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鎌倉時代(9) [まとめプリント]

たいへんご無沙汰してしまいました!久々の更新です!!
これから4回にわたって鎌倉文化(かまくらぶんか)を取り上げます。

鎌倉文化は鎌倉時代、すなわち12世紀末から14世紀前半ごろ栄えた文化で、
 ①公家が伝統文化を継承
 ②武士や庶民に支持された新しい文化の誕生
 ③南宋(なんそう)・元(げん)文化の影響
 ④仏教思想の影響
などを特徴とします。

第1回目の今日は、鎌倉時代の宗教をお届けしようと思うのですが…
ちょっとそのプリントを見てくださいよ!

鎌倉9.jpg

うををーーー…めっっちゃ空欄多い…これはやばい…
しかも空欄には難しい用語やらオボーサンの名前やらが漢字で入るんですよね…これはまじでやばい…

というわけで、このプリントを2回に分けて説明します!
今日取り上げるのは、オレンジ色で色づけしたこの部分だけです!!

鎌倉9着色.jpg

といっても、できるだけみなさんの脳みそにのこるよう、エピソード多めでお届けするので長いです!
コンパクトにまとめらんなくてごめんなさいねーッッ!!

*   *   *

これから鎌倉時代の仏教を紹介していくのですが、その前に平安時代中期の仏教を復習しておきましょう。

1052年から末法(まっぽう)の世に入り、この世はめちゃくちゃなことになるであろう」
という末法思想(まっぽうしそう)を背景に、浄土教(じょうどきょう)が流行しました。
浄土教とは、阿弥陀仏(あみだぶつ、阿弥陀如来(あみだにょらい)とも呼ぶ)を信仰し、
来世(らいせ)において極楽浄土(ごくらくじょうど)に往生(おうじょう)することを願う教えのことです。

空也(くうや)が「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)ってとなえれば救われるよ!」って京の市(いち)で説いてまわったり、
源信(げんしん、恵心僧都(えしんそうず)とも呼ぶ)が『往生要集』(おうじょうようしゅう)を、
慶滋保胤(よししげのやすたね)が『日本往生極楽記』(にほんおうじょうごくらくき)を著したりしたのはこのころで、
貴族は平等院鳳凰堂(びょうどういんほうおうどう)をはじめ、立派なお寺や仏像をつくって救いを求めました。

平安時代中期の仏教はざっくりこんな感じなんですけど、思い出しましたか?
では、鎌倉時代の仏教を見ていきますよ☆

(1)鎌倉新仏教(かまくらしんぶっきょう)
…平安時代末期から鎌倉時代中期にかけて、新しく成立した6つの宗派(しゅうは)のことです。
 これに対して、すでに日本に存在していた仏教、すなわち、
 真言宗(しんごんしゅう)・天台宗(てんだいしゅう)・南都六宗(なんとろくしゅう)の8宗を、
 旧仏教(きゅうぶっきょう)と呼んで区別したりします。

 鎌倉新仏教の特徴は、次の3つです。
 ・易行(いぎょう) :どんな身分の人でも行い易(やす)い修行
 ・選択(せんちゃく):救済方法を1つ選択する
 ・専修(せんじゅ) :専(もっぱ)ら修行する

 つまり、
 誰でも行える簡単な修行(易行)を1つだけ選んで(選択)ひたすら打ち込めば(専修)救われる、
 という考えが、鎌倉新仏教のベースです。

 では、易行にはどんなものがあるのかというと、次の3種類です。
 ①【念仏】(ねんぶつ):南無阿弥陀仏ととなえること
 ②【題目】(だいもく):南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)ととなえること
 ③【 禅 】(ぜん)  :坐禅(ざぜん)をおこなうこと

 今日は①の【念仏】をとなえる3宗派と旧仏教の革新を説明していきます★
 もっぺん言っておきます!今日は長いです!!
 
①【念仏】をとなえる宗派…3つ

◎浄土宗(じょうどしゅう)
・開祖:法然(ほうねん)、源空(げんくう)とも呼ぶ
・中心寺院:京都の知恩院(ちおんいん)

1133年、美作国(みまさかのくに)の押領使(おうりょうし)の子として生まれた法然は、
満8歳のころ、お父さんが夜襲(やしゅう)を受けて命を落としてしまいます。

死の間際、お父さんは息子に
「敵を恨(うら)んではならない。お前が私の仇(かたき)を討てば、今度はその子どもがお前を恨み、同じことが繰り返されるであろう。出家して父の菩提(ぼだい)を弔(とむら)え」
という言葉を遺(のこ)します。

お父さんの遺言にしたがって出家し、
比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)にのぼって修行に勤(いそ)しむ彼は、
非常に優秀で、やがて法然坊源空(ほうねんぼうげんくう)という名を授かります。

比叡山で修行に明け暮れる法然ですが、
内乱の頻発・疫病(えきびょう)の流行・飢饉(ききん)などに苦しむ武士や庶民たちは、一体どうすれば救われるのだろう…
という悩みを抱えるようになります。

そうしてますます多くの経典を学び、たくさんの僧侶たちと交流を深めるなかで、
ついに専修念仏(せんじゅねんぶつ)の道を見いだします。

それは、
「すべての人を救うんだ!」という阿弥陀仏の本願(ほんがん、誓いのこと)に身を委ね、
一心に「南無阿弥陀仏」ととなえれば必ず救われる、
という教えです。

他力本願(たりきほんがん)という言葉、聞いたことありますよね?
現代では「他人まかせ」みたいなネガティブな意味で使われがちですけど、
本来は、阿弥陀仏(自分ではない「他」)の力、その本願の力に頼って極楽浄土に往生する、
という意味なのだそうです。

法然は比叡山に別れを告げて京の町におり、人々にこの専修念仏を説いてまわります。
すると、法然の教えはたちまち武士や庶民たちに広まり、
前関白(かんぱく)の九条兼実(くじょうかねざね)といった公家の信仰も集めるようになるのです。

すると、旧仏教側は法然の勢いや教えを問題視するようになり、
専修念仏の停止を求める訴えを起こします。
そして朝廷は、法然の弟子たちが起こしたとある事件をきっかけに、
事件に関係した弟子4人の死罪と、法然と弟子7人の流罪(るざい)を決定するのです。

このとき法然は満73歳です。
配流(はいる)先は土佐国(とさのくに)の予定でしたが、
九条兼実のはからいによって、九条家の所領である讃岐国(さぬきのくに)に変更され、
そこでも意欲的に布教を続けます。

京に戻ることが赦(ゆる)されるのはおよそ4年後のことで、
帰京の翌1212年、満78歳でこの世を去ってしまいます。

・主著:『選択本願念仏集』(せんちゃくほんがんねんぶつしゅう、または、せんじゃくほんがんねんぶつしゅう)
    …九条兼実の求めにより、浄土宗の教義を説く
・教義:専修念仏
    …もっぱら阿弥陀仏の本願を信じて念仏をとなえれば、
     死後は極楽浄土に往生できると説く

*   *   *

◎浄土真宗(じょうどしんしゅう)、一向宗(いっこうしゅう)とも呼ぶ
・開祖:親鸞(しんらん)
・中心寺院:京都の本願寺(ほんがんじ)

1173年、公家の家に生まれた親鸞は、
満8歳ごろ、出家するため慈円(じえん)という僧侶のもとを訪ねます。

もう夜も遅いし得度(とくど、出家の儀式)は明日にしましょう、と慈円が提案したところ、
親鸞は「明日(あす)ありと 思う心の あだ桜 夜半(よわ)の嵐の 吹かぬものかは」と詠みます。

あの桜を明日も見られると思って安心しているけど、夜中に嵐が吹いて散ってしまうかもしれない、
つまり、明日でいいとか思ってたらダメなんだーッッ!と歌にしたわけです。

エッ、満8歳で?すごくね??

鎌倉9-3.jpg

ということで、慈円はすぐさま準備を整え、親鸞はその夜に出家をします。

ちなみに…
慈円ってオボーサン、覚えてますか?

ムサノ世ニナリニケルナリ」って文章を書いた…

そーです、『愚管抄』(ぐかんしょう)の著者です。
慈円と『愚管抄』は鎌倉時代(11)で登場する予定なので、ここでイラストにしておきました。
覚えといてくださいねん ♪
ちなみに私は慈円を「外国人女性みたいな響きの名前」って脳みそに刻んでいます(それはジェーン)。

さて、その後、親鸞は比叡山延暦寺にのぼり、およそ20年にわたって厳しい修行を続けます。
しかし、自力(じりき、自分ひとりの力で修行して悟りを得ようとすること)の修行に限界を感じ、
ウワサで耳にした、京の町で専修念仏を説くという法然先輩に会うため比叡山を去ります。

そして、先輩の教えに感銘を受けた親鸞は、弟子となって学びを続けますが、
法然が讃岐国に流罪となった際、親鸞も越後国(えちごのくに)に流されてしまいます。
罪が赦されたのはおよそ4年後のことで、そののち関東にうつって布教を続けます。

親鸞は、法然の教えをさらに進め、
ひらすら阿弥陀仏の救いを信じる心を起こせば極楽浄土に往生できる、
という絶対他力(ぜったいたりき)を説きます。
(一心一向(いっしんいっこう、ひたすらという意味)に阿弥陀仏を信じなさい、という教えから、
浄土真宗のことを一向宗とも呼ぶようになります。)

親鸞の教えは、20年ほど関東で過ごすなかで地方武士や庶民に広がってゆきます。
また、主著『教行信証』(きょうぎょうしんしょう)の執筆にも勤(いそ)しみ、
京に戻ってその補足・改訂を続けるなか、
1262年、娘たちに見守られながら満89歳でこの世を去ります。

ん?
娘??
娘がいるの???

そうなんです、いるんです。
この時代の僧侶には、結婚しちゃダメ・お肉食べちゃダメなどの戒律(かいりつ、ルール)があるのですが、
親鸞は結婚してますし、子どもも7人もうけてますし、お肉も食べていたようです。

・主著:『教行信証』
    …多くの経典・書物からの引用をもとに、親鸞の信仰と思想を体系的に論じる
・弟子の書:『歎異抄』(たんにしょう)
      …親鸞の弟子である唯円(ゆいえん)の著書
       親鸞の死後、その教えをめぐって様々な解釈が生まれたため、
       多くの説を(なげ)き、師匠の教えを正しく継承させることを目的に著す
・教義:絶対他力
    悪人正機説(あくにんしょうきせつ)
    …『歎異抄』に書かれている親鸞の思想
     阿弥陀仏が救う対象は、
     自分は修行をつんでいる善人(ぜんにん)なんだと満足する者ではなく、
     自分は煩悩(ぼんのう)にまみれた悪人なんだと自覚する者である、という考え方

悪人正機説の史料はテストに出ることが多いので、紹介しておきましょう。

「〔1   〕なほもちて往生をとぐ、いはんや〔2   〕をや。しかるを、世の人つねにいはく、『〔2   〕なを往生す、いかにいはんや〔1   〕をや』と。この条、一旦そのいはれあるににたれども、本願他力の意趣にそむけり。そのゆへは、自力作善(さぜん)の人は、ひとへに他力をたのむこゝろかけたるあひだ、弥陀の本願にあらず。(中略)煩悩具足(ぼんのうぐそく)のわれらは、いづれの行(ぎょう)にても生死(しょうじ)をはなるゝことあるべからざるを哀(あわれみ)たまひて、願(がん)ををこしたまふ本意、〔2   〕成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる〔2   〕、もとも(もっとも)往生の正因(しょういん)なり。よりて〔1   〕だにこそ往生すれ、まして〔2   〕は」と仰(おおせ)さふらひき。
(出典:唯円『3   』)


空欄にあてはまる語句は分かりましたか?

 1…善人
 2…悪人
 3…歎異抄

たいてい空欄1と空欄2は完答で問われます。
内容を理解すれば逆で覚えてしまうことはないでしょうので、簡単に訳しておきますねー。

歎異抄は、師匠の親鸞が説いたことを、弟子の唯円がのちに思い出して書き残した、
というスタイルなので、これは親鸞の語りです。

「善人でさえも極楽に往生するのですから、悪人が往生できないはずはありません。ところが、世間の人は一般に『悪人でさえ往生するのだから、どうして善人が往生できないことがあろうか』と言っています。この言い分は、一応正しいように思われますが、阿弥陀仏の本願である他力による救いの考え方には反しています。その理由は、自分の力を頼って善行を行える人は、ひたすら他力にすがる心が欠けているので、阿弥陀仏の本願からはずれているのです。(中略)煩悩にまみれる私たちが、どんな修行をつんでも生死という苦しみから解放されることはない。それを阿弥陀仏が憐(あわ)れまれ、救ってやろうという願いをおこされたのは、悪人を救うためですから、他力にすがる悪人こそが、もっとも往生できる本来的な条件なのです。だから善人でさえ往生するのですから、まして悪人はなおさらなのです」と、親鸞はおっしゃった。

私は、結婚していたり、子どもをもうけていたり、お肉を食べていたりと、
僧侶としてのルール(戒律)をいろいろ破っている悪人だけど、
そんな私でも、他力にすがってひたすら念仏をとなえておれば、阿弥陀仏は救ってくださるんだよ、
と伝えているのでしょうね。

*   *   *

◎時宗(じしゅう)
・開祖:一遍(いっぺん)、智真(ちしん)とも呼ぶ
・中心寺院:神奈川の清浄光寺(しょうじょうこうじ)、遊行寺(ゆぎょうじ)とも呼ぶ

1239年、伊予国(いよのくに)の豪族の子として生まれた一遍は、
満9歳ごろ、お母さんの死をきっかけに出家し、法然の孫弟子から浄土宗の教えを学びます。
お父さんが亡くなったため一度は還俗(げんぞく、出家した僧侶が一般人に戻ること)するものの、再び出家し、
やがて「南無阿弥陀仏」と書いた札(ふだ)を配り歩く遊行(ゆぎょう)の旅に出かけるようになります。

なお、遊行とは、僧侶が諸国を巡り歩きながら教えを説いたり、修行したりすることです。
決して遊びに行くことではありません!布教&修行の旅ってことですからね!!

一遍が紀伊国(きいのくに)を遊行していたときのことです。

山道で出会った一人の僧侶に、
「信心を起こして南無阿弥陀仏ととなえ、これを受け取ってください」と札を差し出したところ、
なんと「いま信心が起きないのでソレいりません」と断られてしまいます。

一遍ショック!!

これに悩んだ一遍は、熊野本宮大社(くまのほんぐうたいしゃ)に籠(こ)もります。
すると、夢のなかに熊野権現(くまのごんげん)という神様が現れて、
「あなたは信不信を選ばず、浄不浄を嫌わず、その札を配ればよいのです」
というような言葉をかけられたんだとか。

もはやニンゲンの信不信とか浄不浄とか関係ない!
阿弥陀仏はめっちゃすごいから、信じる者にも信じない者にも、浄い者にも浄くない者にも、
みーんなに阿弥陀パワーは届くんだよ!!ってことです。

ちなみに、熊野権現という神さまの正体は、阿弥陀仏という仏さまです。
ん?「この神さまの正体は、あの仏さまなのだ!」って決まってる説…
なんてゆーんでしたっけ??

そう、本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)ですよん。
次回の鎌倉時代(10)で出てくるので、ここで思い出しておいてくださいね!

そうして、これまでの智真という名を改め、一遍と名乗るようになった彼は、
ますます諸国を遊行してまわります。
ときには踊念仏(おどりねんぶつ、踊り念仏と書いてもOK!)をおこなうこともあったんだとか。

踊念仏とは、鉦(かね)や太鼓にあわせて踊りながら念仏をとなえることです。
その様子が「一遍上人絵伝」(いっぺんしょうにんえでん)に描かれているので見てみましょう。

鎌倉9-5.jpg
(市屋道場(いちのやどうじょう)の場面一部抜粋・赤丸追加、東京国立博物館蔵)

やぐらの上で一遍(赤丸の人物)が弟子たちと一緒に鉦をうち、床を踏みならして踊念仏をしていて、
それをたくさんの人が見学している様子がうかがえますね。

この感じ、見覚えありませんか?
夏の風物詩であるアレです、アレアレ。

そう、盆踊りです!
シンガーのいるやぐらのまわりを、みんながゆったり踊りながらグルグルまわるアレです。
参加したことありますか!?

盆踊りは、踊念仏の流れをくむものとお盆の行事とが結びついてできたものなのではないか、と考えられています(諸説アリマス)。

1289年、およそ15年半にわたって各地を遊行してきた一遍ですが、過労と栄養不足により満50歳でこの世を去ることとなります。
このとき一遍は、所持していたものをすべて焼却しています。
すべてを捨てて、ただ念仏だけをたよりに極楽往生を遂げたのかもしれませんね。

・主著:なし(すべて焼却)
・弟子の書:『一遍上人語録』(いっぺんしょうにんごろく)
      …一遍の死後、門弟たちが一遍のおしえなどを編集し、江戸時代に刊行したもの
・教義:すべての人が念仏をとなえれば救われると説く
    踊念仏

*   *   *

以上が念仏をとなえる3つの宗派です。
イラストでまとめておきましょう。

鎌倉9-2.jpg

イラストの中、赤字で書いてあるのはちょっとした覚え方です。

法然-浄土宗 :どちらもさんずいへん
親鸞-浄土真宗:どちらもシンがつく
一遍-時宗  :「いっぺん自習しよ」(いっぺんは一回という意味です、これって関西弁!?)。

こんな風に、なんでもいいので覚えちゃってください☆
おっ、イラストの奥に「専修念仏はんたーい!!」とか言ってるオボーサンがいますね!
続いて彼らを見ていきますよ~!!



プリントの右上にうつって旧仏教側の革新を見ていきましょう。

(2)旧仏教の革新

鎌倉新仏教に刺激され、旧仏教側も新たな動きを見せるようになります。

なんでもこのころの旧仏教は、権力と癒着したり、戒律を守らない僧侶があふれていたりと、腐りきっていたんだとか。
そこで、とりわけマジメなオボーサンたちが戒律の復興をスローガンに様々な改革をおこなうのです。

これからそのマジメなオボーサンたちを紹介してゆくのですが…
みなさんお名前が2つずつあるんですよね…
くっ…なんてことだ…ツラいけどがんばりましょう…

それから、登場する3つの宗派(学派)は、いずれも南都六宗です。

◎法相宗(ほっそうしゅう)
・貞慶(じょうけい)、または、解脱(げだつ)

1155年、貞慶は信西(しんぜい)こと藤原通憲(ふじわらのみちのり)の孫として生まれます。

信西…なんだか懐かしい名前が出てきましたねー!
何の事件で登場した人物か、覚えていますか…?

はーい、答えは1159年の平治の乱(へいじのらん)ですよー!

信西は、1156年に起こった保元の乱(ほうげんのらん)のあと、
後白河天皇(ごしらかわてんのう)のブレーンとして権勢を誇りますが、
平治の乱で自害に追い込まれたんでしたよね!
このとき、信西の息子たちは流罪に処せられるのですが、貞慶のお父さんもその一人です。

そんなこんなで、おじいちゃんとお父さんがエラいことになったため、
貞慶は満7歳ごろ、法相宗の興福寺(こうふくじ)に入り、ほどなく出家します。

しかし、このころの旧仏教は腐敗しています。
1180年、南都焼打ち(なんとやきうち)によって興福寺が炎上するさまを目の当たりにした貞慶は、
この腐敗をたださねばならないと痛感したことでしょう。

そうしてますます学びを深め、重要な勉強会でたびたび講師をつとめるに至りますが、
どうにも変わらない旧仏教界を嘆いた貞慶は、満38歳のとき、
京都にある笠置寺(かさぎでら)に隠遁(いんとん、世俗を捨てて隠れ住むこと)してしまいます。

このころ、京の町では法然の専修念仏が勢いを強めています。
その勢いは京にとどまらず、「念仏だけとなえてたらいい!戒律なんて守らなくていいんだー!!」みたいな解釈をするものまであらわれます。

そこで貞慶は、興福寺を代表して法然の専修念仏を批判する文書をあらわし、朝廷に提出します。
これが法然や親鸞の流罪につながるのです。

*   *   *

◎華厳宗(けごんしゅう)
・明恵(みょうえ)、または、高弁(こうべん)

まずは読み方、あきえさんではありませんよ(笑)、みょうえさんです。

1173年、明恵は紀伊国(きいのくに)に生まれます。
幼いころからすっごいイケメンだったようで、
お父さんは、そのビジュアルを活かして息子を宮中で働かせようと考えます。

でも、明恵の将来の夢はお坊さんなのです。

イケメンのままだとその夢は叶えられず、宮中に送られてしまいます。
そこで明恵は、アッツアツに焼いた火箸(ひばし)を顔にあて、傷をつけようと考えます。

さっそく火箸を火であぶってみたところ…
んー…どう見ても熱そうなんですよね~…
いきなり顔はコワイから、ちょっと腕で試してみようかな~…

ジュッ…

あっっっつーーーーーーーーッッッッ!!!!!(叫)

うん、そうよね、絶対に熱いよね。
というワケで、火箸で顔にヤケドをおわせることは断念します。

相変わらずイケメンの明恵ですが、満7歳ごろ、相次いで両親が他界してしまいます。
そこで、親戚をたよって京都の神護寺(じんごじ)に入り、出家して修行の日々を送ります。

幼いころからの夢を叶えてお坊さんになったワケですから、
明恵は華厳宗(けごんしゅう)をはじめ様々な学問を熱心に勉強し、
とくに仏教をひらいたお釈迦(しゃか)様が説いた戒律を重んじるようになります。

しかし満22歳ごろ、旧仏教界のゴタゴタがいやになって紀伊国に戻ってしまいます。
もちろん修行は続けるわけですが、明恵はここでトンデモナイことをおこないます。

幼くして両親を失った明恵は、お釈迦様を父のように尊敬しています。
それは、かつて旅先から神護寺にあるお釈迦様の像に対して、
「しばらく会えていませんが、どうしておられますか?早く帰ってあなたに会いたいです」
というようなお手紙を送ったほどです。

紀伊国でもっぱら修行中の明恵は、あるとき、お釈迦様が世俗と離れるため髪の毛を剃ったように、
自分もどこか体のパーツを削ぎ落とそうと考えます(エッ…)。

でもどこにしようか悩むヨネー…

眼をえぐり取ってしまったらお経が読めなくなっちゃうし、
鼻を削いでしまったら鼻水でお経を汚しちゃうし、
手を切り落としてしまったら印(いん)が結べなくなっちゃうし…

ヨシ、耳にしよう!(エェッッ…)

ということで、右の耳をそぎ落としてしまうのです!!(エェェッッッ…)。

いやもう明恵がやること、なんかいつも過激ーーーーーッッ!!!(震)

そんな明恵に、後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)は山奥にあった神護寺の建物の1つを授けます。
明恵はこれを高山寺(こうざんじ、または、こうさんじ)として再興し、華厳宗の学びの場とします。

高山寺…
聞いたことありませんか…?

ホラ、院政期の文化で登場した…
あのウサギとかカエルのかわいい絵巻物…!

そうですそうです、「鳥獣戯画」(ちょうじゅうぎが)。
これを所蔵するお寺です。

ちなみに、明恵も『摧邪輪』(ざいじゃりん、または、さいじゃりん)という著書で、
法然の『選択本願念仏集』を批判しますが、このときすでに法然は亡くなっています。

*   *   *

◎律宗(りっしゅう)
・俊芿(しゅんじょう)、または、我禅(がぜん)

俊芿は1166年に肥後国(ひごのくに)で生まれますが、
生後間もなく道に捨てられていたところを救われ、お寺で育てられたんだとか。

やがて出家して、奈良や京都に足を運ぶなどして様々な仏教を熱心に学ぶものの、
目にするのは腐敗した旧仏教の姿ばかりです。

ショックを受けた俊芿は、宋(そう)にわたり、中国の天台宗や禅・律を学びます。
およそ13年におよぶ留学を終えた俊芿は、広い知識とたくさんのお経や書物を日本に持ち帰り、
その後、寄進された京都のお寺を泉涌寺(せんにゅうじ)として再興し、学びの場とします。

・叡尊(えいぞん)、または、思円(しえん)

1201年、大和国(やまとのくに)に生まれた叡尊は、幼いころにお母さんを亡くして出家し、
高野山(こうやさん)や東大寺(とうだいじ)などで学びます。

んが!
彼もまた腐敗した旧仏教界を目の当たりにしてしまい、戒律の復興を目指します。

僧侶は師匠たちから戒律を受ける受戒(じゅかい)の儀式にのぞみますが、
叡尊は「そもそもワタシに戒律を授けた師匠たち、戒律守ってないやん!」と気づき、
戒律を守ることを仏さまたちに誓う、という新しいスタイルの受戒を仲間たちとおこないます。

そして、荒れ果てた奈良の西大寺(さいだいじ)を再興して活動の拠点とし、
このころ差別の対象とされた非人(ひにん)に戒律を授けたり、食べ物をふるったりと、さまざまな慈善事業につとめます。
そのほか、橋の修造といった土木事業にも尽力し、非人から上皇にいたるまで幅広い信仰を集めます。

・忍性(にんしょう)、または、良観(りょうかん)

1217年、大和国に生まれた忍性は、叡尊の弟子となり、その慈善救済の志を受け継ぎます。
たとえば、ハンセン病(癩病、らいびょう)という感染症の患者を救済する福祉施設として、
奈良に北山十八間戸(きたやまじゅうはっけんど)をつくります。
(「十八間戸」部分、じゅうはちけんこ、とか、じゅうはちけんと、とか読み方イロイロです…)

当時の建物は、戦国時代に戦災に遭って失われてしまったのですが、
江戸時代に場所をうつして建てられた姿を現在も見ることができます(2010年撮影)。

鎌倉9-10.jpg

全長およそ38メートルとめちゃくちゃ細長~い建物で、
カメラに全貌をおさめるのが難しいのですが(私の技術不足なだけかもですが…)、
内部は18の小部屋に仕切られているのだそうです(内部は通常非公開)。

鎌倉9-11.jpg

また、布教のため関東にも赴き、
北条氏に招かれて鎌倉にある極楽寺(ごくらくじ)の実質的な開祖となります。
鎌倉でも飢饉で飢えた人々にお粥をふるまったり、病人・非人の救済に奔走するなど、慈善事業につとめます。
ほかにも、道路や橋をつくるなどの土木事業に尽力しています。

*   *   *

以上が旧仏教の改革に尽力した5人のオボーサンです。
イラストでまとめておきましょう。

鎌倉9-6.jpg

ながーーーーーくなりましたね…すみません…
最後に解答を載せておきますね★

鎌倉9解答.jpg

最後までお付き合いありがとうございました。
次回、プリントの残りを埋めていきましょう!



【参考文献】
五味文彦編『日本の時代史8 京・鎌倉の王権』(吉川弘文館、2003年)
奈良国立博物館編 『御遠忌八〇〇年記念特別展 解脱上人貞慶ー鎌倉仏教の本流ー』(奈良国立博物館・神奈川県立金沢文庫・読売新聞社、2012年)
http://www.hongutaisha.jp/一遍上人と熊野本宮大社/
https://chisan.or.jp/shinpukuji/center/workshop/forum/「魅力のある僧侶とは~明恵上人の生涯と思想、/
https://www.kyuhaku.jp/exhibition/img/s_45/myoe/myoe.pdf

【画像出典】
東京公立博物館研究情報アーカイブズ https://webarchives.tnm.jp/

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コメント 6

たかっち

昔から、鎌倉新仏教はそれぞれの区別もしっかりできますが、旧仏教がどうも苦手です。
しかし、今回に限らず、面白エピソードとかがすごく好きです。
どうやって調べているんですか?
個人的には慈円、ジェーンがツボってしまいました。
山寺宏一・・・ジェーンっぽくない(笑)
by たかっち (2023-10-18 02:06) 

春之助

分かります!
鎌倉新仏教はエピソード満載なのに、旧仏教はどうも名前の羅列で終わってしまいますよね…
エピソードは、学生時代に授業や本や博物館で脳みそに入れたものがほとんどですね…子どもが一緒だと博物館もなかなか行きづらいので、新しい知識は本やネットに頼ることがほとんどです。

山寺宏一…鎌倉殿ですね!かなりのイケボ慈円でしたね~♪
by 春之助 (2023-10-18 14:08) 

ピーナッツ

この続きってどこにありますか、?見たいのですが見つからなくて、、、[あせあせ(飛び散る汗)]
by ピーナッツ (2023-12-23 00:23) 

春之助

ピーナッツ様
コメントありがとうございます!
申し訳ありませんが、この記事が最新のものです…
もともと筆が遅いのに加え、ちょっといま別の作業に取りかかっているため、更新が止まっている状況です。
次回の更新まで、もうしばらくお時間いただきます…ごめんなさい(>o<)
by 春之助 (2023-12-24 15:41) 

ハナ

高校の定期テスト対策でいつも使わせてもらっています。
鎌倉時代がテスト範囲でとてもこのブログを頼りにいつも勉強していました。
迷惑だと思うんですけど、次のものがいつぐらいになるか教えてもらいたいです!
by ハナ (2024-02-25 22:47) 

春之助

ハナ様
コメントありがとうございます!
定期テスト対策に活用してくださっているとのこと、とても嬉しいです♪
さて、まとめプリントの更新ですが、別件の作業中で止まっておりまして…続きは5月ごろ更新できればいいな…というような状況です。
たいへん申し訳ありません…
なんとか更新を続けて参りますので、今後ともよろしくお願いいたします。
by 春之助 (2024-03-01 10:14) 

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