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鎌倉時代(8) [まとめプリント]

今日は、鎌倉時代の社会の変動について見ていきましょう。

鎌倉8.jpg

(1)農業

①農耕
・二毛作(にもうさく)の普及
…二毛作とは、同じ土地で違う種類の作物を年2回収穫することで、
 鎌倉時代には、少なくとも畿内・西日本一帯でおこなわれるようになっています。
 メインの作物を表作(おもてさく)、そのあとに植える作物を裏作(うらさく)と呼び、
 春~秋にかけて表作の米を、秋~冬にかけて裏作の麦を作る、というパターンが多かったようです。
 ちなみに、同じ土地で同じ種類の作物を年2回収穫するのは二期作(にきさく)ですからね☆
・鉄製農具(てつせいのうぐ)の普及
…弥生時代から使われていますが、貴重品のため有力者からレンタルするケースがほとんどでした。
 鎌倉時代には、多くの農民がマイ鉄製農具を持てるまでに普及したと考えられています。
・牛馬耕(ぎゅうばこう)の普及
…牛や馬に犂(からすき)という農具を引かせて土を深く掘り起こしたり、
 馬に馬鍬(まぐわ)を引かせて土を砕いたりならしたりすることで、
 鎌倉時代、西日本を中心に広がります。
 人間とは格段にパワーの違う牛や馬の利用は、農作業の効率&生産力アップにつながります。
・大唐米(だいとうまい)の輸入
…東南アジア原産のイネの品種で、鎌倉時代に中国から伝来します。
 災害に強くて多収穫なのがイイトコロなんですが、あんまりおいしくないらしいです…
 (それゆえか、現在は栽培されていないそうです)

②肥料
二毛作によって土地が痩せてしまうこともあり、田畑に肥料をまくようになります。
・刈敷(かりしき)
りとった草の茎や葉っぱを田んぼや畑にきつめ(ゆえに刈敷)、
 人や牛・馬の力で地中に踏み込み、そこで腐らせたもの。
・草木灰(そうもくばい、または、そうもくかい)
…草や木を燃やして灰にしたもの。
 主成分はカリウムで、連作によって酸性にかたむいた土壌を中和する働きがあります。
・厩肥(きゅうひ)
…牛や馬などの家畜の排泄物(はいせつぶつ)とワラなどを混ぜて腐らせたもの。

③その他
・荏胡麻(えごま)の栽培
…荏胡麻という植物の実を絞って、灯明(明かりのこと)用の油をとります。
 (現在、荏胡麻油は健康食品として売られています。サラダにかけたりして食べると体にヨイそうな)

(2)手工業

・番匠(ばんしょう、建築を手がける技術者)
・鍛冶(かじ、熱して柔らかくした金属を鍛えて、刀などの武器や農具をつくる技術者)
・鋳物師(いもじ、溶かした金属を鋳型に流し入れ、鐘・鍋・釜などをつくる技術者)
・紺屋(こうや、糸や布を藍で染める技術者)
そのほか、絹布(けんぷ)や麻布(あさぬの)を織る者など、様々な手工業者が現れるようになり、
やがて自分たちの技術や商品を売り歩くようになります。

ちなみに、「春日権現験記」(かすがごんげんげんき)という絵巻物に描かれている番匠はこんな感じです。
鎌倉8-3.jpg
様々な工具を使って、木を削ったりしている様子がよく分かりますね~。



(3)商業

①定期市(ていきいち)
荘園・公領の中心地や交通の要地、寺社の門前などで定期市が開かれるようになります。
これ、簡単に言うと「人がたくさん行き来する場所で、決まった日にお店が並ぶ」ということです。

関西では、毎月21日にひらかれる東寺(とうじ)の弘法市(こうぼういち)や、
毎月25日にひらかれる北野天満宮(きたのてんまんぐう)の天神市(てんじんいち)が有名で、
ローカルニュースで取り上げらることもしばしばです。
みなさんがお住まいの地域でもそんな市がひらかれているかもしれませんね。

ところで…

東寺…
北野天満宮…

なつかしいワードが出てきましたねー!
それぞれに縁(ゆかり)のある歴史上の人物名、出てきますか~?

まず、東寺(教王護国寺、きょうおうごこくじ)といえば…
弘法大師(こうぼうだいし)こと空海(くうかい)ですよね!
平安京の官寺(かんじ)である東寺を嵯峨天皇(さがてんのう)から賜わった人物です。
空海は3月21日に亡くなったので、東寺の弘法市は月命日である21日にひらかれています。

次に、北野天満宮といえば…
菅原道真(すがわらのみちざね)ですよね!
宇多天皇(うだてんのう)に重用され、遣唐使(けんとうし)派遣の停止を建議するなど活躍しますが、
醍醐天皇(だいごてんのう)の時代、藤原時平(ふじわらのときひら)の讒言(ざんげん)によって大宰権帥(だざいのごんのそち、または、だざいのごんのそつ)に左遷(させん)された人物です。
そんな菅原道真を天神様(てんじんさま)として祀(まつ)る北野天満宮では、
彼の誕生日が6月25日、命日が2月25日ということから、毎月25日に天神市がひらかれています。

さぁ、もろもろ復習したところで、定期市のお話に戻りましょう。

鎌倉時代の定期市は、たいてい月に3回ひらかれたようで、
これを三斎市(さんさいいち)と呼びます。
(室町時代になると月に6回に増えます、呼び方はもちろん六斎市(ろくさいいち)です)

三斎市がひらかれる日は、
それぞれの地域ごとに「毎月4のつく日(4日・14日・24日)」みたいに決まっていて、
四日市(よっかいち)をはじめ「○日市」という現在の地名は、そのころの名残なんだとか。

では、三斎市の様子を「一遍上人絵伝」(いっぺんしょうにんえでん)で見てみましょう。
次の場面には、備前国(びぜんのくに)の福岡市(ふくおかのいち)の様子が描かれています。
ところで備前国ってどこか分かりますか?福岡県じゃありませんからねー!
(分からない人はココで復習ですよ!)

鎌倉8-1.jpg
(江戸時代に描かれた「一遍上人絵伝」の模本の一部、東京国立博物館蔵)

「一遍上人絵伝」って、鎌倉時代(5)でも紹介しましたけど、
そこかしこに一遍(いっぺん)という僧侶が描かれているんでしたよね!

さぁ~この場面、どこに一遍が描かれているか分かりますか~!?
2人いますよ~!!

正解はココです!!!(それぞれ「一遍1」・「一遍2」としています)

鎌倉8-2.jpg
(前掲の画像に赤字と黒字で文字・図形を加筆)

まずは場面中央にいる一遍1を見てください。
3人の武士にからまれていますね!一遍ピンチ!!

一体なにがあったというのでしょう…
一遍1の目の前にいる武士を、便宜上「武士A」と呼んで説明します。

数時間前のことでしょうか、武士Aが帰宅します。
すると、自分が留守の間になんと奥さんが出家してしまっているではありませんか!
なんでも、一遍とかいうボーズの教えに感銘を受けちゃったんだって!!
(のちのち鎌倉文化で取り上げますが、一遍は時宗(じしゅう)という宗派の開祖です)

これに激怒した武士Aは、家来を引き連れて一遍を追いかけます。
そうしてようやく福岡市で一遍をつかまえ、刀に手をかけながらケンカ腰で一遍を問い詰めている、
というのが一遍1のシーンです。

ところがどっこい!

このあと武士Aもすっかり一遍の教えに感銘を受けてしまい、
たちまち木の下で一遍に髪をそってもらって出家しましたとさ、
というのが一遍2のシーンです。

ここでは一遍のスゴさは置いといて、福岡市の様子を見てください。

道路をはさんで建てられている簡単な小屋には、
はきもの・布・お米・お魚などなど、いろいろな商品がぎっしりと並んでいて、
それぞれのブースで売り買いがおこなわれている様子が見て取れますね。

このような三斎市では、農業の発達によって生まれた余剰生産物や、
手工業の発達などを背景に自分たちでつくった特産品を売っていたり、
はたまた行商人(ぎょうしょうにん)が都から運んできた珍しい品物も売っていたりします。

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また、とくに大きな都市では、高級品を扱う手工業者や商人があつまり、
鎌倉時代末期になると常設の小売店である見世棚(みせだな)も現れます。

②座(ざ)
平安時代後期ごろから、商工業者たちは同業者団体である座を結成し、
大寺社や天皇家に属して製造・販売にまつわる特権を認めてもらうようになります。
座の構成員のうち、大寺社に属する者を神人(じにん)、天皇家に属する者を供御人(くごにん)と呼びます。
(詳しくは室町時代のまとめプリントで説明しますね~)

③貨幣経済の浸透
売買の手段として、貨幣が広く用いられるようになります。
たとえば、さきほどの「一遍上人絵伝」のなかにも、貨幣による取引の様子が描かれています。

鎌倉8-4.jpg
(前掲の画像の一部を抜粋し、青丸を追加)

一遍1が武士Aにからまれているすぐ近く、青い丸で囲った部分を見てください。
右側にいる大きな笠をかぶった女性が手に持っている布を、左側にいる男性が買おうとしています。
ちょっと画質が悪くて見えにくいんですけど、
男性は、貨幣の真ん中に空いた穴にヒモをとおして束(たば)にしたものを持っていて、
どうやらこれで布の代金を支払うようです。

日本では、本朝十二銭(ほんちょうじゅうにせん)、または皇朝十二銭(こうちょうじゅうにせん)以来、
貨幣の鋳造をおこなっていません。
ということで、このころ使用している貨幣は、
日宋貿易(にっそうぼうえき)で中国から輸入した宋銭(そうせん)です。

これまで、取り引きはお米や絹布といった現物でおこなわれてきましたが、
軽くてかさばらない貨幣は使い勝手がよく、どんどん市場に浸透してゆきます。
とくに不特定多数の人々が取り引きをする三斎市では、貨幣での支払いが好まれたようです。
また、一部の荘園では、年貢をお金で納める銭納(せんのう)もはじまります。

もう1つ、「山王霊験記」(さんのうれいげんき)という絵巻物も見てみましょう。
ここにも貨幣の束が描かれています。

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(久保惣美術館蔵)

これは、屏風の陰に隠れている赤い着物の女性が、困窮するあまり借金をしようとしているシーンです。
縁側の下に座っている男性は、女性の家に貨幣の束を持参した高利貸業者の使者です。
永仁の徳政令のところでも登場しましたが、このような高利貸業者を借上(かしあげ)と呼びます。

それから、この時代、高額の取り引きや遠隔地との取り引きも増えるのですが、
その場合は貨幣ではなく、為替(かわせ)というシステムが広く使われました。
これは、割符(さいふ)と呼ばれる為替手形(かわせてがた)を使って決済する方法です。
ややこしいので簡単なイラストで説明しますね~。

鎌倉8-6.jpg

地方のAさん(左下の人)が、中央にいるBさん(右下の人)と高額な取り引きをする、
というパターンを見てみましょう。

まず、地方のAさんは、地方の割符屋(さいふや)さんに大量のお米やお金を持ち込みます。
すると、地方の割符屋さんは「お米をいくら、お金をいくら預かりました」、という為替手形(証明書的なもの)を発行します。
これが割符です。

次に、割符を半分に割り、片方(赤丸の割符)を地方のAさんに、もう片方(青丸の割符)を中央の割符屋さんに渡します。
その後、地方のAさんから割符の半分(赤丸の割符)を受け取った中央のBさんは、
中央の割符屋さんにそれを持ってゆき、
地方の割符屋さんから中央の割符屋さんに届けられたもう半分の割符(青丸の割符)と照合してもらいます。
そこで2つの割符がピッタリ合ったら、中央のBさんは、
地方のAさんが預けたのと同じ額のお米とお金を受け取ることができる、というワケです。

お米よりも貨幣、貨幣よりも割符で取り引きする方が、輸送コストがかかりませんもんね。
もちろん割符屋さんにいくらかの手数料を支払わなければなりませんが、
お米や貨幣の運送料や安全面を考えれば安いものです。

また、遠隔地との取り引きがさかんになるにつれ、交通の要地では様々なものが整備されるようになります。

陸上交通の要地には、宿(しゅく)とか宿駅(しゅくえき)と呼ばれるものが設けられます。
これは、長距離を移動する人や馬が食事や休息をとる場所です。
海上交通の要地には、問(とい)とか問丸(といまる)と呼ばれる業者が現れます。
商品の中継・委託販売・運送などなど、様々なことを請け負ってくれる運送業者さんです。

(4)農民の訴え

鎌倉時代、荘園領主や地頭の圧迫や非法に対して、
農民たちが団結して訴訟を起こしたり、集団で逃亡したりする例が増加します。

ではここで史料を1つご紹介しましょう。

1275年、紀伊国(きいのくに)にある阿氐河荘(あてがわのしょう)という荘園の百姓たちが、
地頭である湯浅宗親(ゆあさむねちか)のヒドさを13ヶ条にまとめ、
領家(りょうけ)の寂楽寺(じゃくらくじ)に訴えた申状の一部(4ヶ条目)です。

「紀伊国阿氐河荘民の訴状」(きいのくにあてがわしょうみんのそじょう)
 阿テ河ノ上村百姓ラツゝ(謹)シ(ン脱落)テ言上
一、ヲンサイモク(御材木)ノコト、アルイワチトウ(〔1   〕)ノキヤウシヤウ(京上、京都大番役などのために上京すること)、アルイワチカフ(近夫、近所で使役される人夫役のこと、ゲカフ(下向)の誤りという説もアリ)トマウシ(申し)、カクノコトクノ人フ(人夫)ヲ、チトウ(〔1   〕)ノカタエせメツカワレ(責め使われ)候ヘハ、ヲ(テの誤り)マヒマ(手間暇)候ワス候。ソノヽコリ(残り)、ワツカニモレノコリテ候人フ(人夫)ヲ、サイモクノヤマイタシ(山出し)エ、イテタテ(出立て)候エハ、テウマウ(逃亡)ノアト(跡、逃亡した百姓の耕地のこと)ノムキ(麦)マケ(蒔け)ト候テ、ヲイモトシ(追い戻し)候イヌ。ヲレラ(俺ら、お前たちのこと)カコノムキ(麦)マカヌモノナラハ、メコトモ(妻と子ども)ヲヲイコメ(追い込め)、ミヽ(耳)ヲキリ、ハナヲソキ(削ぎ)、カミ(髪)ヲキリテ、アマ(尼)ニナシテ、ナワ(縄)ホタシ(絆)ヲウチテ(縄やひもでしばること)、サエナマント(苛まんと)候ウテ、せメ(責め)せンカウ(厳しく詮議(せんぎ)すること)せラレ候アイタ、ヲンサイモクイヨヽヽヲソ(遅)ナワリ候イヌ。ソノウエ百姓ノサイケイチウ(在家一宇、民家一軒のこと)、チトウトノ(〔1   〕殿)エコホチトリ候イヌ。(「高野山文書」、原文のまま)

たどたどしいカタカナで書かれていて読みにくいですが、農民たちの切実さが伝わってきますね…

史料中に何度も登場する「チトウ」、これ何のことか分かりますか?
そうです、農民たちにヒドいことばかり強いてくる地頭です!
なので、〔1   〕の空欄には地頭が入ります。

では、簡単に訳してみましょう。

 阿氐河荘上村の百姓らが謹んで申し上げます。
一、荘園領主(領家の寂楽寺)におさめる材木が遅れていることについてですが、地頭(湯浅宗親)が上京するだとか、近所での人夫役だとか言っては多くの人夫をこき使うので、まったく労力と時間がありません。地頭に使われずにわずかに残った人夫を集め、材木切り出しのため山へゆこうとすると、地頭は「逃亡した百姓の耕地に麦をまけ」と言って追い返してしまいます。「お前たちがこの麦をまかないと、妻や子どもを家に閉じ込め、耳を切り、鼻を削ぎ、髪を切って尼にして、縄で縛って折檻するぞ」と厳しく詮議されるので、領家へおさめる材木がますます遅くなってしまったのです。その上、百姓の住む家が一軒、地頭に取り壊され、持って行かれてしまいました。

「ミヽヲキリ、ハナヲソキ」ですって!
いやぁぁぁぁーーー、地頭ヒドい!ヒドいわ!!
このような地頭との対決を通して、農民たちは経験を積み、つながりを強め、自立心を高めてゆくのです。

たいへん長くなってしまいました!
最後に解答を載せておきますね☆
鎌倉8解答.jpg

次回の鎌倉時代(9)では、鎌倉仏教をまとめてゆきます!!



【画像出典】
東京公立博物館研究情報アーカイブズ https://webarchives.tnm.jp/
https://ja.wikipedia.org/wiki/春日権現験記絵
https://ja.wikipedia.org/wiki/山王霊験記

【参考文献】
近藤成一編『日本の時代史9 モンゴルの襲来』(吉川弘文館、2003年)
本郷恵子『日本の歴史6 京・鎌倉ふたつの王権』(小学館、2008年)
池田洋子「一遍上人絵伝(一遍聖絵)≪絵因果経≫との共通性」(名古屋造形大学紀要 26、2020年)

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