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旧石器時代(2) [まとめプリント]

前回からまとめプリントをアップしています。



今日は、旧石器時代のラスト、2枚目です。

古代2.jpg

旧石器時代とは、打製石器を使用する時代のことでしたね。
土器を使用しない文化であったことから、先土器(せんどき)文化とか無土器(むどき)文化とも呼ばれます。
また、縄文文化に先立つことから、先縄文(せんじょうもん)文化と呼ぶこともまれにあります。

日本には旧石器時代は存在しなかった、というのがながらくの定説でした。
それを覆す発見が、相沢忠洋(あいざわただひろ)という青年によってなされます。

1946年、納豆を売る仕事をしていた相沢忠洋は、
JR両毛線の岩宿(いわじゅく)駅にほど近い切り通しで、なにやら人工的な石を発見しました。
考古学が趣味であった彼は、それが石器であるとすぐに気が付いたようです。
その後、彼は周辺での発掘を続け、1949年に東京の考古学者に成果を見てもらおうと決意しました。
群馬から東京まで、彼はまさかの自転車で移動します…
マッハで自転車をこいでも9時間ほどかかるようですが…相沢くんすごすぎ…

やがて、彼の発掘成果は東京の考古学者の名前で発表されました。
納豆売りであるアマチュアの考古学者の名前が公表されることはなかったのです。
さらに、地元でも相沢は「詐欺師」だの「売名行為」だの誹謗中傷を受けます。
心が折れそうですよね…
しかし、彼の考古学への情熱は冷めることはなく発掘を続け、
岩宿での発見から20年が経とうというころ、ようやく彼の功績は認められたようです。

ほんとにすごい熱意ですね…

そんな相沢忠洋と岩宿遺跡の名前は基本的ではありますが、
よく大学入試に出ますのでしっかりと覚えておきましょう!

ほかの旧石器時代の遺跡としては、野尻湖(のじりこ、または野尻湖遺跡)が有名です。
オオツノジカのツノが星に、ナウマンゾウのキバが月に見える、というロマンチックな発掘もなされました。

ではここで、解答を載せておきます。

古代2解答.jpg

プリントには他にも遺跡をいくつかあげておきました。

私が高校生のころ、旧石器時代の遺跡はもっともっとたくさん教科書に載っていました。
しかし、2000年にいわゆる「旧石器捏造(ねつぞう)事件」が起こり、
旧石器時代の遺跡に関する調査結果はいったん白紙になったのです。

彼が発掘すれば必ず遺跡が見つかる、ということで「ゴッド・ハンド」の異名をもつ有名な考古学者が、
別の遺跡で発掘した石器を夜のうちに調査中の遺跡に埋めておき、
翌朝それを掘り起こして「大発見!」とウソをつく様子を、新聞がスッパ抜いたのです。

学者が調査でウソをついた、ということは、考古学・日本史の学界だけでなく、世界からも非難されました。
私はこのころ、大学で日本史を研究していたので、本当に驚きました…
日本史の教科書も旧石器時代の遺跡を白紙にし、
このころ刊行が開始された日本史の概説書も回収、手直しのすえ再発行という手段を取っていました。
受験生の立場からすると、覚える遺跡が1つでも減ることは喜ばしいかもしれませんが、
これは絶対にあってはならない恥ずかしい事件です。

その元「ゴッド・ハンド」、いまどうしているかというと…
「この手が悪いのだ!」と、自らナタで右手の指2本を切り落としたそうです…
うーん、手のせいではないと思うのだが…

それでは、今日はここまで☆



次回から縄文時代に入ります。

画像出典
http://www.craftmap.box-i.net/
https://www.meiji.ac.jp/museum/kouko.html
http://nojiriko-museum.com/?page_id=385
http://www15.plala.or.jp/Aizawa-Tadahiro/tadahiro/tadahiro.html
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旧石器時代(1) [まとめプリント]

ご無沙汰しています。

さて、今日からはゴロ合わせを一休みして、しばらくまとめプリントを掲載していきます。
このプリントは、全国の高校でもっとも使用されているであろう山川出版社『詳説 日本史B』に準拠しており、
山川出版社『日本史用語集』と、帝国書院『図説 日本史通覧』などを参考に作成しています。

プリントアウトはA4でも結構ですが、
B4でプリントアウトして外枠に沿って切ると、B5のノートに貼れるサイズになっています。

日本史は、色んなまとめ方がありますので、プリントも様々です。
私は、原則として上から下へと時代が新しくなっていくよう作成しています。
左端を見ていただくと、「日本はいま何時代か」ということが一目で分かるようになっています。
みなさんにとって、使いやすい見やすいプリントになるよう、努力していきます。



それでは、まずは旧石器時代の1枚目です。

古代1.jpg

このあたりは、最新の発見・研究によって数値・内容が大いに変化するところです。
古い参考書なんかを見ると、まったく違ったりするので要注意!

例えば、ちょっと昔だと、人類の誕生は今から400万年前とか450万年前とか言われていました。
ところが現在は、それが700万年前とされています。

「歴史は過去の丸暗記」と思わないでください。
研究者の気の遠くなるような努力によって、歴史の内容は日々更新され続けているのです。

なお、最近の大学入試では旧石器時代を取りあげることが少なくなっています。
だからといって、侮ることなかれ。
空欄に入る言葉は覚えておきましょう。
このあたりは、世界史の方が詳しく扱うかもしれませんので、そちらも参考にしてください。

では、最後に答えを掲載しておきます。
なるべくこれをプリントアウトするのではなく、自分で空欄に書き込む努力をしてくださいね。

古代1解答.jpg

それでは、今日はここまで☆



明日もまとめプリントを掲載していきます。

画像出典
http://www.craftmap.box-i.net/
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552年 仏教が伝来する(壬申説) [年号のゴロ合わせ]

昨日は、538年に百済から仏教が伝来したお話をしました。
この年号、いわゆる戊午説の根拠は、『上宮聖徳法王帝説』と『元興寺縁起』、2つの歴史書でしたね。

では、今日はもう1つの説をご紹介しましょう。



552年に仏教が伝来した、と記述する歴史書が1つだけあります。
何か分かりますか?

そう、720年に舎人親王(とねりしんのう)らが中心となって編纂(へんさん)した『日本書紀』です。
まずは『日本書紀』における仏教伝来の一節を見てみましょう。

(〔1   〕天皇十三年(〔2   〕年のこと))冬十月、百済の〔3   〕(中略)釈迦仏の金銅像一躯(ひとはしら)・幡蓋(はたきぬがさ)若干・経論若干巻を献る。(中略)乃(すなわ)ち群臣に歴問(れきもん)して曰く、「西蕃(百済のこと)の献れる仏の相貌(かお)端厳(きらぎら)し。全(もは)ら未(いま)だ曾(かつ)て有(あら)ず。礼(いやま)ふべきや不(いな)や」と。蘇我大臣〔4   〕宿禰、奏して曰(もう)さく、「西蕃の諸国、一(もはら)に皆礼ふ。豊秋(とよあきづ)日本豈(あに)独り背かむや」と。物部大連〔5   〕・中臣連鎌子、同じく奏して曰さく、「我が国家(みかど)の、天下に王(きみ)とましますは、恒(つね)に天地社稷(あまつやしろくにつやしろ)の百八十神(ももあまりやそがみ)を以て、春夏秋冬、祭拝(まつ)りたまふことを事(わざ)とす。方(まさ)に今改めて蕃神(あだしくにのかみ)を拝みたまはば、恐るらくは国神(くにつかみ)の怒を致したまはむ」と。天皇曰く、「情願(ねが)ふ人〔4   〕宿禰に付(さず)けて、試(こころみ)に礼ひ拝ましむべし」と。

空欄に入る言葉は分かりましたか?
 1…欽明
 2…552
 3…聖明王
 4…稲目(大臣の蘇我稲目、そがのいなめ)
 5…尾輿(大連の物部尾輿、もののべのおこし)

欽明天皇は、百済の聖明王が伝えた仏教を信仰するべきかどうか、家臣たちに意見を問うたようです。
すると、蘇我稲目は「ほかの国が信仰しているのに、なぜ日本だけが信仰しないのでしょう」と答えます。
一方、物部尾輿や中臣鎌子(カマコ…)らは、「日本には昔からたくさんの神様がいらっしゃるのに、なぜ外国の神様を信仰するのか。そんなことをしたら、日本の神様が怒ってしまうかもしれない!」と反論します。
結果、欽明天皇は「では、蘇我稲目に試しに信仰させてみよう」と提案した、と書かれています。

つまり、蘇我稲目は仏教を崇拝しようとし、物部尾輿と中臣鎌子は仏教を排除しようとしたのです。
前者を崇仏派、後者を排仏派と呼びます。
とくに中臣家は神事・祭祀を担当する家柄ですしね、排仏派の立場をとるのは当然のことでしょう。

日本には昔から八百万(やおよろず)の神々、すなわちたくさんの神様がいると信じられてきました。
大きな木や石、自然現象などに霊魂が宿ると考えるアニミズム(アミニズムではありませんよ!「兄、水虫」で覚えましょう…)の思想が古くからありますし、さらに台所やトイレにまで神様がいる、とまで考える民族です。
しかも、その神様たちは基本的に目には見えないのです。
現在も、神社で「これが神様です!!」という像をほとんど見かけませんよね。
神様には具体的な姿や形はなく、鏡とか刀剣とかに宿るのだ、と考えられているようです。

かたや、百済から伝わった仏様は、仏像という形で目に見えている。
日本古来の神様と比べると、まったく異質なものです。
じゃぁこれを信仰してみよう!と思うのはなかなか難しいのではないでしょうか…
町を歩いていると、いきなり外人から「アナタ、コノ神サマヲ信ジマセンカ?」と声をかけられたら…
「いま、忙しいんで…」とか言って目も合わさずに避けるでしょう。
そう考えると、排仏派の考えの方が普通なのかもしれません。

ところが、蘇我稲目はこれを信仰してみようというのです。
もちろん排仏派はこれに反対するので、いわゆる崇仏論争というものが発生します。
崇仏論争については、またのちに詳述したいと思います。

話を元に戻すと、『日本書紀』には仏教の伝来は552年と書かれていましたね。
これを壬申説と呼びますが、壬申説をとるのはたった1つ、『日本書紀』だけです。
かたや、538年の戊午説をとる歴史書は2つあるので、信憑性は戊午説の方が高いということになります。

しかし…

『日本書紀』ですからね…

国が編纂した歴史書が間違っている…とも言い難いので、
現在は、戊午説の方が有力ではあるけれど、壬申説も捨てがたいよね、という結論になっています。

では、ここで今日のゴロ合わせ。

552年.jpg

いずれにせよ仏教は、欽明天皇の時代、6世紀に百済から伝来したようです。

なお、仏教の伝来には、実はもう1つ説があります。

『扶桑略記』(ふそうりゃっき)という歴史書の中に、
継体天皇の時代、522年に司馬達等(しばたっと)が奈良で仏教を信仰していた、と書かれているのです。
司馬達等は、飛鳥文化を代表する仏師である鞍作鳥(止利仏師)の祖父にあたる人物です。
これについては、個人的に信仰していた、ということで、
戊午説や壬申説が仏教の公伝というのに対して、私伝という扱いになっています。



それでは、今日はここまで☆
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538年 仏教が伝来する(戊午説) [年号のゴロ合わせ]

前回、ちらっと当時の日本は百済と仲がいい、と書きました。
たとえば4世紀、ヤマト政権は百済からプレゼントをもらっています。
百済の王が、高句麗に対して背後をかためるため、倭の王に対して送った鉄製品です。
分かりますか?

一度見たら忘れないアノ形…
そう、石上神宮七支刀(いそのかみじんぐうしちしとう)です。
立てたら砂漠のサボテンくんみたいな形のものです。

数年前に、奈良県にある石上神宮で直接拝見する機会を得たのですが、
いまでも銘文を確認することができました。
そのとき伺ったお話によれば、そんな古いものということはすっかり忘れ去られ、
明治ころまでは儀式に使われたいたそうです…
文化財の歴史というのは大切に受け継いでゆかねばならないですね…



さて、その百済から6世紀に仏教が伝来します。
538年に伝来した、と記す史料が2つありますが、覚えていますか?

『上宮聖徳法王帝説』(じょうぐうしょうとくほうおうていせつ、かっこいい名前…)
『元興寺縁起』(がんごうじえんぎ)

ですよ。

前者は、「聖徳」という文字が入っていることからも分かるように聖徳太子の伝記です。
ちなみに、聖徳太子の一族は「上宮王家」(じょうぐうおうけ)と呼ばれました。
後者は、蘇我馬子が飛鳥に建立した法興寺(飛鳥寺)が、平城京遷都にともない移転してできた元興寺の縁起です。
縁起というのは様々な意味をもちますが、ここでは「由来」と考えてください。

では、『上宮聖徳法王帝説』を見てみましょう。

志癸嶋(しきしま)天皇(〔1   〕のこと)の御世(みよ)の戊午(ぼご)の年(〔2   〕年のこと)十月十二日、百斉(はくさい)国(〔3   〕のこと)の主明王(しゅめいおう、〔4   〕のこと)、始めて仏像経教并(あわ)せて僧等を度(わた)し奉る。勅して〔5   〕宿禰(すくね)大臣に授けて興し隆(さか)えしむ。

短い文ですが、空欄に入る語は分かりましたか?
 1…欽明(きんめい)天皇
 2…538
 3…百済
 4…聖明王(せいめいおう)
 5…蘇我稲目(そがのいなめ)

欽明天皇の時代、百済の聖明王が日本に使者を派遣し、仏像や経論などを伝えたようです。
このとき、大臣(おおおみ)の蘇我稲目に白羽の矢が立ちます。
欽明天皇から、異国の宗教である仏教とやらを信じてみろ、と言われたのです。
彼はどんな気持ちだったことでしょうね…
現在も日本に広く浸透している仏教は、彼の「信仰しよう!」という決断に始まったのです。
そう考えると、蘇我稲目の決心はものすごいものです。

『元興寺縁起』にも戊午年、すなわち538年に仏教が伝来した、と書かれているので、
現在はこの年に伝来したとする説が有力です。
これを戊午説といいます。

ここで、今日のゴロ合わせ。

538年.jpg

これで覚えてしまいましょう!

なお、仏教伝来の年については、他の説もありましたよね。
それについては、明日お話しします。



それでは、今日はここまで☆
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527年 磐井の乱が起こる [年号のゴロ合わせ]

これまで中国の歴史書をいくつか取り上げてきました。
いよいよ、日本の歴史書から日本史を見ていく時代に入ります。



今日、ご紹介するのは磐井(いわい)の乱。
筑紫国造(つくしのくにのみやつこ)磐井の乱、とか筑紫君(つくしのきみ)磐井の乱、とか
さまざまな呼び方があります。
国造とか君とか、ややこしいものが出てきました。
そう、ちんぷんかんぷんな氏姓制度ですね。
最初にこれを簡潔に説明していきましょう。

氏姓制度とは、ヤマト政権が5~6世紀ごろにつくりあげたといわれる政治的身分秩序です。

まず、大王家、そして豪族たちを、血縁などの関係をもとに「氏(うじ)」と呼ばれる組織に編成します。
親戚をひとまとめにした、と考えてください。
その氏という組織は、それぞれ土地と家来を所有します。
さぁ、空欄に入る言葉は分かりますか?

大王家の場合は
大王家.jpg
1…屯倉(みやけ)
2…田部(たべ)
3…子代・名代の部(こしろ・なしろのべ)

豪族の場合は
豪族.jpg
4…田荘(たどころ)
5…部曲(かきべ)

となります。空欄に入る語は、読み方もしっかり覚えましょうね。

つぎに、氏のトップ、すなわち氏上には大王から姓(かばね)という称号が与えられます。
姓.jpg
6…臣(おみ)
7…連(むらじ)
8…君(きみ)
9…直(あたえ)

そして、なかでも有力な氏上には様々なリーダー職が与えられます。
役職.jpg
10…大臣(おおおみ)
11…大連(おおむらじ)
12…伴造(とものみやつこ)
13…国造(くにのみやつこ)

理解できましたか?
一覧にまとめておくと
氏姓制度.jpg
こうなります。
なかなか理解しづらいところなので、ゆっくりゆっくり覚えていってください。

筑紫磐井が、姓では筑紫君磐井、役職では筑紫国造磐井と表記することは分かりましたね?
その磐井が、新羅と結んで北九州で反乱を起こしたのは527年のことです。

このころ、朝鮮半島では高句麗と新羅が百済・加耶諸国を圧迫していました。
百済と仲良しで、かつ加耶諸国に進出していた日本としては、これを許すわけにはいきません。
よって、ヤマト政権は、近江毛野(おうみのけぬ)をリーダーとして朝鮮半島へ軍隊を派遣しようとしました。
これを知った新羅は、筑紫磐井にワイロを送り朝廷の軍隊を妨害するよう求めたのです。

ヤマト政権に対する大規模な磐井の乱は、1年半がかりでようやく制圧されました。
誰に制圧されたか、書けますか?
物部麁鹿火(もののべのあらかひ)、たいへん書きにくくて読みにくい人です、注意すること!

では、ここで今日のゴロ合わせ。

527年.jpg

敗れた磐井が、死後に埋葬された古墳は分かりますか?
福岡県にある岩戸山古墳ですよ~。
ここからは、カワイイ石人や石馬など多くの石製品が出土しています。



それでは、今日はここまで☆
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478年 倭王武が宋に使者を派遣する [年号のゴロ合わせ]

前回は、朝鮮半島に進出した倭が、南下する高句麗と交戦したお話をしました。



その高句麗に対抗するため、そして朝鮮半島南部をめぐる外交・軍事上の立場を有利にするため、
5世紀初めごろから、倭は中国の宋から称号を授かろうと朝貢(ちょうこう)したようです。
この様子は、沈約(しんやく)が著した『宋書』の夷蛮伝(いばんでん)のなかに記されています。
いわゆる『宋書』倭国伝です。

この宋を、平清盛と交易をおこなった宋(南宋)と混同しないように気をつけましょう。
中国の南北朝時代、南朝に成立した宋のことです。

『宋書』倭国伝のなかには、5人の倭王が登場します。
讃・珍・済・興・武、まとめて倭の五王と呼びます。
サンチンセイコウブ、サンチンセイコウブ…と呪文のように何度もとなえて覚えてください。

なかでも有名なのが、倭王武です。
『日本書紀』と照らし合わせた結果、雄略天皇(ワカタケル大王)であることが確実とされています。
では、『宋書』倭国伝から、彼についての記述を見てみましょう。


〔1   〕死して弟〔2   〕立つ。自ら使持節都督(しじせっととく)倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事〔3   〕倭国王と称す。 順帝の昇明二年(478年)、使を遣して上表して曰く、「封国(ほうこく)は偏遠(へんえん)にして、藩を外に作(な)す。昔より祖禰(そでい)躬(みずか)ら甲冑を擐(つらぬ)き、山川を跋渉(ばっしょう)して寧処(ねいしよ)に遑(いとま)あらず。東は〔4   〕を征すること五十五国、西は〔5   〕を服すること六十六国、渡りて海北を平らぐること九十五国(中略)」と。詔して武を使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事〔3   〕倭王に除す。


空欄に入る語句は分かりますか?
 1…興(武の兄、安康(あんこう)天皇のこと)
 2…武
 3…安東大将軍
 4…毛人(もうじん、蝦夷(えぞ)のことか)
 5…衆夷(しゅうい、熊襲(くまそ)のことか)

武は、宋に対して先祖代々の頑張りをアピールします。
「昔から私の先祖は自ら甲冑を身につけ、休む暇も無いくらい頑張りました。
そうして東の国を55ヶ国、西の国を66ヶ国、さらに海を渡って95ヶ国も平定しました。
なので、私に立派な称号をください!!」ということです。

ここで今日のゴロ合わせ。
関西弁の「~しなや」というのは、標準語で「~するなよ」という意味です、念のため。

478年.jpg

なお、雄略天皇は、生前ワカタケル大王と呼ばれていたようですが、
その名を2つの出土品から見ることができます。
何と何か、分かりますか?
このころは古墳時代の中期なので、いずれも中期古墳から出土したものですよ。

では正解。
1つは、埼玉県の稲荷山(いなりやま)古墳から出土した鉄剣。
もう1つは、熊本県の江田船山(えたふなやま)古墳から出土した鉄刀です。
鉄などに刻まれた文字のことを銘文(めいぶん)というので、
稲荷山古墳出土鉄剣の銘文、とか、江田船山古墳出土鉄刀の銘文、などと呼ばれます。

ちなみに、剣は金属の両側が刃になっているもの、ゲームの主人公が手にする「勇者の剣」みたいなのです。
一方、刀は片側が刃になっているもの、江戸時代のサムライが持っているのがこれです。
包丁も片側にしか刃がついていないので、刀の一種と言えるのかもしれませんね。

ワカタケル大王の名が刻まれたものが、現在の埼玉県と熊本県から出土したということは、
すなわち、彼の支配力が関東地方から九州中部にまでおよんでいた、と言えるのです。



それでは、今日はここまで☆
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391年 倭が朝鮮半島に侵攻する [年号のゴロ合わせ]

昨日は、邪馬台国に新たな女王として壹与が誕生したところまでお話ししました。



その壹与とおぼしき女王が、266年に中国の晋へ使者を派遣したことが『晋書』には記されています。
しかし、そのあと約150年にわたって、中国の歴史書から倭の記述は姿を消します。
この時期を「空白の150年」と言ったりしますが、中国の歴史書に記載されていないだけで、
もちろん倭では色んなことが起こっています。
弥生時代から古墳時代への過渡期、そしてヤマト政権の成立です。

さて、「空白の150年」の間の倭の様子を伝える唯一の文献史料が
今日取りあげる「好太王(広開土王)の碑文」です。

高句麗の王であった好太王の功績を刻んだ大きな大きな石碑で、
彼の息子である長寿王(ちょうじゅおう)が、父の死後に鴨緑江(おうりょくこう)のほとりに建立しました。

この石碑のある場所がたいへんややこしい。

高句麗といえば朝鮮半島の北部を支配した強大な国。
ということで、この石碑は現在の北朝鮮にあるのでは…と思いがちですが、
実は中国吉林省(きつりんしょう)の集案市(しゅうあんし)というところにあります。
ここはかつて高句麗の都である丸都(がんと)という場所でした。
すなわち高句麗は、朝鮮半島北部と、現在の中国の一部に支配領域を広げていたのです。
4世紀ごろの朝鮮半島の様子は以下の通りです。

朝鮮半島.jpg

では、この石碑にはいったい何が書かれているのでしょう。


百残(〔1   〕のこと)・〔2   〕は旧(もと)是(これ)属民なり。由来朝貢す。而(しか)るに倭、辛卯(しんぼう)の年よりこのかた、海を渡りて百残を破り、〔2   〕を□□し、以て臣民と為す。


短い引用ですが、空欄に入る言葉は分かりますか?
 1…百済(馬韓(ばかん)諸国を統一して成立、「バカはクダラん」で覚えましょう)
 2…新羅(辰韓(しんかん)諸国を統一して成立)

この碑文を見ると、百済と新羅はもともと高句麗の属民であったようです。
しかし、倭が辛卯の年(391年)に海を渡って朝鮮半島に侵攻し、
百済を破り、新羅を□□(解読不能の2文字)し、臣民としてしまった、と書かれています。
そして、南下する高句麗と倭が交戦したようです。

かつて、戦時中に日本軍が碑文を改ざんしたという説も浮上しましたが、
現在では否定されています。

ということで、今日のゴロ合わせ。

391年.jpg

なんにせよ、このとき倭は高句麗の騎馬軍団との戦いから、騎馬技術を学んだようです。



それでは、今日はここまで☆
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239年 卑弥呼が魏に使者を派遣する [年号のゴロ合わせ]

今日はみなさんご存知の有名人、邪馬台国の卑弥呼の話をしましょう。



陳寿が著した『三国志』の一つである『魏志』のなかに、東夷伝という部分があり、
ここには倭人、とくに邪馬台国についての詳しい記述が見られます。
これを日本史では『魏志』倭人伝と呼びます。
ちょっと長いですが、引用します。

倭人は〔1   〕の東南大海の中にあり、山島に依りて国邑(こくゆう)を為す。①旧(もと)百余国。漢の時朝見する者有り、今使訳通ずる所〔2   〕国。都より倭に至るには、海岸に循(したが)ひて水行し、(中略)〔3   〕に至る。女王の都する所なり。 男子は大小と無く、皆黥面文身(げいめんぶんしん、入れ墨のこと)す。(中略)祖賦(そふ)を収むに邸閣有り。国々に市有り、有無を交易し、大倭をして之を監せしむ。女王国より以北には、特に一大率を置き、諸国を検察せしむ。諸国之を畏憚(いたん)す。(中略)〔4   〕、〔5   〕と道路に相逢へば、逡巡(しゅんじゅん)して草に入り、辞を伝へ事を説くには、或は蹲(うずくま)り或は跪(ひざまず)き、両手地に拠りて、之が恭敬(きょうけい)をなす。(中略) 其の国、本亦男子を以て王と為す。住(とど)まること七、八十年。②倭国乱れ、相攻伐して年を歴(へ)たり、乃ち共に一女子を立てて王と為す。名を〔6   〕と曰ふ。〔7   〕を事とし、能く衆を惑はす。年已に長大なるも、夫婿(ふせい)なし。男弟有り、佐(たす)けて国を治む。(中略) 景初二年六月、倭の女王、大夫〔8   〕等を遣し郡に詣(いた)り、天子に詣りて朝献せんことを求む。(中略)其の年十二月、詔書して倭の女王に報じて日く、「(中略)今汝を以て〔9   〕と為し、金印紫綬を仮(ゆる)し、装封(そうふう)して〔1   〕の太守に付し仮授せしむ(中略)」と。 〔6   〕以て死す。大いに冢を作る。径百余歩、徇葬(じゅんそう)する者、奴卑百余人。更に男王を立てしも、国中服せず。更々相誅殺し、当時千余人を殺す。〔6   〕の宗女〔10   〕の年十三なるを立てて王と為す。国中遂に定まる。

空欄に入る語は答えられましたか?
 1…帯方(たいほう、後漢が朝鮮半島に設置した郡)
 2…三十
 3…邪馬台国(所在地は北九州か畿内か…最近は奈良県の纏向(まきむく)遺跡が注目されています)
 4…下戸(邪馬台国には大人-下戸-奴卑という身分制度が存在したことが分かります)
 5…大人
 6…卑弥呼
 7…鬼道(きどう、呪術の意、彼女は呪術で人々を統治していたようです)
 8…難升米(なしめ、大夫という役職の者で、中国に派遣されました)
 9…親魏倭王(しんぎわおう、魏と親しい倭の王という意)
10…壹与(壱与)(いよ、臺与(とよ)という説もアリ、卑弥呼は結婚しておらず、彼女は卑弥呼の一族の者であったようです)

さらに、下線①と②はどの史料の引用か分かりましたか?
 ①…『漢書』地理志
    夫れ楽浪海中に倭人有り。分かれて百余国と為る。歳時を以て来り献見すと云ふ。
    『漢書』と『魏志』で、楽浪郡と帯方郡、百と三十をそれぞれ混同しないよう注意しましょう。    
 ②…『後漢書』東夷伝
    これは昨日詳述しましたので、そちらをご覧ください。

『魏志』倭人伝には、卑弥呼が景初二年に使者を遣わした、と書かれていますが、
これはおそらく景初三年の誤りであろうとされています。
このとき卑弥呼は「親魏倭王」の称号とともに多数の銅鏡を賜ったとされます。
銅鏡とは、有名な「三角縁神獣鏡」です。
縁が三角で、神獣が施されているのでこう呼ばれています。
簡単に描くとこんな感じ。

三角縁神獣鏡.jpg

ということで、今日のゴロ合わせ。

239年.jpg

このような銅鏡を用いて呪術で邪馬台国を統治したのでしょうね…



それでは、今日はここまで☆
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57年 奴国王が後漢に使者を派遣する [年号のゴロ合わせ]

日本史のなかで、最初に覚える年号は西暦57年。
宋の范曄(はんよう)が著したとされる『後漢書』東夷伝のなかに登場します。
まずは史料を読んでみましょう。



建武中元二年、倭の〔1   〕、奉貢朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。〔2   〕、賜ふに印綬を以ってす。安帝の永初元年、倭国王〔3   〕等、〔4   〕百六十人を献じ、請見を願ふ。桓霊の間、倭国大いに乱れ、更相攻伐し歴年主なし。


さて、括弧に入る言葉は分かりますか?

 1…奴国(福岡県博多地方にあったとされる)
 2…光武(後漢の光武帝)
 3…帥升(すいしょう、師升と表記されることもある)
 4…生口(せいこう、奴隷の意)

ここはしっかり覚えておきましょう。

建武中元二年(西暦57年)、奴国の王が後漢の都である洛陽(らくよう)に使者を派遣しました。
すると、奴国王は光武帝から印綬(いんじゅ、金印とくみひも)を授かったのです。
その一辺が約2.3cmの小さな金印は、1784年に福岡県の志賀島(しかのしま)で発見されました。
教科書や資料集にもよく登場する、おなじみの「漢委奴国王」(かんのわのなのこくおう)と刻まれた金印ですね。

テストでこの文字を問われたら、「ワノナノ国王」だったか「ナノワノ国王」だったかパニックになる人がいます。
そんなときは落ち着いて、意味を考えましょう。
「漢が認めた倭のなかにある奴の国王だよ」、すなわち漢>倭>奴と大きい順に書けばよいのです。
しかし、もう一つ気をつけなければならないのが、ここでは「倭」ではなく「委」の文字が使われていること。

ということで、今日のゴロ合わせ。

57年.jpg

これで覚えてしまいましょう!!

なお、帥升が奴隷160人を献上した安帝の永初元年はその50年後、西暦107年のことです。
その後、桓帝と霊帝の時代(2世紀)は、倭が乱れて長い間リーダーが現れなかった、
と『後漢書』東夷伝には記されています。
1世紀の日本のようすを伝えるたいへん貴重な記録ですね…



それでは、今日はここまで☆
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日本史の勉強について [はじめに]

みなさんは、日本史の勉強は好きですか?

嫌いな人は多いでしょうし、
好きだけど覚えるのは苦手…という人も多いことでしょう。

そう、日本史の勉強ってほんとうに大変なんです。
覚えることはたくさんあるし、似たような名前や事件もいっぱい出てくるし…

定期テストなんかが近づいてきたときに、日本史の勉強に行き詰まると、
「なぜそんな昔のことを覚えなければならないのか」とか、
「こんなこと知らなくても生きていけるし」とか、
どうしても色々思ってしまいますよね…
日本史が大好きな私もそうでした。

そこで、みなさんのツライツライ日本史の勉強が、
ほんのちょっとでも楽しくなったら…と思い、
このブログを始めることにしました。

これからよろしくお願いします(*^_^*)


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