建築の最後に、飛鳥文化白鳳文化に続けて伽藍配置を取り上げましょう。
天平文化で登場する伽藍配置は、東大寺と大安寺の2種類です。
飛鳥文化の伽藍配置は、仏舎利をおさめる塔を中心としていましたが、
天平文化のころになると、本尊を安置する金堂や、学問の場である講堂が重視されるようになります。
東大寺式伽藍配置も大安寺式伽藍配置も、塔が歩廊の外に出てしまっているのが分かりますね。 

それから、①~⑦の建築物のように、このころ礎石(そせき)や瓦(かわら)を用いた壮大な建物が多くつくられます。
瓦はもちろん屋根にのっかっているアレです。
礎石はというと、建物の土台となる石のことです。
次の2枚の写真を見てください。
1280px-Todaiji10s3200.jpg 1280px-Kaidan-in_Todaiji_JPN.jpg
1枚目は先ほど登場した東大寺法華堂、2枚目は東大寺戒壇堂という建物です。
赤く丸をつけた部分が礎石です。
柱が乗っかっているのが分かりますね?
このように礎石の上にたてる柱の方が、土の湿気などを直接うけてしまう掘立柱より長持ちするそうです。
しかも地震にも強いんだとか。
いまでいう免震構造ってやつです。
「○○の跡」というような遺跡に行くと、石が整然と並んでいることがありますが、それが礎石です。
たとえば、安土城の天守閣跡は、こんな感じで礎石が並んでいます。
E784A1E9A18C0.png
この上に柱がたっていて、一体どんな建物があったのか…想像するだけでワクワクしますねぇ…

次に、仏像をみていきましょう。
天平文化では仏さまだけでなく神さまの像も多く登場しますが、以下では便宜上ひっくるめて「仏像」と表記します。
ご了承ください。

天平文化の仏像は、おもに2種類の方法でつくられています。
1つが塑像(そぞう)、もう1つが乾漆像(かんしつぞう)です。
塑像は、綱引きで使うようなガシガシの縄を巻きつけた木製の芯に、粘土をどんどんくっつけて形づくるものです。
一方、乾漆像は、土や木でつくった原型に麻布をはり、その上から高価な漆を塗ってでカチカチに固めたあと、
底や背中などの目立ちにくい部分を切り開いて原型を取り出し、傷口をふさいで完成させるものです。
見た感じは、前者は粘土なのでザラザラ、後者は漆なのでテカテカです。

チョコレートでたとえると、塑像は中までぎっしりつまった食べごたえのあるチョコレートで、
乾漆像は表面だけ型をとって中はカラッポの食べたらボロっと崩れるチョコレート、って感じですかね。
なんとなくイメージできましたか?

では、塑像から見ていきましょう。

①東大寺法華堂執金剛神像(とうだいじほっけどう しつこんごうしんぞう)
  あの良弁さん(詳しくは奈良時代(6)をご覧ください)がつくったというウワサがある神様の像です。
  法華堂の奥にある厨子に安置されていて、通常は非公開なのですが(これを秘仏(ひぶつ)といいます)、
  良弁さんの命日にあたる12月16日だけ、毎年公開されています。
  いつも厨子の中にいて、日の光や風にあまりあたらなかったため、保存状態がたいへんよく、
  現在も天平時代の美しい彩色を見ることができる貴重な塑像です。
②東大寺法華堂日光菩薩像・月光菩薩像(とうだいじほっけどう にっこうぼさつぞう・がっこうぼさつぞう)
  よく似た2人ですが、両者を識別せよなんていう入試問題はありませんからご安心ください(笑)
  こちらもよーく見ると、美しい彩色がちょっとだけ残っています(とくに日光菩薩、といっても識別は無用です)。
  数年前までは法華堂の本尊の両サイドに安置されていましたが、現在は東大寺ミュージアムに移動しています。
③東大寺戒壇堂四天王像(とうだいじかいだんどう してんのうぞう)
  先ほど写真で登場した戒壇堂にある四天王像です。
  四天王とは仏教における守護神のことで、持国天(じこくてん)・増長天(ぞうちょうてん)・
  広目天(こうもくてん)・多聞天またの名を毘沙門天(たもんてん・びじゃもんてん)の4人をさします。
  最新の研究では、彼らも法華堂に安置されていたのではないか…と指摘されています。
  それにしても…4人ともすごいリアルな表情をしていますよねー…
  広目天が雨上がり決死隊の宮迫さんにしか見えないのは私だけでしょうか……(笑)
  ちなみに、四天王像の足下を見てください。
  それぞれ何かを踏んづけていますよね。
  これ、邪鬼(じゃき)と呼ばれる悪いヤツらです。
  とはいえ、いくら悪いヤツでもそんな踏み方ないでしょ…と突っ込みたくなります。
  持国天なんて踏み方えげつないですもんね、そこ踏んだらあかん!!
  しかし!ご心配なく!!
  鎌倉文化では邪鬼が主役になりますのでお楽しみに~。
④新薬師寺十二神将像(しんやくしじ じゅうにしんしょうぞう)
  新薬師寺は、光明皇后がたてたとされる奈良にあるお寺です。
  本尊の周囲にグルっと立っている12人の神様をまとめて十二神将と呼ぶのですが、
  これがめちゃくちゃかっこいい!
  2011年にJR東海さんのCMにつかわれたのですが、ちょっとこの動画を見てください!!

  どうです、かっこいいでしょう!
  もとはこんな鮮やかな色をしていたのでは…というところまでCGで再現してくださっていて素晴らしい!!
  ほかのCMもよかったらご覧ください、戒壇堂バージョンもおすすめです。

続いて乾漆像を見ていきましょう。

⑤興福寺八部衆像(こうふくじ はちぶしゅうぞう)
  八部衆という8人組の神様のうち、最も有名なのが阿修羅像(あしゅらぞう)です。
  インドの神話では悪の戦闘神とされましたが、仏教ではお釈迦さまの守護神となったそうです。
  顔が3つで手が6本、見た目は少年のようですが、なんともいえない表情をしていて心をつかまれますね。
  最近はファンクラブまであるという人気ぶりです。
奈良7-1.jpg
⑥興福寺釈迦十大弟子像(こうふくじ しゃかじゅうだいでしぞう)
  お釈迦さまにはたくさんお弟子さんがいますが、そのうち主要な10人をまとめて十大弟子といいます。
  なかでも須菩提像(すぼだいぞう・しゅぼだいぞう)、かわいいですよね…
  八部衆像も十大弟子像も、現在は興福寺にある国宝館で見ることができます。
⑦東大寺法華堂不空羂索観音像(とうだいじほっけどう ふくうけんじゃくかんのんぞう)
  362cmもある大きな大きな仏像で、法華堂の本尊です。
  かつては両サイドに日光菩薩像と月光菩薩像が安置されていました。
  おでこにはタテに3つめの目があり、8本の腕をもちます。
  背が高すぎてなかなか見えませんが、とてもきらびやかな冠をかぶっています。
⑧唐招提寺鑑真和上像(とうしょうだいじ がんじんわじょうぞう)
  師匠である鑑真の死が迫っていることを悟った弟子がつくらせた、日本で初めての肖像彫刻です。
  とてもリアルで、いまにも動き出しそうです。
  そして、衣の赤い色や袈裟の模様もよく残っていますね。
  現在は毎年6月5日から7日の3日間だけしか公開されないため、2013年に精巧なレプリカがつくられました。 
⑨唐招提寺金堂盧舎那仏像(とうしょうだいじこんどう るしゃなぶつぞう)
  304.5cmある大きな仏像で、唐招提寺金堂の本尊です。
  光背(こうはい)には、ちっちゃな仏像がいっぱいついていますが、もとは1000体あったようです。
⑩聖林寺十一面観音像(しょうりんじ じゅういちめんかんのんぞう)
  本体の顔のほか、頭に10個または11個の顔がついている観音さまを十一面観音といいます。
  一番見えにくい後頭部には爆笑している顔がついているのですが、
  聖林寺の十一面観音像はそれが失われてしまっています。

仏像は以上です。
長くなりますがもう一息です、最後に絵画・工芸を見ていきましょう。

①正倉院宝物(しょうそういんほうもつ)
  さきほど正倉院宝庫のところで登場しました。
  聖武太上天皇が生前愛した品々をはじめとする、9000点にもおよぶ宝物群です。
  シルクロード(絹の道)を経て日本にやってきたと考えられるような、
  唐や西アジア・南アジアとの交流を示すものも多く見られます。
  たとえば、「螺鈿紫檀五絃琵琶(らでんしたんごげんのびわ)」には、ラクダが描かれていますし、
  「漆胡瓶(しっこへい)」や「白瑠璃碗(はくるりのわん)」・「紺瑠璃杯(こんるりのつき)」も、
  ペルシアの影響を色濃く受けたものと考えられます。
  6枚組の 「鳥毛立女屏風(ちょうもうりゅうじょびょうぶ・とりげだちおんなのびょうぶ)」は、
  樹の下に唐風の衣装をまとった美女(美女ですよ!)が立っているという構図ですが、
  唐の「樹下美人図」とよく似ていることから、影響を受けたものと考えられます。
  「鳥毛」とありますが、もとはヤマドリの毛を貼ったふわっふわの屏風であったようです。
  なお、毎年10月に奈良国立博物館で「正倉院展」がひらかれます。
  1300年前の宝物が見られる機会なんてなかなかありませんので、ぜひ一度足を運んでみてください。
②薬師寺吉祥天像(やくしじきちじょうてんぞう)
  53cm×31.7cmの麻布に描かれた吉祥天という女神さまです。
  左手に赤い玉を持っていますが、これはどんな願い事でも叶えてくれるシロモノだそうです…
  非公開ですが、毎年元日から2週間ほど特別に公開されています。
③過去現在絵因果経(かこげんざいえいんがきょう)または絵因果経(えいんがきょう)
  お釈迦さまの前世などを、上段にイラスト、下段にお経を配して述べたものです。
  平安時代以降さかんに描かれるようになる絵巻物の源流ではないかと言われています。
④東大寺大仏殿八角灯籠(とうだいじだいぶつでんはっかくとうろう)
  現在も大仏殿の真正面にどどんとある八角形をした金銅製の灯籠です。
  灯籠に火をともすためにつけられたドアの周囲には、音楽を奏でる菩薩さまが彫刻されています。
  東大寺にお参りの際は、大仏さまに直行するのももちろんいいですが、
  ついつい見逃しやすい八角灯籠をお忘れなく!
toudaiji.png

長くなりました、最後までお付き合いありがとうございました。
最後に解答を載せておきましょう。

奈良7解答.jpg



これで奈良時代は終了です。
次回から、平安時代のゴロ合わせを始めます。

画像出典
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E9%9A%86%E5%AF%BA#.E6.9D.B1.E9.99.A2.E4.BC.BD.E8.97.8D
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%A4%A7%E5%AF%BA
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E5%80%89%E9%99%A2
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%90%E6%8B%9B%E6%8F%90%E5%AF%BA
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%A4%A7%E5%AF%BA%E6%B3%95%E8%8F%AF%E5%A0%82
http://www.shinyakushiji.or.jp/junisinsho/
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E4%BF%AE%E7%BE%85
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%88%E7%A6%8F%E5%AF%BA%E3%81%AE%E4%BB%8F%E5%83%8F
http://www.toshodaiji.jp/ganjin.html
http://www.toshodaiji.jp/about_kondoh.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E6%9E%97%E5%AF%BA
『正倉院の宝物』(平凡社、1989年)、72~73頁、57頁、38頁、52頁、54頁
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%AC%E5%B8%AB%E5%AF%BA
https://ja.wikipedia.org/wiki/MOA%E7%BE%8E%E8%A1%93%E9%A4%A8
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%B5%E5%9B%A0%E6%9E%9C%E7%B5%8C
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