SSブログ

平安時代(15) [まとめプリント]

前回は、後三条天皇(ごさんじょうてんのう)と白河天皇(しらかわてんのう)の政治をまとめました。
今日はその続き、院政のはじまりを見ていきましょう!

平安15.jpg

1086年、白河天皇が、息子の堀河天皇(ほりかわてんのう)に譲位します。
堀河天皇はまだ8歳ということで、
白河上皇(しらかわじょうこう)が院政(いんせい)を開始します。
白河上皇が院政を始めた理由については、
1086年のゴロ合わせで詳述しているので、そちらをご覧下さい!

上皇のおうちを院(いん)とか、院御所(いんのごしょ、院の御所 でもOK!)などと呼ぶのですが、
院政とは、上皇が院(院御所)で、天皇を後見する形で国政を主導する政治形態をいいます。
ちなみに院という言葉は、上皇自身を指す場合もあります。
白河上皇ならば、白河院(しらかわいん)てな感じです。
ややこしいので、これ以降、上皇のおうちは院御所と書くことにしますね。

白河上皇がはじめた院政は、
このあと鳥羽上皇(とばじょうこう)・後白河上皇(ごしらかわじょうこう)の計3代にわたり、
100年余り続きます。
当時、すっかり衰退している摂関家は、
院政をおこなう上皇と結びつくことで勢いを盛り返そうとします。

なお、その後も江戸時代にいたるまで、院政はちらほらおこなわれるのですが、
それについてはまた追々…

*   *   *

院政の仕組みは、こんな感じです。

・実   権:上皇(院)
・政 務 機 関:院庁(いんのちょう)…上皇直属の家政機関
・役   人:院司(いんし)…院庁の職員の総称
・命   令:院庁下文(いんのちょうくだしぶみ)…院庁から出される文書
       院宣(いんぜん)…上皇の意向を受けて出される文書
・警備の武士:北面の武士(ほくめんのぶし、北面武士 と書いてもOK!)…院御所の北面に組織
・財   源:院分国(いんぶんこく)・寄進地系荘園(きしんちけいしょうえん)など
・近   臣:院近臣(いんのきんしん)…院政を行う上皇の側近として権勢をふるう、
・近   臣:院近臣(いんのきんしん)…上皇の乳母(うば)の血縁者や受領(ずりょう)出身者など

なんでもかんでも「院」の文字がついているので覚えやすいですね!

*   *   *

補足説明をしておきたいのが、命令の部分です。
院庁下文(読み方注意!)と院宣、なんで2種類あるの?って感じですよね。

ここで、プリントにも載っている次の写真を見て下さい。
院庁下文.jpg
長野県立歴史館が所蔵する、鳥羽法皇(とばほうおう)の院庁が出した院庁下文です。
右上に「院廳下」と書かれていますが(「廳」を簡略化した漢字が「庁」です)、
これ、「いんのちょうくだす」と読みます。
院庁下文は、「院庁から下されたお手紙ですよ~!」という意味の、
この漢字3文字で書き始められることが多いです。
書き終わりは、院司が数名(この院庁下文では7人)サインをします。

このように院庁下文は、院庁という役所から、院司という職員が数名サインして出されます。
つまり、公的な性格の強い命令文なのです。

一方、院宣はというと、
天皇や太政官(だじょうかん、または、だいじょうかん)が出す命令文である宣旨(せんじ)の、
院バージョン(上皇バージョン)です。
上皇の意向を受けた院司が出すもので、
院庁下文に比べると、私的な性格の強い命令文といえます。

公的なのが院庁下文、私的なのが院宣、てな感じで区別してください。
いずれも、院政の発展とともに、国政一般に効力をもつようになってゆきます。

*   *   *

もひとつ補足説明を。
北面の武士についてです。

これは、院御所が雇った警備員です。
メンバーは源氏や平氏といった武士が多く、
源頼朝(みなもとのよりとも)のお父さんである源義朝(みなもとのよしとも)や、
平清盛(たいらのきよもり)のお父さんである平忠盛(たいらのただもり)もその1人です。

院御所の警備員になるということは、上皇や院近臣のそばに仕えるということです。
そんな権力者に顔を覚えてもらえれば、出世も夢ではありません。
北面の武士は、武士にとって中央進出の足場でもあったのです。

ところで…
なんか似たような名前の単語、ありましたよね…?

そうです!
滝口の武士(たきぐちのぶし)です!!
滝口の武者(たきぐちのむしゃ)とも呼ぶんでしたねー。
詳しくは平安時代(12)をご覧ください。

滝口の武士は、朝廷を警備する武士で、
北面の武士は、院御所を警備する武士です。
のちのち西面の武士(さいめんのぶし)なるものも登場しますので、
いまのうちに滝口の武士と北面の武士の違いを押さえておいてくださいね!!

*   *   *

その後、堀河天皇が成人し、関白には22歳のワカゾーが就任します。
1107年には堀河天皇が亡くなり、息子の鳥羽天皇(とばてんのう)が5歳で即位したため、
おじいちゃんである白河法皇(しらかわほうおう)にますます権力が集中するようになり、
院政は本格化してゆきます。

あれ?
なんか知らん間に、白河上皇が白河法皇に変わってますよ??
そうなんです、彼は1096年、娘の死をきっかけに出家しているのです。

天皇をやめると上皇(じょうこう)と呼ばれるようになり、
上皇が出家すると法皇(ほうおう)と呼ばれるようになるのです。
このことはプリントの右下にも書いていますので、確認して下さいね!

続いて1123年には、鳥羽天皇が息子の崇徳天皇(すとくてんのう)に譲位しますが、
白河法皇が院政を継続します。
その白河法皇が1129年に亡くなると、かわって鳥羽上皇が院政を開始するのです。



プリントの右上、院政期の社会にうつります。

①経済

○ 知行国(ちぎょうこく)の制度

これは、上皇・朝廷が、貴族や寺社などを一国の知行国主(ちぎょうこくしゅ)として認め、
その国の支配権にあたる知行権(ちぎょうけん)や収益権を与える制度です。

ん?ナニソレ??って感じですよね。

前回、公領のしくみはこうなっていることを学びましたよね。
平安14-4.png

受領(ずりょう)とは、国守(くにのかみ)レベルの国司を指すんでしたね。
国守とは、国司で一番エラい人のことです。
国司の四等官制(しとうかんせい)は、
守(かみ)・介(すけ)・掾(じょう)・目(さかん)ですもんね。
四等官制って??という人は、飛鳥時代(8)を復習して下さい。

受領に任命されるのは中級貴族なのですが、これになれたらもうウハウハです!
このころには在京、イコール京都に滞在したまんまでも、つまり現地に行かなくても、
それはそれはもうガメツク儲けられたのです!!

うらやましいですよね…
受領になりたいですよね…

でもね、繰り返しますが、
受領に任命されるのは中級貴族なんです。

そこで!

受領に任命されたいのに任命されない身分の人を、
受領みたいにガメツク儲けさせてあげよう!!

というのが知行国の制度なのです!!!

じゃ、受領に任命されたいのに任命されない身分の人って、
一体どんな人なんでしょうか。

答えは…

まさかの、身分が高すぎる上級貴族です!!!!!

えぇ!?
貧しい下級貴族とかじゃないの!!??
って感じですよね…

平安15-3.jpg

まず、朝廷または上皇は、上級貴族を知行国主に任命します。
すると知行国主は、自分の子弟や近臣などを国守に推薦し、その推薦料をもらいます。
任命された国守もほとんどは現地に行かず、かわりに目代を派遣して実務にあたらせます。
知行国主は、朝廷に決められた額の税はおさめますが、
残りは自分の収益とすることができるのです。

簡単な図にすると、こんな感じでしょうか。
公領と比べると分かりやすいですかね?

平安15-4.jpg

身分が高すぎて受領になれない上級貴族が知行国主となって、
身近な人を受領に推薦して丸儲け、ってことです。
ややこしそうに見えますが、案外シンプルなしくみです。

このころ、朝廷の税収は減っていて、貴族たちに支払う給料もままならない状況です。
知行国の制度は、そんな貴族の経済的基盤を確保する目的で生み出されたのです。

といって、貧しい下級貴族を救うのではなく、
上流貴族たちがガッポリ儲けるための制度ってのが何ともガッカリですよね!!

○ 院分国(いんぶんこく)の制度

知行国主が上皇または女院(にょいん)の場合、その知行国を院分国と呼びます。
厳密にいうと、院分国と知行国はちょっと仕組みが異なるのですが、
大学受験レベルではこの理解でオッケーです◎

女院とは、上皇の近親のなかで、院号(○○院という称号のこと)を与えられた女性のことです。
保元の乱で登場した、美福門院(びふくもんいん)とか、待賢門院 (たいけんもんいん)がそうです。

知行国の制度・院分国の制度によって、公領は上皇や知行国主・国司の私領のようになり、
院政を支える経済的基盤にもなってゆくのです。

○ 寄進地系荘園

院政期、有力貴族や大寺院への荘園の寄進が増加します。
とくに鳥羽上皇の時代には、彼の周辺に寄進地系荘園がたくさん集まります。
不輸の権・不入の権(警察権の排除にまで拡大)を持つ荘園も一般化し、
荘園の独立性が高まってゆきます。

このころ、上皇が女院や大寺院に大量の荘園を与えることもありました。
有名な例を2つ見ておきましょう。

・八条院領(はちじょういんりょう)
 鳥羽法皇(とばほうおう)の娘である八条院(はちじょういん)という女院が相続したもので、
 平安時代末に約100ヶ所、最終的に約220ヶ所以上にのぼった荘園群です。
 のちのち後醍醐天皇(ごだいごてんのう)が継承し、
 南北朝時代には、南朝(なんちょう)の大覚寺統(だいかくじとう)の経済的基盤となります。
 ちなみに、八条院は1156年の記事にある、次の系図に登場しております。
 近衛天皇のお姉ちゃんにあたる人物です。
1156-1-2.jpg

・長講堂領(ちょうこうどうりょう)
 後白河法皇(ごしらかわほうおう)が、長講堂(ちょうこうどう)という京都の寺院に寄進した荘園群です。
 鎌倉時代初めに約90ヶ所を数え、
 南北朝時代には、北朝(ほくちょう)の持明院統(じみょういんとう)の経済的基盤となります。

大覚寺統や持明院統については、また南北朝時代に詳しく説明しますね!

*   *   *

②宗教

○ 上皇による仏教保護

院政期、上皇たちは仏教をあつく信仰し、保護します。
白河上皇も鳥羽上皇も後白河上皇も、みんな出家して法皇となっています。

このころブームになっていたのは、
熊野詣(くまのもうで)と高野詣(こうやもうで)です。

熊野本宮大社(くまのほんぐうたいしゃ)
熊野速玉大社(くまのはやたまたいしゃ)
熊野那智大社(くまのなちたいしゃ)

以上の3つの神社をまとめて熊野三山(くまのさんざん)と呼ぶのですが、
これらに参詣することを熊野詣といいます。

もう1つの高野詣はというと、高野山(こうやさん)に参詣することをいいます。

さて高野山。
なんという宗派の総本山(そうほんざん、中心寺院のこと)だったか覚えていますか…?

ハイ、真言宗(しんごんしゅう)です。
「わっすれたわ~~~…」という人は、平安時代(3)を復習して下さいね!

浄土教と末法思想の広がりを背景に、
熊野三山や高野山は特別な場所と見なされるようになり、
上皇をはじめ、たくさんの人たちがここを目指したのです。
いずれも現在の和歌山県にあり、都からは結構遠いんですけどね。
2004年、熊野三山や高野山は、そこに至る参詣道もふくめて世界遺産に登録されました。

○ 僧兵(そうへい)の出現

荘園をたくさん所有する大寺院は、ドロボーなどから土地を守らなければなりません。
また、国府や開発領主といったさまざまな勢力にも対抗せねばなりません。

そこで登場するのが、僧兵です。
白い袈裟(けさ)で顔を覆っていたり、鎧(よろい)を身につけていたり、
長刀(なぎなた)で武装していたりと、ものものしいビジュアルをした下級僧侶です。

やがて僧兵は、強訴(ごうそ)をおこなうようになります。
神木(しんぼく、神様の宿る木のこと)や神輿(しんよ、おみこしのこと)を先頭に立てて、
朝廷や貴族に、自分たちの要求を無理矢理聞き入れさせようとするのです。

平安15-2.jpg

ウワー…めっちゃ怖いですねー…
武装したマッチョな僧侶が、おみこしかついで迫ってくるんですよ…
しかも「言うこときかんかったらバチがあたるぞー!」とか言うてるんですよ…

現代でさえこんなのが迫ってきたらめっちゃ怖いのに(まぁ迫ってくることはないでしょうけど)、
このころの貴族は、仏様とか神様とか怨霊とかバチとか、チョー信じてるんですよ!
だから、こんなことされたらもうめっっっちゃ怖いんですよ!!
僧兵の要求をのむしかないんですよ!!!

僧兵の襲来をおそれる貴族たちは、ガードマンとして武士を雇います。
これも、武士の中央政界進出につながってゆくのです。

そんな僧兵には、あの白河法皇でさえ手を焼いていたようで、
「天下の三不如意(ふにょい、自分の意のままにならないもの)」として、

賀茂川(かもがわ)の水
双六(すごろく)の賽(さい)
山法師(やまほうし、延暦寺(えんりゃくじ)の僧兵のこと)

の3つを挙げています。

たびたび氾濫を起こす京都の賀茂川・双六のサイコロの目・延暦寺の僧兵、
この3つはどうも自分の思い通りにならない…と愚痴っていたようです。
(ほかは思い通りになるってことですよね…やっぱ白河法皇パネェ!!!)

強訴の常連メンバーとしてあげられるのは、
白河法皇をも苦しめた山法師こと延暦寺の僧兵と、
奈良法師(ならほうし)こと興福寺(こうふくじ)の僧兵です。

山法師は、比叡山(ひえいざん)のふもとにある日吉神社(ひよしじんじゃ)の神輿をかついで強訴し、
奈良法師は、
興福寺の隣にある春日大社(かすがたいしゃ)の榊(さかき)という木をささげて強訴します。

比叡だから法師、
奈良だから奈良法師、で覚えて下さいね!
ちなみに、興福寺と延暦寺はまとめて南都北嶺(なんとほくれい)と呼ばれることもあります。
(南都=興福寺、北嶺=延暦寺)

*   *   *

最後に解答を載せておきましょう!

平安15解答.jpg

次回は、保元の乱・平治の乱をまとめていきます。
更新が滞っていること、なにとぞご了承くださいませ。

画像出典
長野県立歴史館 https://www.npmh.net/index.php
nice!(9)  コメント(0) 
共通テーマ:学問

平安時代(14) [まとめプリント]

久しぶりの更新、久しぶりのまとめプリントです。

これまでの古代(こだい)とオサラバし、いよいよ中世(ちゅうせい)に突入します。
とはいえ、「中世っていつのこと?」と問われると、これがハッキリ答えられんのです…
かつては鎌倉時代と室町時代を中世と呼んでいたのですが、
最近では「院政期あたりから中世って言ってもいいんじゃな~い?」てな感じになってきています。
中世という時代区分はヨーロッパで考えられたものなので、
日本にぴったり当てはまらないんですよねー。
なので、「このプリントあたりから中世なんだ~」とザックリとらえておいてください。

では、まとめプリントに沿って見ていきましょう。

平安14.jpg

1068年、後三条天皇(ごさんじょうてんのう)が即位します。
藤原氏と外戚(がいせき)関係にない彼は、
大江匡房(おおえのまさふさ)などの学者さんを登用し、親政(しんせい)を開始します。

そして翌1069年、延久の荘園整理令(えんきゅうのしょうえんせいりれい)を発令するのです。

このころ、公領(こうりょう)とか国衙領(こくがりょう)などと呼ばれる国の土地は、
どんどん増える荘園によって圧迫されておりました。
そこで、公領(国衙領)を守るため、基準にあわない荘園を停止してしまおう!と考えたワケです。

これまで荘園整理令は、902年や1045年など、たびたび発令されてきましたが、
いずれも国司に任せていたため不徹底に終わっています。

てなワケで、後三条天皇は本気です!
(いや、みんな本気だっただろうけど…)
荘園の審査を、国司に任せるのではなく、中央でおこなったのです!!

中央の太政官(だいじょうかん、または、だじょうかん)に
記録荘園券契所(きろくしょうえんけんけいじょ)、略して記録所(きろくしょ)を設置して、
荘園の所有者が提出する券契(けんけい、荘園の証拠書類)と国司の報告を審査します。
で、書類不備のものや、前回の荘園整理令が出された1045年以降に成立した新しい荘園など、
基準にあわない荘園を停止したのです。

これは、摂関家や大寺社の荘園も対象としたため、かなりの成果をあげます。
たとえば、京都にある石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)という神社が所有する荘園は、
なんと34カ所のうち13カ所もの権利が停止されています。

後三条天皇、強気だぜー!
摂関家を外戚としない彼だからこそ、できたのでしょうね!!

ほかにも後三条天皇は、宣旨枡(せんじます)を制定し、枡の大きさも統一しています。

*   *   *

後三条天皇にかわって即位したのは、息子の白河天皇(しらかわてんのう)です。
白河天皇といえば、上皇として院政(いんせい)をはじめたことで有名ですが、
天皇としての功績で覚えることは、
京都に法勝寺(ほっしょうじ)というお寺をつくったことぐらいでしょうか。
たび重なる火災や戦乱で建物はすべて失われてしまいましたが、
とてつもなく大きなお寺で、高さ80メートルを誇る八角形の九重塔まであったんだとか!
五重塔どころじゃないですよ、“きゅうじゅうのとう”ですよ!!

復元した模型がコチラ↓(10階建てに見えるのは、裳階(もこし)がついているためです)
hossyouji.jpg
(古典の日記念 京都市平安京創生館より)

そびえてますね~!
ちなみに現在、九重塔があった場所には、京都市動物園の観覧車がたっています。
いまもそびえとるわけですね~(笑)

このあと法勝寺の近くには、「勝」の漢字がつく大きなお寺が次々とたてられます。
お寺の名前と、それを建てた人の名前の一覧は以下の通りです。
 ・法勝寺         :白河天皇
 ・尊勝寺(そんしょうじ) :堀河天皇(ほりかわてんのう)
 ・最勝寺(さいしょうじ) :鳥羽天皇(とばてんのう)
 ・円勝寺(えんしょうじ) :待賢門院(たいけんもんいん、詳しくはコチラ
 ・成勝寺(じょうしょうじ):崇徳天皇(すとくてんのう)
 ・延勝寺(えんしょうじ) :近衛天皇(このえてんのう)
これらを6つまとめて六勝寺(ろくしょうじ、または、りくしょうじ)と呼びます。



では、プリントの右上にうつりましょう。

きましたよ~…荘園制…

いやですよね。
きらいですよね。

分かります!
その気持ち!!
なるべく簡潔にかみ砕いて説明しますので、ついてきてください!!!

*   *   *

まずは簡単に、荘園の歴史をおさらいしておきましょう。
平安時代(10)平安時代(11)もあわせてご覧くださいね!

平安14-1.jpg

743年に墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)が出され、
初期荘園(しょきしょうえん)、つまり墾田地系荘園(こんでんちけいしょうえん)が発生します。

でもそのうち、浮浪(ふろう)・逃亡(とうぼう)・偽籍(ぎせき)などが横行するようになり、
戸籍(こせき)・計帳(けいちょう)制度は崩壊、
902年に延喜の荘園整理令(えんぎのしょうえんせいりれい)を出してみるも、
班田収授(はんでんしゅうじゅ)もおこなわれなくなり、税制は立ち行かなくなります。

↓   ↓   ↓

平安14-2.jpg

そこで10世紀、朝廷は税制の大転換をおこないます。
これまでの人頭税(じんとうぜい、人にかける税)にかわり、土地に税をかけるようにし、
その徴税を、これまでの郡司にかわり、国司に請け負わせるようにしたのです。
徴税を請け負うかわりに、一国内の統治をゆだねられるようになった国司はオイシイ役職となり、
成功(じょうごう)・重任(ちょうにん)・遙任(ようにん)がおこなわれるようになります。
なかには、ガメツイ受領(ずりょう、任国に赴く最上席の国司)も現れます。

この税制の大転換にともない、課税対象となる田んぼは名(みょう)という単位に分けられ、
国司はその耕作と徴税を有力農民である田堵(たと)に任せます。
田堵は名を請け負うことから、やがて負名(ふみょう)と呼ばれるようになります。
また、田堵のなかにはじゃんじゃん土地を開発し、
大名田堵(だいみょうたと)とか開発領主(かいはつりょうしゅ)と呼ばれるほど成長する者も現れます。

でもね、この時代、税は土地にかけられるようになっているわけですよ。
土地を開発すればするほど、いっぱい税を支払わないといけなくなるわけですよ。

なんとか税から逃れたい開発領主(大名田堵)たちは、
不輸の権(ふゆのけん)や不入の権(ふにゅうのけん)をもつ特権階級に土地を寄進します。
土地を寄進しても、みずからは荘官(しょうかん)としてその土地の管理を続けられるので、
寄進地系荘園はどんどん増加してゆくのです。

↓   ↓   ↓

平安14-3.jpg

前述の通り、増えまくる寄進地系荘園は、1069年の延久の荘園整理令によって整理されます。
これにより、貴族や寺社が支配する荘園と、国司の支配する公領(国衙領)とがハッキリし、
荘園公領制(しょうえんこうりょうせい)が成立するのです。
ザックリいうと、荘園と公領(国衙領)で国が構成されている、という感じです。

荘園については平安時代(11)に詳述しているので、そちらをご覧いただくとして、
ここでは公領(国衙領)を見ていきましょう。

平安14-4.png

公領(国衙領)の統治を担うのは国司、とくに受領です。
前述のとおり、受領とは任国に赴く最上席の国司を指します。
なのにねー、このころになると、任国に行かなくなっちゃうんですよ!
受領なのに遙任しちゃうんですよ!!
なんたる矛盾!!!

そんなこんなで任国の国衙には、受領が派遣した目代(もくだい)がやってきます。
目代は、地元の有力者である開発領主たちを在庁官人として雇い、国衙を経営してゆくのです。

なお、公領(国衙領)の開発を奨励する朝廷は、
それらを郡(ぐん)・郷(ごう)・保(ほ)という並列した支配単位に編成しなおします。
国衙は、在庁官人のなかから郡司(ぐんじ)・郷司(ごうじ)・保司(ほし)を任命し、
それぞれの徴税を請け負わせるようになります。

徴収する税はというと、
公領では官物(かんもつ)・公事(くじ)・夫役(ぶやく)、
荘園では年貢(ねんぐ)・公事・夫役に変わっています。

むあぁぁぁぁーーーー、ややこしいですよねーーーー…
もっとうまくまとめられたらいいのですが、私にはこれが限界のようです…

*   *   *

最後に解答を載せておきましょう。

平安14解答.jpg



次回は、院政をまとめていきます。
更新が滞っていること、なにとぞご了承ください…

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村

画像出典
古典の日記念 京都市平安京創生館 http://web.kyoto-inet.or.jp/org/asny1/souseikan/index.html
nice!(6)  コメント(4) 
共通テーマ:学問

1177年 鹿ケ谷の陰謀が起こる [年号のゴロ合わせ]

今日は、鹿ケ谷の陰謀(ししがたにのいんぼう)についてお届けします。

シシガタニ ノ インボウ…
一体それなんやねん!って突っ込みたくなりますよね。

鹿ヶ谷(ししがたに)というのは、京都の地名です。
現在も、銀閣寺(ぎんかくじ)のちょっと南のあたりで住所として使われています。

1177年、その鹿ケ谷にある山荘で、なにやら陰謀がくわだてられたようです!
詳しく見ていきましょう!!






前回は、1167年に平清盛(たいらのきよもり)が
太政大臣(だいじょうだいじん、または、だじょうだいじん)に就任したことを紹介しましたが、
出世したのは平清盛だけではありません。
平氏の多くが高位高官(こういこうかん、高い位階と高い官職のこと)にのぼりつめたのです。

もうね、平氏の勢いハンパないのです!
そのハンパなさをあらわす史料を、ここで見ておきましょう。

六波羅殿(ろくはらどの、京都の六波羅に邸宅をかまえる〔1   〕のこと)の御一家の君達(きんだち、上流貴族の子弟のこと)といひてしかば、花族(かしょく)も英耀(えいゆう、英雄の誤り、花族と同じく摂家につぐ貴族の家格のこと)も面(おもて)をむかへ肩をならぶる人なし。されば入道相国(にゅうどうしょうこく、〔1   〕のこと、入道は出家した人を指し、相国は太政大臣を指す)のこじうと(配偶者の兄弟のこと)平大納言(へいだいなごん)〔2   〕卿(きょう)ののたまひけるは、「此(この)一門にあらざらむ人は皆人非人(にんぴにん)なるべし。」とぞのたまひける。かゝりしかば、いかなる人も相構(あいかま)へて其(その)ゆかりにむすぼゝれむとぞしける。(中略)日本秋津嶋(あきつしま)は纔(わずか)に六十六箇国、平家知行(ちぎょう)の国卅余箇国(1180年には平氏の知行国が30国をこえる)、既(すで)に半国にこえたり。其外(そのほか)庄園田畠いくらといふ数を知(しら)ず。綺羅(きら、美しい服のこと)充満して、堂上(とうしょう)花の如(ごと)し。軒騎(けんき、車や馬のこと)群集して、門前市(もんぜんいち)をなす。揚州(ようしゅう)の金(こがね)、荊州(けいしゅう)の珠(たま)、呉郡(ごきん)の綾(あや)、蜀江(しょっこう)の錦(にしき、揚州・荊州・呉郡・蜀江はいずれの中国の地名で、それぞれの物品の名産地を羅列)、七珍万宝(しっちんまんぽう、多種多様な宝物のこと)一(ひとつ)として闕(かけ)たる事なし。(後略)
(出典『3   』)


空欄にあてはまる語句は分かりましたか?
 1…平清盛(六波羅殿・入道相国などと呼ばれる)
 2…時忠(ときただ)
 3…平家物語(へいけものがたり)

とっても有名なセリフが出てきましたね~!
下線部分、よく「平家にあらずんば人にあらず」って訳されますね。
「平氏じゃないヤツは人間じゃないのダ!」ってことです。

ちょっとひどくなーい?
ダレよ!?
こんなセリフ言っっちゃったの!

え?
平時忠??

平清盛じゃなくって?
んじゃアンタ誰??

って感じですよね。
そこで、前回登場した系図をもう一度見てみましょう。

1177-1.jpg

あーーーー…
いるね!
いるいる!!

えーっと…
平清盛の…奥さんの…弟…だね、ウン。
いやぁ~…アンタがこのセリフ言っちゃう!?って感じですよね~。

でもですよ!
系図をよく見てください!!

お姉ちゃんの平時子(たいらのときこ)は、アノ平清盛の奥さんで、
妹の平滋子(たいらのしげこ)は、アノ後白河法皇(ごしらかわほうおう、1169年に出家)の奥さんではないですか!

しかもですよ!
平滋子の産んだ憲仁親王(のりひとしんのう)は、
1168年に即位して高倉天皇(たかくらてんのう)となるのです!!

さらにですよ!
その高倉天皇と結婚したのは、平時子の産んだ平徳子(たいらのとくこ)なのです!!

1177-2.jpg

あんたの周り、すごい人だらけじゃん!
そりゃ「平家にあらずんば人にあらず」とか言っちゃうわけだ!!

とにもかくにも、そんなセリフを生み出してしまうほど、平氏の勢いはものすごかったのです。
こののち、もしも高倉天皇と平徳子の間に子どもが生まれて即位すれば、
平清盛は天皇の外戚(がいせき)になれちゃうわけですからね!

これを快く思わないのが、後白河法皇とその側近たちです。
1176年に、平清盛と後白河法皇の間を取り持ってきた平滋子がこの世を去ることで、
両者の関係はどんどん悪化してゆきます。

後白河法皇の周辺からは、
まるで藤原氏のようなやり方で勢力を伸ばす平氏に対する不満の声が、
ちらほら聞こえるようになります。

そんなときに起こるのが、鹿ケ谷の陰謀なのです。

*   *   *

1177年のある日、
鹿ケ谷にある俊寛(しゅんかん)というお坊さんの山荘(別の人物の山荘という説もアリ)で、
後白河法皇が院近臣(いんのきんしん)たちと飲み会をしておりました。
院近臣とは、院政をおこなう上皇(法皇)の側近のことで、
俊寛もその1人です。

いい感じにお酒もまわっていたのでしょうか、
飲み会メンバーの1人である藤原成親(ふじわらのなりちか)は、
立ち上がったときにうっかり瓶子(へいし、お酒を入れる壺のこと)を倒してしまいます。
それを見た後白河法皇が「あれはいかに」と尋ねると、
藤原成親は「ヘイシが倒れましたー!」と答えます。

瓶子と平氏をかけたわけですね!
まさかのオヤジギャグ!!

次に、俊寛が「それをどうするのー?」とあおると、
西光(さいこう)というお坊さんが、
「クビをとるっきゃないでしょー!」と瓶子の首をボキっと折ったそうな。

1177-3.jpg

以上の様子は、『平家物語』に描かれています。
物騒ですけど、なかなか盛り上がった飲み会ではありませんか。

でもね。

これをね。

平清盛にチクった人がいたのです。

源行綱(みなもとのゆきつな)です。
多田源氏(ただげんじ)なので多田行綱(ただゆきつな)とも呼びます。
(そういや昔、源(多田)満仲(みなもとの(ただ)みつなか)もなにやらチクってましたよね…
 覚えてますか?詳しくはコチラ!!)

彼の「鹿ケ谷の山荘で、後白河法皇の院近臣たちがなんかくわだててるっぽい」という密告により、
平清盛はすぐさま飲み会のメンバーを捕らえます。
そして、俊寛を薩摩国(さつまのくに)の鬼界ヶ島(きかいがしま)に流罪とし、
藤原成親を備前国(びぜんのくに)に流したうえ、食べ物を与えず崖から落として殺害します。
瓶子の首を折った西光は、ほとんど教科書に登場しないマイナーな人物ですが、
ひどい拷問のすえ、口を切り裂かれ、首を斬り落とされるという悲惨な最期を遂げます。

ちょ…
飲み会の席でのことですやん…
怖すぎますやん…

後白河法皇自身は罪には問われなかったものの、
このような形で側近たちを失ったことは、
後白河法皇に精神的なショックを与え、また政治的な権力の低下をもたらします。
後白河法皇の院政が弱体化するなかで、
いいオトナに成長した息子の高倉天皇は、親政を願うようになるのです。

*   *   *

鹿ケ谷の陰謀の翌年、平徳子が男の子を出産します。
この赤ちゃん、なんと生後1か月で皇太子となります!
平清盛は、皇太子の外戚としてますます力を伸ばし、
後白河法皇との関係を悪化させてゆきます。

そして1179年、平清盛は大軍を率いてクーデターを決行します。
平氏に不満をもつ多くの貴族たちから官職を奪い取り、
かわって平氏に好意的なものたちに与えます。
さらに、後白河法皇を鳥羽殿(とばどの)という離宮(りきゅう)に幽閉し、
院政を停止してしまいます。

ここで、わずか1歳の安徳天皇(あんとくてんのう)が即位するのです。
お父さんである高倉上皇(たかくらじょうこう)が院政をしきますが、
もちろん安徳天皇の外戚である平清盛が政界の主導権を握ります。

また、平氏の知行国(詳しくは平安時代(15)をどうぞ!)も30ヶ国をこえ、
さきほど読んだ史料の太字部分、
日本秋津嶋は纔に六十六箇国、平家知行の国卅余箇国、既に半国にこえたり。
という状況になります。

いやー…
平清盛、とてつもない…

平清盛の権力はとてつもないものになりますが、
多くの人々の反感を買うことにもなるのです。

*   *   *

それでは、最後にゴロあわせを。

1177年.jpg

ワンワンニャアニャアではありません(1122年になっちゃいますから…)!
ワンワンナァナァで1177年です!!






次回からは、まとめプリントをお届けします。
更新が滞っていること、なにとぞご了承ください…

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村
nice!(7)  コメント(6) 
共通テーマ:学問

1167年 平清盛が太政大臣になる [年号のゴロ合わせ]

今日は、平清盛(たいらのきよもり)について、
1167年に太政大臣(だいじょうだいじん、または、だじょうだいじん)に任命されたことを中心にお届けします。






では問題!
平氏って、誰の子孫でしょうか?

ハイ、答えは桓武天皇(かんむてんのう)です。
なので、桓武平氏(かんむへいし)というんでしたね!
忘れたわー…という方は、平安時代(13)を復習してください。

平氏の多くは関東地方を基盤とするのですが、
平貞盛(たいらのさだもり、平将門の乱(たいらのまさかどのらん)で登場した人ですよ!)の子孫は、
伊勢国(いせのくに)に移り住みます。
この一族を、とくに伊勢平氏(いせへいし)と呼びます。

伊勢平氏の存在を世に知らしめたのは、平正盛(たいらのまさもり)です。
北面の武士(ほくめんのぶし、詳細は平安時代(15)で)として白河法皇(しらかわほうおう)につかえ、
また、12世紀のはじめに起きた源義親の乱(みなもとのよしちかのらん)を平定したのです。

その息子である平忠盛(たいらのただもり)も、白河法皇にかわいがられます。
瀬戸内海で暴れまわる海賊を討伐し、
白河法皇亡きあとも、鳥羽上皇(とばじょうこう)から重用されます。
さらに日宋貿易(にっそうぼうえき)にも着手し、莫大な富をたくわえます。

そんな平忠盛の長男として生まれたのが、平清盛です。

うーん、それにしても平氏はみんな名前がモリモリしててややこしいですねー…
平盛子(たいらのもりこ)って女性までいるぐらいですからねー…
とにもかくにも、

 平正盛 ー 平忠盛 ー 平清盛

の順番ですよ。
まじモリモリですね。

*   *   *

平清盛は、保元の乱(ほうげんのらん)で後白河天皇(ごしらかわてんのう)サイドを勝利に導き、
さらに平治の乱(へいじのらん)でも大活躍し、もんのすごいスピードで力を伸ばしてゆきます。

しかも、奥さんである平時子(たいらのときこ)は、
二条天皇(にじょうてんのう)の乳母(うば)だというんだから、
ますます絶好調です!
(乳母については、1159年のゴロ合わせを参照してください)

それだけではありません。
平清盛は、後白河上皇の院庁(いんのちょう)にもつかえ、
奥さんの妹にあたる平滋子(たいらのしげこ)を後白河上皇と結婚させます。
さらに、蓮華王院(れんげおういん、院政期の文化で解説予定)という立派なお寺をつくって、
後白河上皇にプレゼントしちゃいます。

このころ、親政を志す二条天皇と、院政をおこなう後白河上皇は対立しているのですが、
平清盛は両方といい関係を築いてるわけですよ!
いや~…揺るぎないわ~…

1167-2.jpg

そんな折、二条天皇が亡くなります。
かわって即位したのは、二条天皇の息子である六条天皇(ろくじょうてんのう)です。
このとき、まさかの生後7か月。
7か月ったらアナタ、1人でちゃんとおすわりもできない状態ですよ。
即位式なんて、途中で泣いちゃっておっぱい(もちろん乳母の)飲んだんだとか。
そりゃそーですよ、だって赤ちゃんだもん…

六条天皇の時代、皇太子に任命されたのは、
後白河上皇と平滋子の間に生まれた憲仁親王(のりひとしんのう)です。
彼にとって平清盛は、お母さんのお姉ちゃんの旦那さんです。
ん?あぁ、一応オジサンだね、うん。
ということで、平清盛がお世話係を仰せつかることになります。

そんなこんなで平清盛はどんどん出世し、
1167年には太政大臣に任命されるにいたります。
このとき、彼は50歳です。

本来、太政大臣に任命されるのは、皇族か貴族だけなのですが、
平清盛は武士でありながらこれに就任しちゃったのです!
太政大臣に任命された武士は、日本史史上6名だけです。
1167-1.png
そうなんです、平清盛が最初なんですよ!
「最初の」とか「最後の」ってのは重要なので、しっかり覚えておきましょう。

*   *   *

ところで、そもそも太政大臣ってナニか分かってますか?
ちょっとここで飛鳥時代(8)のプリントで律令制度(りつりょうせいど)を振り返ってみましょう。

飛鳥8解答.jpg

このように、律令にはいろんな官職(かんしょく)が定められていますが、
なかでも一番エライのが太政大臣です。
ただし、ふさわしい人物がいないときは任命されない則闕の官(そっけつのかん)です。
(太政大臣不在のとき、一番エライのは左大臣です)

「ん?摂政とか関白が一番エライんじゃないの??」と疑問に思いましたか?
そうなんですよ、このへんややこしいんですよねー…

思い出してください、摂政も関白も令外官(りょうげのかん)です!
どちらも律令に定められていない官職です!!
だからこの律令の表には載っていないのです!!!

なのでねー、このころの太政大臣はただの名誉職になってしまっていて、
たいした権限はありません。
平清盛は、わずか3か月で辞職してしまいます。

とはいえ、皇族か貴族しか就任できなかったものに任命されたのですよ!
すごいことじゃないですか!!
考えられないことですよ!!!

ってなワケで、こんなウワサがあるのです。

 平清盛は、白河法皇の子どもだ

ギャーーー!!
また出た白河法皇ーーーーー!!!

1167-3.jpg
(なぜ鳥羽天皇が背後にいるのかは、1156年のゴロ合わせを復習してください)

実は、平清盛のお母さんが誰かというのは、明らかになっていません。
お父さんである平忠盛は、白河法皇に仕えた女性と結婚しているのですが、
彼女がお腹に白河法皇の子を宿していて、その子を平清盛として出産した…のかもしれません。

ウワサはウワサ。
ホントのところは分かりません。

ただ、このウワサは当時もそこそこ広まっていたようです。
白河法皇の子どもだから、平清盛は武士なのに太政大臣になれたんだ、的な感じでね。
そんなウワサがたっちゃうぐらい、考えられないような大出世を遂げたということです。

いや~…

それにしても白河法皇…

すごいわ…

それでは、今日のゴロ合わせ。

1167年.jpg

いやーん、平清盛ったらいい胸毛してますね☆
「ダイジョーブ?」から、ダイジョー大臣を思い出してくださいね!






次回は、1177年に起きた鹿ケ谷の陰謀(ししがたにのいんぼう)をお届けします。
更新が滞っていること、なにとぞご了承ください…

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村
nice!(5)  コメント(2) 
共通テーマ:学問

1159年 平治の乱が起こる [年号のゴロ合わせ]

今日は、平治元年(へいじがんねん)、西暦1159年に起きた
平治の乱(へいじのらん)を取り上げます。

まずは、対立関係を表でみてみましょう。

1159-1.jpg

前回の保元の乱(ほうげんのらん)から3年しか経っていないというのに、新キャラが続々と!
しかも名前が似たり寄ったりでややこしい!!
ホント受験生泣かせですよね…

なるべく簡潔に解説していきますので、
頭を整理しながらついてきてくださいねー!!



保元の乱に勝利した後白河天皇(ごしらかわてんのう)は、政治改革を推し進めます。
その改革のブレーンとなったのが、信西(しんぜい)です。
もとは藤原通憲(ふじわらのみちのり)という名前の貴族だったのですが、
このころには出家していて、信西というボーズネームを名乗っています。

どうして信西がブレーンになれたのかというと、
本人が頭脳明晰(ずのうめいせき)であることに加えて、
奥さんが後白河天皇の乳母(うば)だったからです。

乳母って分かりますか?
赤ちゃん用のミルクがないこの時代、
お母さんのおっぱいの出がよろしくないと、赤ちゃんが死んでしまうことさえありました。
そうならないためにも、めっちゃ母乳の出る女性を授乳係として雇うことがあったのです。
お母さんにかわっておっぱいを与えてくれる女性、それが乳母です。

ちなみに、母乳が出るのは出産から数年以内の女性に限られます。
とゆーことは…
そうです、乳母にも赤ちゃんがいるのです。
雇い主の赤ちゃんに授乳し、我が子にも授乳するのです。
しかも、授乳の順番は雇い主の赤ちゃんが先なんだそうですよ。
うーん、たいへんだぁ~…

信西の奥さんが後白河天皇の乳母に選ばれたのは、
後白河天皇が産まれて間もなくのことだったようです。
(このとき信西とすでに結婚していたかどうかは不明です)
しかし、このころ彼女が出産したという記録は残っていません。

ん?てことは??
そう、おっぱい出ないんです。

実は、乳母というのは授乳するだけではないのです。
身分の高い人々の間では、育児はしかるべき人物にお任せする、という慣例がありました。
その育児を担当する女性も、乳母と呼ばれたのです。

つまり信西の奥さんは、後白河天皇の養育を専門とする乳母だったのです。
そんなこんなで信西は、後白河天皇の時代に力をのばし、改革を進めてゆきます。

① 保元の乱のあと、後白河天皇のブレーンである信西が改革をおこなう
まずはこれを頭に入れてください。

*   *   *

このころ信西は、軍事力が必要だと考えるようになります。
それは、保元の乱で荒れた京都の治安を守るためであり、
各地の荘園を管理するためであり、
そしてなにより、自らが進める改革に対する反発を抑え込むためです。
そこで信西が手を組んだのが、最大の兵力をほこる平清盛(たいらのきよもり)です。
信西は、平清盛の軍事力を背景に改革を推し進め、
平清盛は、信西の力をかりて一族の出世をはかってゆくのです。

② 信西と平清盛が手を組んで、それぞれ力をのばしてゆく
ここまではOKですね?
さぁ、いよいよややこしくなってきますよぉ~…

*   *   *

1158年、後白河天皇は息子に譲位し、二条天皇(にじょうてんのう)が即位します。
これを決定したのは、信西と美福門院(びふくもんいん)です。
美福門院は、保元の乱でも登場した鳥羽法皇(とばほうおう)の奥さんですよ~。

二条天皇は、生まれて間もなくお母さんを亡くしたので、
おじいちゃんである鳥羽法皇に引き取られ、美福門院によって育てられます。
やがて美福門院は、我が子同然の二条天皇の即位を願うようになります。
鳥羽法皇亡きあと、ものすごい広さの荘園を相続した美福門院の発言力は相当なもので、
またそもそも後白河天皇は、二条天皇が成人するまでのツナギで即位したため(詳しくは保元の乱で!)、
信西は美福門院の要求を聞き入れるしかなかったようです。

こうして天皇の座を退いた後白河上皇(ごしらかわじょうこう)は院政を開始し、
親政をめざす二条天皇と対立するようになるのです。

③ 後白河上皇と二条天皇が対立する
このころ後白河上皇は、信西にかわるあらたな家臣を探しはじめます。

*   *   *

院政をおこなうなかで、
後白河上皇は藤原信頼(ふじわらののぶより)という貴族を頼るようになります。
信頼(のぶより)を信頼(しんらい)しちゃうわけですね~、ははは。
藤原信頼のように、院政をおこなう上皇の近くに仕える家臣のことを、
院近臣(いんのきんしん)といいます。
信西ももちろんその1人です。

ちなみに、藤原信頼は源義朝(みなもとのよしとも)と手を組んでいます。
源義朝は、保元の乱で平清盛とともに戦い、後白河天皇サイドを勝利に導いた武士でしたね。

④ 後白河上皇が、藤原信頼(源義朝と手を組む)を頼るようになる
なぜ後白河上皇が藤原信頼を頼るようになったのかというと、
ズバリ2人が“おホモダチ”だったから!という説があります(諸説アリマス)。
腐女子ども、「キャー!!」と興奮することなかれ、
男色(だんしょく、今風にいうとBLですね)は、この時代フツーのことです。
また後日、詳しく?述べたいと思います。

*   *   *

さて、信西はどうしているのかというと、
自分の子どもたちを次々と出世させ、ますます力をのばしている真っ最中です。
おぉっと、これはまわりのヒンシュクを買うパターンですねー。

ただですねー…
信西ムカつくからボッコボコにしたいなぁーって思ってもですねー…
彼の近くには平清盛がいるんですよ。

めっちゃ強いんですよ!
兵力ハンパないんですよ!!
手出しできないんですよ!!!

1159-6.jpg

⑤ 信西ムカつく、でも平清盛が怖すぎて手が出せない
ちなみに、藤原信頼と手を組んでいる源義朝ですが、
保元の乱の恩賞が平清盛より少なかったことにかなり不満を抱いています。
でも、平清盛には敵(かな)いそうにないので、何も言えずにいます…

*   *   *

なんとそんなとき!
平清盛が熊野詣(くまのもうで)に出かけます!!

熊野詣については、平安時代(15)で詳しく述べていますが、
簡単に言うと、紀伊半島のさきっちょにある神社を参詣(さんけい)することです。

そーなんです!
あの平清盛が、平安京から遠く離れた神社までお参りしに行っちゃったのです!!
これは信西をボッコボコにするチャンスです!!!

すかさず藤原信頼と源義朝は立ち上がります。
まずは、後白河上皇の邸宅である三条殿(さんじょうどの)を襲撃し、
後白河上皇の身柄(みがら)を確保します。
そして、二条天皇も一緒に幽閉(ゆうへい、閉じ込めてしまうこと)してしまいます。

この様子は、鎌倉文化で紹介する「平治物語絵巻(へいじものがたりえまき)」に描かれています。
Heiji_no_ran.jpg
燃えさかる三条殿を背景に、残酷な場面がさまざまに描かれています。
なかには戦乱に巻き込まれる女性の姿も確認できますね。

⑥ 平清盛が熊野詣に出かけた隙に、藤原信頼と源義朝が挙兵し、後白河上皇と二条天皇を幽閉したうえで信西を排除しようとする
てか、「藤原信頼と源義朝は後白河上皇の味方なのに、何で襲撃してんの?」ってパニくりません?
こーゆーところがややこしいんですよねー…
朝廷の軍隊を官軍(かんぐん)、それに敵対する軍隊を賊軍(ぞくぐん)と呼ぶように、
天皇や上皇をいただく軍隊は、正当性のある軍隊です。
よって、藤原信頼と源義朝は、信西を排除するという自分たちの行動が正当なものであるよう、
また二条天皇と後白河上皇の身柄が信西や平清盛に奪われ、自分たちが賊軍となってしまわないよう、
まず三条殿を襲撃したのだと考えられます。
それにしても、こんな手荒な方法しかなかったんですかねぇ…

*   *   *

ところで、信西はどうなったのかというと、この混乱のなか、なんとか平安京を脱出し、
山城国の田原(たわら、現在の宇治田原町(うじたわらちょう))という場所まで逃れます。
そして、大きな箱のなかに入り、家来たちに命じて土の中に埋めてもらいます。

ちょ…
ほんまにそんな隠れ方する人おるんですね…
しかも、箱には竹筒をさして、ちゃんと息を吸えるようにしておいたというんだからカンペキです!

しかぁし!
家来たちは追手(おって)の尋問に耐えられず、信西の居所はすぐにバレてしまいます…

1159-7.jpg

うぅ…ここまでしたのに…む、無念…
信西は、掘り起こされる最中、自ら喉をついて命を絶ったようです。

その後の信西の様子は、さきほども登場した「平治物語絵巻」に描かれています。
1159-3.jpg
↑ どこに信西がいるか分かりますか?
分かりにくいでしょうから、ちょっと赤丸をつけてみますね。
1159-4.jpg
↑ ワァァァー!いたァァァァーー!!(涙)
胴体から切り離された信西の首は、薙刀(なぎなた)にひっつけられて平安京まで運ばれたのです。
絵巻には、その様子を見た人たちが息をのんだり、ひそひそ話をしたりする姿も描かれていますね。

⑦ 信西が自害する
信西の子どもたちも次々と捕らえられ、のちに流罪となります。

*   *   *

クーデターを成功させた藤原信頼は、ついに政権を手に入れます。
ところがどっこい!
このタイミングで、熊野詣を中断した平清盛がいそぎ平安京に戻ってくるのです!!

藤原信頼の血なまぐさいやり方に不満をもつ者も多いなか、
ものすごい兵力を率いる平清盛が戻ったことで、藤原信頼の政権は揺らぎます。
さらになんと、二条天皇が夜な夜な平清盛の邸宅に逃げてきて、
藤原信頼と源義朝を討つよう命じるのです!

朝になり、二条天皇がいないことに気が付いた藤原信頼と源義朝はもうパニックです。
しかも、二条天皇の動向を知った後白河上皇もすでに逃げ出しているという始末。
藤原信頼と源義朝は、一夜のうちに賊軍になってしまったのです…

1159-8.jpg

⑧ 帰京した平清盛に、二条天皇が藤原信頼・源義朝の追討を命じる
後白河上皇と藤原信頼のカンケイって、そんなもんだったんですねぇ…

*   *   *

官軍となって勢いづいた平清盛は、藤原信頼と源義朝を討つため、
息子の平重盛(たいらのしげもり)や、弟の平頼盛(たいらのよりもり)らと出陣します。
それを迎え撃つ源義朝は、
息子の源義平(みなもとのよしひら)・源頼朝(みなもとのよりとも)らを率いて戦いますが、
平清盛との兵力の差は歴然で、敗れてしまいます。
なんとか東国へ逃れようとしますが、源義朝は尾張国(おわりのくに)で謀殺(ぼうさつ)され、
その後、源義平も捕らえられて斬首となります。

藤原信頼はというと、自ら出頭し、言い訳をしまくりますが、
三条殿を襲撃し、信西を殺害した首謀者として斬首されます。

1159-5.jpg

⑨ 藤原信頼が処刑され、源義朝は殺害される
ちなみに、源頼朝はというと、東国へ逃れる途中でお父さんとはぐれてしまいます。
その後、捕らえられ、処刑されるところを、
平清盛のお母さん(実母ではありません)が「命だけは助けてあげて」と訴えたため、
伊豆国(いずのくに)に流罪となります。

だって源頼朝、このとき13歳なんですよ!
処刑するなんて、あまりにもかわいそうじゃないですか!!

でもねー…
この優しさが平氏を滅ぼすことになっちゃうんですよねー…

*   *   *

長くなりました、ホントに長くなりましたゴメンナサイ。
なるべく簡潔にと言っておきながら、全然短くまとまんなかったですゴメンナサイ。

とにもかくにも、まずは青字で書いたを覚えて平治の乱の大枠(おおわく)をとらえ、
そのあと細かいところを読んで理解を深めてください。

最後にゴロ合わせを載せておきましょう★

1159年.jpg






保元の乱も平治の乱も、武士の力によって決着がつきました。
みんなが武士の実力を、とくに平氏の実力を認めざるをえなくなります。
というわけで、次回は平氏政権をゴロ合わせとともにお届けします。

更新が滞っていること、なにとぞご了承ください…

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村

画像出典
https://ja.wikipedia.org/wiki/平治の乱
https://ja.wikipedia.org/wiki/信西
nice!(3)  コメント(6) 
共通テーマ:学問

1156年 保元の乱が起こる [年号のゴロ合わせ]

今日は、保元元年(ほうげんがんねん)、西暦1156年に起きた
保元の乱(ほうげんのらん)を取り上げます。

保元の乱とは、
兄・崇徳上皇(すとくじょうこう)と、弟・後白河天皇(ごしらかわてんのう)の対立に、
兄・藤原忠通(ふじわらのただみち)と、弟・藤原頼長(ふじわらのよりなが)の対立が重なり、
それぞれに武士である平氏・源氏が加わって大規模な武力衝突に発展してしまった、
壮絶な兄弟ゲンカです。

最初に、対立関係を表にまとめておきましょう。

1156-1.jpg

う~ん、登場人物が多くてすでにややこしいですね…
なので、今回は天皇家の対立に焦点をしぼって、保元の乱を見ることにしましょう。
崇徳上皇と後白河天皇、この2人の対立の原点は、
どうやら彼らのお父さんである鳥羽天皇(とばてんのう)にあるようです。



鳥羽天皇は、1107年にお父さんである堀河天皇(ほりかわてんのう)の死去にともない即位します。
このときわずか5歳。
よって、おじいちゃんである白河法皇(しらかわほうおう、1096年ごろ出家)が院政(いんせい)をおこないます。

それから16年後、鳥羽天皇は息子に天皇の位を譲ります。
即位した崇徳天皇(すとくてんのう)は、これまた5歳。
もちろん院政が敷かれます。
院政をおこなったのは、崇徳天皇のお父さんである鳥羽上皇(とばじょうこう)ではなく、
これまた白河法皇です。
崇徳天皇にとっては、ひいおじいちゃんにあたる人物です。

こんな風に白河法皇がずぅぅーーーっと君臨し続けるので、
鳥羽上皇は、天皇としても、上皇としても、まったく権力を握れない日々を送ります。
ちょっとじいさん!いい加減 引退してくれよ!!って感じですよね。

といっても、じいさんの時代がいつまでも続くわけではありません。
1129年、白河法皇は77歳でこの世を去るのです。

さぁ!
ついに鳥羽上皇が権力を握る日がやって来ましたよ!!

てなわけで、鳥羽上皇はさっそく院政を敷き、白河法皇の側近たちを次々と排除します。
そして、1141年には崇徳天皇に譲位を迫り、息子の近衛天皇(このえてんのう)を即位させます。
近衛天皇は、このとき3歳。
院政をおこなうのは、もちろん近衛天皇のお父さんである鳥羽上皇です。

ところが…
1155年、近衛天皇は17歳の若さでこの世を去ってしまいます…

次に即位したのは、近衛天皇のお兄ちゃんにあたる後白河天皇です。
鳥羽法皇(とばほうおう、1142年に出家して法皇となる)としては、
孫(後白河天皇の息子、のちの二条天皇(にじょうてんのう))を天皇にしたかったのですが、
さすがに天皇になったことのないお父さんを差し置いて即位しちゃいかんだろ…ということで、
急遽、即位することになったのです。
そんな後白河天皇は、このとき29歳。
かなりイイトシなのですが、鳥羽法皇は院政を継続します。

うーん、なんだか人間関係がややこしくなってきたので、
ここでちょっと系図を確認するとしましょう。

1156-1-2.jpg

崇徳上皇・近衛天皇・後白河天皇は、みーんな鳥羽法皇の息子とゆーことですよ。
いや~、ややこしいですね~…

ここまでの流れは理解できましたか?
では、続きを見ていきましょう。

*   *   *

1156年7月2日、鳥羽法皇が亡くなります。

この直前、息子である崇徳上皇は、鳥羽法皇のお見舞いに出かけます。
ところが、お父さんに面会を拒否されてしまうのです!
しかも、「私が死んでも崇徳上皇に遺体は見せるな」という遺言つき!!

なにそれ!
ちょっとヒドくないですか!!

実は、鳥羽法皇と崇徳上皇の関係は、かなり前からギスギスしていたのです。
ここで、崇徳上皇が天皇の位を譲ったときに話を戻してみましょう。

*   *   *

崇徳天皇は、白河法皇の死後、鳥羽上皇から譲位を迫られ、
かわって近衛天皇が即位したんでしたよね。

近衛天皇は崇徳上皇の弟ですが、崇徳上皇の奥さんの養子になっていたので、
ながらく「皇太子」のポジションにありました。
ところが実際、近衛天皇が即位したときには、
「皇太弟」のポジションから天皇になった、という風に変わっていたのです!
崇徳上皇の弟、つまり鳥羽上皇の息子として即位した、ということです。
結果、院政は天皇のお父さんである鳥羽上皇がおこなうこととなり、
天皇のお兄ちゃんである崇徳上皇は、権力を手にすることはできませんでした。

その後、近衛天皇は若くして亡くなったのでしたね。
次の天皇として有力視されたのは、崇徳上皇の息子でした。
もし彼が即位すれば、崇徳上皇は天皇のお父さんなので、院政をおこなえる可能性がでてきます。

ところが鳥羽法皇は、崇徳上皇の弟である後白河天皇を即位させたのでしたね。
さらに、後白河天皇の息子(のちの二条天皇)を皇太子にたて、
次の天皇とすることも決定しました。

鳥羽法皇によって、
崇徳上皇の息子が天皇になること、
そして崇徳上皇が院政をおこなう可能性は完全に絶たれてしまったのです。
そこに死の間際の面会拒否とあの遺言ですよ。

いやぁ~…崇徳上皇マジでかわいそすぎます…
鳥羽法皇は、崇徳上皇のナニが気にいらないとゆーのでしょう!

1156-3.jpg

ここで1つ、なんとも怪しいウワサ話を紹介しましょう…
(以降、便宜上、「崇徳上皇」で名称を統一します)

崇徳上皇のお母さんは、
待賢門院璋子(たいけんもんいんしょうし、または、たいけんもんいんたまこ)といいます。
白河法皇に育てられた女性で、1117年に鳥羽天皇と結婚し、7人の子を産みます。
崇徳上皇は、その最初の子どもです。

ところが。
ところがですよ。

崇徳上皇のほんとうのお父さんは白河法皇である。

なんてゆーウワサがたつのです!
鳥羽天皇からすると、奥さんと、自分のおじいちゃんとの間にできた子です。
うぅぅぅーん、ちょっと相当キモいですよね…

1156-4.jpg

そんな息子に譲位した鳥羽上皇は、
やがて美福門院得子(びふくもんいんなりこ)という別の奥さんを愛するようになります。
そして、彼女が産んだカワイイ我が子を即位させるため、崇徳天皇に譲位を迫ったというわけです。

このウワサは、鎌倉時代に成立した『古事談(こじだん)』という本にしか載っていないので、
真偽のほどは分かりませんし、当時どれだけ広まったのかも分かりません。
でも、鳥羽法皇の崇徳上皇に対する態度を見ると、
「ウワサは本当なのかも…」と思ってしまいますね…

*   *   *

鳥羽法皇が亡くなったところに話を戻しましょう。

鳥羽法皇が亡くなり、なんかもういろいろショックを受けている崇徳上皇に、
さらなる追い打ちがかかります。

崇徳上皇と藤原頼長が手を結んで反乱を起こそうとしている。

というウワサが流れるのです。

藤原頼長とは、お兄ちゃんである関白の藤原忠通と対立している左大臣です。
(この兄弟の対立については、平安時代(16)のまとめプリントで詳しく述べる予定です)
またウワサかぃ!と突っ込みたくなりますが、ウワサほど怖いものはありません…
これにより、藤原頼長は財産を没収されてしまうのです。
もはや謀反人(むほんにん)扱いです。

このままでは自分も危ないと悟った崇徳上皇は、自宅を脱出します。
藤原頼長はそんな崇徳上皇と合流し、
ここに平忠正(たいらのただまさ)、源為義(みなもとのためよし)・源為朝(みなもとのためとも)親子といった武士が加わります。

こうした崇徳上皇側の動きに、後白河天皇と藤原忠通もすかさず
平清盛(たいらのきよもり)や源義朝(みなもとのよしとも)などの武士を集めます。

そして1156年7月11日の未明、両勢力は激突するのです。
世にいう保元の乱です。

勝敗は、わずか数時間で決します。
勝利したのは、後白河天皇側です。

敗北した崇徳上皇は、投降のすえ讃岐国(さぬきのくに)に流罪となり、
平忠正と源為義は斬首、源為朝は伊豆大島(いずおおしま)に流罪となります。
なお、藤原頼長は戦いのさなかに命を落としています。

1156-5.png

ちなみに、
天皇・上皇の流罪は、恵美押勝の乱(えみのおしかつのらん)以来(淳仁天皇が淡路島に流罪)、
死刑の執行は薬子の変(くすこのへん)以来(藤原仲成が処刑)のことです。

ここで、保元の乱についての史料を見ておきましょう。

保元元年(1156年)七月二日、〔1   〕院失セサセ給(たまひ)テ後、日本国ノ乱逆(〔2   〕のこと)ト云(いう)コトハヲコリテ後、ムサノ世ニナリニケルナリ
(出典:慈円(じえん)『〔3   〕』)


空欄にあてはまる語句は分かりましたか?
 1…鳥羽(鳥羽法皇の死去→保元の乱の勃発、この順序を押さえておけば答えられますね)
 2…保元の乱
 3…愚管抄(ぐかんしょう、鎌倉文化で紹介する歴史書)

この史料のなかで重要なのは、「ムサノ世」という言葉です。
中央政界における争いを、武士の力で解決した保元の乱は、
貴族の無力さと武士の実力を世に広め、武士が政界に進出するきっかけを与えました。
つまり日本は、保元の乱によって武士が政権をとる「武者の世」となったのです。

*   *   *

余談ではありますが、最後に崇徳上皇の讃岐国での様子を見ておきましょう…

ところで、讃岐国ってどこか分かりますか?
讃岐と言えば…
そう!うどんで有名ですよね!!さぬきうどん!!!
「それでも分からん!」という人は、飛鳥時代(11)を復習してください。

讃岐国に流罪となった崇徳上皇は、仏教を深く信仰するようになり、
たくさんの写経(しゃきょう、お経を書写すること)をおこないます。
そして、保元の乱で亡くなった人々の供養(くよう)と、自身の反省の証にしてほしい…と、
それらをまとめて朝廷に送ります。

ところが!
ところがですよ!!

後白河天皇は、「これ、呪い(のろい)が込められてるんちゃうの!」とキモがり、
ぜんぶまとめて崇徳上皇のもとに送り返すよう命じるのです!!!

ちょ!
後白河!!

あかん!
それは絶対にあかん!!

でもホントに送り返しちゃったんですよねー…

もちろん崇徳上皇は怒り狂います。
その怒りはすさまじく、舌を噛み切り、その血でもって
「大魔王になって、天皇を没落させ、民をこの国の王にしてやる」
というような内容を、送り返されてきたお経に書いたほどだったとか。

その後、崇徳上皇は讃岐国で生涯を閉じるのですが、
亡くなるまで髪の毛や爪を伸ばし続けて天狗になった、とか、
崇徳上皇の遺体をいれた棺(ひつぎ)から血があふれ出した、とか、
なんとも怖いウワサが残っています。
やがて崇徳上皇は、怨霊(おんりょう)として人々からおそれられるようになるのです。

崇徳上皇の魂が京都に戻るのは、明治時代の直前のことです。
明治天皇が即位する際、京都に神社を建てて崇徳上皇を祀(まつ)ったのです。
平安時代末期に天皇が武士に政権を奪われたのは、崇徳上皇の呪いによるものだ、
という考えが幕末期まで続いていたのでしょう…
大政奉還によって政権が天皇(朝廷)に返上されたタイミングで、
崇徳上皇はようやく京都に帰ることができたのです。

なお、崇徳上皇は讃岐国で2人の子どもに恵まれた、
というほっこりエピソードも残っています。
幸せな面もあったんだね…ホントに良かった……(涙)

長くなりました。
最後にゴロ合わせを載せておきましょう。

1156年.jpg

キレていい、キレていいよね、崇徳上皇…

すみっこにいるマッスルキャラについては、平安時代(16)をご覧ください。



次回は、平治の乱(へいじのらん)をゴロ合わせとともにお届けします。
更新が滞っていること、なにとぞご了承ください…

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村
nice!(10)  コメント(8) 
共通テーマ:学問

1086年 院政を開始する [年号のゴロ合わせ]

前回は、延久の荘園整理令(えんきゅうのしょうえんせいりれい)を取り上げました。
これを発令した後三条天皇(ごさんじょうてんのう)にかわって即位したのは、
息子の白河天皇(しらかわてんのう)です。

白河天皇は、お父さんにならって親政(しんせい)をおこないますが、
1086年、息子の堀河天皇(ほりかわてんのう)に位を譲り、
上皇(じょうこう)として院政(いんせい)を開始します。

白河上皇(しらかわじょうこう)は、なぜ院政を始めることにしたのでしょうか。



白河天皇は即位するとき、まだ子どもがいなかったため、
弟の実仁親王(さねひとしんのう)が皇太弟(こうたいてい)に立てられます。
実仁親王、このときわずか2歳です。
そんな幼い実仁親王を皇太弟に立てることを強く望んだのは、
2人のお父さんである後三条上皇(ごさんじょうじょうこう)です。

前回述べた通り、後三条上皇は、
藤原北家(ふじわらほっけ)、すなわち摂関家(せっかんけ)を外戚としない天皇でした。
ゆえに、摂関家に遠慮することなく、
延久の荘園整理令などの改革を強力に押し進めることができたのです。

しかし、白河天皇のお母さんは、藤原北家の出身です。
(藤原能信(ふじわらのよしのぶ)の養女である藤原茂子(ふじわらのもし、または、ふじわらのしげこ))

一方、実仁親王のお母さんは、藤原北家の出身ではありません。
(源基平(みなもとのもとひら)の娘である源基子(みなもとのきし、または、みなもとのもとこ))

後三条上皇は、摂関家と外戚関係にある白河天皇よりも、
自分と同じように、摂関家と外戚関係にない実仁親王の即位を願ったのです。

この願いは相当強かったようで、1073年に後三条上皇がこの世を去る際、
もし実仁親王にナニかがあった場合は、弟の輔仁親王(すけひとしんのう)を皇太弟にするように、
という遺言(ゆいごん)を残したほどです。

1086-1.jpg

その後、後三条上皇の心配は的中し、
1085年、実仁親王は15歳の若さでこの世を去ってしまいます…
ということで、後三条上皇の遺言どおり、輔仁親王が皇太弟になる…

のかと思いきや!!!

なんと翌1086年、白河天皇は息子を皇太子(こうたいし)に立て、
なんとなんと、その日のうちに息子に天皇の位を譲ってしまったのです!!
後三条上皇の遺言、ガン無視です!!!

こうして誕生したのが、堀河天皇なのです。

このとき堀河天皇はまだ8歳ということで、
お父さんである白河上皇が補佐にあたります。

そう、これが院政のはじまりです。

つまり院政とは、白河天皇が、弟ではなく、
自分の息子に天皇の位を譲りたかったがために始まった政治体制なのです。

しかし、ここで1つ疑問がわきませんか?
天皇が幼少のときは、摂政が補佐するんじゃないの??って。

ハイ、その通りです。
堀河天皇の即位に際して、ちゃんと摂政が置かれていて、
白河上皇はその摂政と協調関係を築きながら政務を執ったようです。

しかし、堀河天皇の成人後、22歳のワカゾーが関白に就任したこと、
さらに、堀河天皇の死後、その息子である鳥羽天皇(とばてんのう)が5歳で即位したことで、
白河法皇(しらかわほうおう、上皇が出家すると法皇になります)に権力が集中するようになり、
院政はどんどん強力な政治体制となっていったのです。

結果、白河上皇は、息子の堀河天皇、孫の鳥羽天皇、
そしてひ孫の崇徳天皇(すとくてんのう)の3代にわたって院政を敷くことになるのです。

1086-2.jpg

ちなみに上皇とは、譲位した天皇を指すんでしたね。
正式名称は太上天皇(だいじょうてんのう、または、だじょうてんのう)で、
平安時代中期ごろから上皇と省略して呼ばれるようになったようです。
また、上皇の住居を院(いん)と呼んだのですが、
それがいつの間にやら上皇自身を指す言葉にもなったようです。

というわけで、
上皇(院)による政治を院政と呼び、
その役所を院庁(いんのちょう)、院庁の職員を院司(いんし)と呼び、
院庁から下される命令文を院庁下文(いんのちょうくだしぶみ)、
上皇の命令を受けて院司が下す命令文を院宣(いんぜん)と呼びます。

とにかく、なんでもかんでも「院」がつくので覚えやすいです(笑)

*   *   *

では最後に、白河上皇による院政を史料で見ておきましょう。

禅定法王(ぜんじょうほうおう、〔1   〕のこと)は、〔2   〕院崩後(ほうご、亡くなった後ということ)、天下の政をとること五十七年、在位十四年、位を避るの後四十三年。意に任せ、法に拘(こだわ)らず、除目(じもく)・叙位(じょい、いずれも官位の人事のこと)を行ひ給ふ。古来未(いま)だあらず。(中略)威(い)四海に満ち天下帰服(きふく)す、幼主三代(堀河・鳥羽・崇徳天皇の3代のこと)の政をとり、斎王(さいおう、伊勢神宮などに奉仕する皇女のこと)六人の親となる。桓武以来、絶えて例なし。聖明の君、長久の主と謂(い)ふべきなり。但し理非決断(りひけつだん、裁判をしっかりとおこなうこと)、賞罰分明(しようばつぶんめい、賞と罰をはっきりとおこなうこと)、愛悪掲焉(あいおけちえん、いつくしみと憎しみとが著しいこと)にして、貧富は顕然なり。男女の殊寵(しゅちょう、男女の近臣を優遇すること)多きにより、已(すで)に天下の品秩(ほんちつ)破るゝなり。
(出典:藤原宗忠(ふじわらのむねただ)『中右記(ちゅうゆうき)』)


空欄にあてはまる語句は分かりましたか?

 1…白河上皇
 2…後三条

大学入試で頻出する史料ではありません。
空欄にあてはまる語句と、これが白河上皇の院政について言及した史料であることさえ分かっておれば、
まぁ大丈夫!といったところです。

それでは、今日のゴロ合わせ☆

1086年.jpg



次回は、保元の乱(ほうげんのらん)を見ていきます。

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村
nice!(11)  コメント(8) 
共通テーマ:学問

1069年 延久の荘園整理令を出す [年号のゴロ合わせ]

私事ですが、先日第2子を出産しました。
ただでさえのろのろ更新のブログですが、さらに更新が滞るかもしれません…
申し訳ありませんが、何卒ご了承くださいませ。

*   *   *

今日は、1069年に後三条天皇(ごさんじょうてんのう)が発令した、
延久の荘園整理令(えんきゅうのしょうえんせいりれい)を、ゴロ合わせとともに紹介します。

まずは、後三条天皇の外戚(がいせき)が誰なのか、系図で確認してみましょう。

1069-1.jpg

外戚とは、お母さん側のおじいちゃんのことでしたよね。
後三条天皇のお母さんは禎子内親王(ていしないしんのう)で、
彼女のお父さんは三条天皇ですので、
後三条天皇の外戚は三条天皇となります。

そうなんです!
後三条天皇の外戚は、藤原北家(ふじわらほっけ)ではないのです!!
摂関家(せっかんけ)と外戚関係にないのです!!!

といっても、禎子内親王のお母さんは、
藤原道長(ふじわらのみちなが)の娘である藤原妍子(ふじわらのけんし、または、ふじわらのきよこ)です。
後三条天皇は、摂関家と血のつながりがあるのです。
しかし、外戚関係ではありませんし、
なにより禎子内親王は、藤原北家とあまり仲がよろしくなかったようです。

摂関家を外戚としない天皇の即位は、
宇多天皇以来、なんと約170年ぶりのことです。
後三条天皇は、一体どのような経緯で即位することになったのでしょうか。

*   *   *

後三条天皇の前の天皇は、後冷泉天皇(ごれいぜいてんのう)です。
後冷泉天皇が即位するとき、まだ子どもがいなかったので、
弟である尊仁親王(たかひとしんのう)が皇太弟(こうたいてい)と定められます。

その後、藤原道長の息子である藤原頼通(ふじわらのよりみち)は、
一人娘の藤原寛子(ふじわらのかんし、または、ふじわらのひろこ)を後冷泉天皇と結婚させます。

2人の間に子どもが生まれれば、すぐさま尊仁親王を皇太弟の座から引きずりおろし、
その子ども(藤原頼通にとっては孫)を皇太子、そしてゆくゆくは天皇とし、
自らは天皇の外戚として絶大な権力を手に入れる…という計画のための政略結婚です。
そして、この計画が実現するものだと信じて疑わない藤原頼通は、
邪魔でしかない皇太弟を冷遇します。

ところが…

後冷泉天皇は、藤原寛子との間に子どもをもうけることなくこの世を去ってしまうのです。
父である藤原道長のように、藤原頼通は天皇と外戚関係を築くことができなかったのです。

結果、皇太弟の尊仁親王が即位します。
そう、藤原頼通に冷遇されてきた彼こそが、後三条天皇なのです!

こうして摂関家を外戚としない後三条天皇が誕生し、
彼は摂関家に遠慮することなく(冷遇されてきたんだしね!)、さまざまな改革に乗り出すのです。

藤原北家の栄華は、ここに終わりをつげることになるのです。



後三条天皇は、さっそく大江匡房(おおえのまさふさ)などの学者を登用し、
親政(しんせい)を開始します。
そして1069年、延久元年(えんきゅうがんねん)に、荘園整理令を発令するのです。
これを、延久の荘園整理令と呼びます。

まずは、史料で見てみましょう。

コノ〔1   〕位(くらい)ノ御時(おんとき)、(中略)〔2   〕ノ〔3   〕(〔4   〕のこと)トテハジメテヲカレタリケルハ、諸国七道ノ所領ノ宣旨(せんじ、官の命令を伝える文書のこと)・官符(かんぷ、太政官からくだす文書のこと)モナクテ公田(くでん)ヲカスムル(横領すること)事、一天四海(全世界のこと)ノ巨害(こがい)ナリトキコシメシツメテアリケルハ、スナハチ宇治殿(うじどの、〔5   〕のこと)ノ時、一ノ所(いちのところ、摂関家のこと)ノ御領(ごりょう、摂関家領のこと)御領トノミ云(いい)テ、庄園諸国ニミチテ〔6   〕ノツトメタヘガタシナド云(いう)ヲ、キコシメシモチタリケル(聞き入れ、用いられたということ)ニコソ。(以下略)
(出典:慈円(じえん)『愚管抄(ぐかんしょう)』)


空欄にあてはまる語句は分かりましたか?

 1…後三条
 2…延久
 3…記録所(きろくしょ)
 4…記録荘園券契所(きろくしょうえんけんけいじょ)
 5…藤原頼通(宇治に平等院鳳凰堂(びょうどういんほうおうどう)を建てたため、宇治殿と呼ばれる)
 6…受領(ずりょう)

大学入試では、この空欄にあてはまる語句を問うパターンと、
「宇治殿」から藤原頼通について問うパターンが非常に多いです。
しっかりと押さえておきましょう!

この史料を簡単に訳すと、

後三条天皇の時代、はじめて延久の記録所が設置されたのは、
全国の荘園が、宣旨や官符で認められたわけでもないのに公田を横領しているのは大いなる害であること、
また、藤原頼通の時に、「摂関家領だ!摂関家領だ!!」と言って諸国に荘園があふれ、
受領の任務が果たせないなどという不満の声があがっていることを、
後三条天皇が聞き入れられたからであろう。

となります。

つまり後三条天皇は、荘園の増加が公領(こうりょう、国衙領(こくがりょう)のこと)を圧迫していると考え、
延久の荘園整理令を発令したのです。

902年に発令された延喜の荘園整理令(えんぎのしょうえんせいりれい)をはじめ、
これまでも何度か荘園整理令は出されています。
しかし、いずれも券契(けんけい)と呼ばれる荘園の証拠書類の審査を国司に任せていたため、
不徹底に終わっています。

そこで後三条天皇は、中央にある太政官(だじょうかん、または、だいじょうかん)に
記録荘園券契所(記録所)を設置し、
ここで、荘園の所有者が提出する券契と国司の報告とをあわせて厳密に審査し、
年代の新しいもの(1045年以降につくられた新しい荘園、なぜ1045年なのかは平安時代(10)のプリント参照)や、
書類不備のものなど、
基準にあわない荘園を停止したのです。

1069-2.jpg

しかも、摂関家や大寺社の荘園も例外とせず、
たとえば京都にある石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)という大きな神社の荘園は、
34か所のうち13か所の権利が停止されたと伝わっています。

延久の荘園整理令はかなりの成果をあげ、
これにより、
・ 貴族や寺社の支配する荘園
・ 国司の支配する公領(国衙領)
両者の区別が明確になります。

そして、荘園公領制(しょうえんこうりょうせい)が成立することになるのですが、
これはまたのちのち、まとめプリントでお話ししたいと思います。

*   *   *

後三条天皇は、このほか1072年に宣旨枡(せんじます)を制定し、
枡の大きさを統一しています。
これは、太閤検地(たいこうけんち)で京枡(きょうます)という新たなものがつくられるまで、
公定の枡として使用されることになります。

といっても、荘園ではいろんな枡が使われていたようですが…

それでは、今日のゴロ合わせ☆

1069年.jpg

永久(えいきゅう)に…というゴロ合わせですが、
延久(えんきゅう)の荘園整理令ですのでね!
間違えて覚えないでくださいね!!



次回は、院政のゴロ合わせを見ていきます。

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村
nice!(14)  コメント(0) 
共通テーマ:学問

平安時代(13) [まとめプリント]

武士のおこりの2回目は、平安時代に地方で起きた反乱を取り上げます。

前回、武家の棟梁(ぶけのとうりょう)として、
桓武平氏(かんむへいし)と清和源氏(せいわげんじ)が登場しました。
まずは、彼らが一体ナニモノなのか…というところからお話ししましょう。

*   *   *

平安時代、皇位継承が確実におこなわれるよう、
子どもをたくさんもうける天皇が少なくありませんでした。
桓武天皇(かんむてんのう)は30人ほど、
嵯峨天皇(さがてんのう)なんて50人ほど子どもがいたようです。

天皇の子どもは、もちろん天皇の一族、
すなわち皇族(こうぞく)です。

皇族であるその子どもたちが、それぞれ子どもをもうけるとなると…
そう、皇族はどんどん増えてゆくのです。

律令には、皇族に一定の給料を与えることなどが定められているので、
皇族が増えすぎると、国家財政を圧迫することにつながってしまいます。
そこで、皇位継承の可能性がなくなった皇族に、
源(みなもと)や平(たいら)などの姓を与えて皇族でなくなってもらう、
ということがおこなわれるようになります(皇族は姓をもちません)。

天皇から姓を賜(たまわ)って、臣下(しんか)の籍(せき)に降りることから、
これを臣籍降下(しんせきこうか)といいます。
皇族でなくなった方が自由に出世できる、というメリットもあったようですが、
実際のところ、その子孫は没落し、地方で武士や豪族になる、というケースが多かったようです。

平安13-1.jpg
(描ききれないのでかなり省略しました。ホントは子どもや兄弟、奥さんナドナドがもっとたくさんいます!)

では、具体的な例を見てみましょう。

889年、桓武天皇のひ孫(孫という説もアリ)である高望王(たかもちおう)は、
平の姓を賜って、平高望(たいらのたかもち)となります( ↑ 上のイラスト参照)。
平高望は、やがて上総(かずさ)の国司に任命され、子どもたちを連れて任国へ赴きます。
そして、国司の任期を過ぎても平安京へは戻らず、
関東地方の開墾を進めて勢力を拡大し、武士団(ぶしだん)を形成するようになるのです。
この平高望の子孫を、桓武平氏と呼びます。

また、清和天皇(せいわてんのう)の孫にあたる人物が、
源の姓を賜って(いつ臣籍降下をしたのか不明)、源経基(みなもとのつねもと)となります。
この源経基の子孫を、清和源氏と呼びます。

前回も述べた通り、彼らは天皇の血をひいているということからカリスマ性を高め、
やがて大武士団(だいぶしだん)を率いる武家の棟梁となってゆくのです。



9世紀末、朝廷は滝口の武者(たきぐちのむしゃ)、または、滝口の武士(たきぐちのぶし)を設置し、
武芸を得意とする者に、宮中の警備を任せるようになります。

さらに地方武士たちは、日本各地で起こるさまざまな反乱を鎮圧することで、
自分たちの実力を、中央の人々に認めさせてゆくのです。

平安13.jpg

では、地方で起こる反乱を、桓武平氏・清和源氏に整理しながら見ていきましょう。
旧国名が分からない人は、飛鳥時代(11)のプリントを参考にしてくださいね。

*   *   *

最初は、関東地方で起こる平将門の乱(たいらのまさかどのらん)です。

平将門(たいらのまさかど)は、父である平良将(たいらのよしまさ)の死後、
おじさんにあたる平国香(たいらのくにか)と対立し、これに勝利します。
その後、下総(しもうさ)を根拠地にして一族らと争いを繰り返すうち、
939年には常陸(ひたち)・下野(しもつけ)・上野(こうずけ)の国府(こくふ)を攻略し、
自ら新皇(しんのう)と名乗るようになります。
東国一帯(東国とは、おもに関東地方を指します)を占領するにいたった新皇・平将門ですが、
940年、平国香の息子である平貞盛(たいらのさだもり)と、
下野国の押領使(おうりょうし)である藤原秀郷(ふじわらのひでさと)らによって討たれます。
● 平将門の乱(939年~) … 〔負〕平将門 × 〔勝〕平貞盛・藤原秀郷

これとほぼ同じタイミングで起こるのが、藤原純友の乱(ふじわらのすみとものらん)です。
939年、瀬戸内地方で発生します。

藤原純友(ふじわらのすみとも)は、伊予(いよ)の国司として、
瀬戸内海で暴れまわる海賊たちの討伐にあたっていました。
しかし、国司の任期を過ぎても都には戻らず、逆に海賊たちのリーダーとなり、
日振島(ひぶりしま)を根拠地にして、朝廷と対立するようになります。
伊予の国府を攻略し、さらには大宰府(だざいふ)をも占領する藤原純友ですが、
清和源氏の祖である源経基と、
追捕使(ついぶし)である小野好古(おののよしふる)らに敗北し、反乱は鎮圧されます。
● 藤原純友の乱(939年~) … 〔負〕藤原純友 × 〔勝〕源経基・小野好古

ほぼ同時期に関東地方と瀬戸内地方で起こった平将門の乱と藤原純友の乱。
両者をまとめて、承平・天慶の乱(じょうへい・てんぎょうのらん)といいます。

これらを鎮圧したのは、朝廷の軍隊ではなく、押領使や追捕使に任命された地方武士たちです。
つまり、承平・天慶の乱は、朝廷の軍事力の低下と、地方武士の実力を世に知らしめたのです。
このあと、地方武士の組織はいっそう強化されることとなります。

*   *   *

969年、朝廷では藤原北家(ふじわらほっけ)による最後の他氏排斥事件が起こります。
地方で起こる反乱ではありませんが、武士がからんでいるので、ちょっとここでお話ししておきます。

ではその事件、なんという名称だったか覚えていますか?
左大臣の源高明(みなもとのたかあきら)が左遷された、安和の変(あんなのへん)です。

源高明がなぜ左遷されることになったのかというと、
娘の旦那さんである為平親王(ためひらしんのう)を即位させようとしているのではないか…
というような内容が、朝廷に密告されたからでしたね。
その密告をしたのは、源経基の息子である源満仲(みなもとのみつなか)です。
源満仲は、同じ源氏である源高明をチクることで藤原氏に接近し、
源氏の勢力を伸ばすことに成功したのです。

ちなみに源満仲は、
摂津(せっつ)にある多田荘(ただのしょう、現在の兵庫県川西市周辺)という荘園に土着した、
武家の棟梁です。
荘園(名(みょう))の名前から、多田(ただ)という名字を名乗ったため、
多田満仲(ただみつなか、または、ただまんじゅう…まんじゅうって!)とも呼び、
彼の子孫を多田源氏(ただげんじ、長男の源頼光(みなもとのよりみつ)が武家の棟梁を継承)と呼びます。

姓と名前の間は「の」を入れて読み(源満仲の読み方は、みなもとのみつなか)、
名字と名前の間は「の」を入れて読みません(多田満仲の読み方は、ただみつなか)。
気をつけてくださいね!
姓と名字の違いについては、飛鳥時代(5)を参考にしてください。

*   *   *

1028年、房総半島で平忠常の乱(たいらのただつねのらん)が起こります。

平将門の乱から100年が経とうとしているこのころの関東地方では、
平貞盛の子孫をはじめ、平氏が大きな力をふるっています。
平忠常(たいらのただつね)は、平高望のひ孫にあたる人物で、
房総半島に広大な所領をもっていたようです。

1028年、平忠常は安房(あわ)の国司を焼き殺すという事件を起こします。
原因は不明なのですが、これまで平忠常は国司の命令に従わず、納税も拒否していたというので、
そういったモメゴトが高じて起きたことなのでしょう…

平忠常の勢いはとまらず、ついには房総半島を占領するに至ります。
朝廷はこれを討伐すべく軍隊を派遣するのですが、
鎮圧できないまま3年もの月日が流れてしまいます…

そこで、源満仲の息子である源頼信(みなもとのよりのぶ)に、
平忠常の乱を鎮圧するよう命令がくだります。
すると1031年、平忠常は源頼信にすんなり降伏するのです。

えっ…なんで…??って感じですよね。

どうやら平忠常は、昔、源頼信と主従関係にあったようなのです。

長期間にわたる戦闘で疲れ果てていた平忠常は、
かつての主君である源頼信が自分を討伐しに来たことを知り、
一度も戦うことなく屈服し、都に移送される途中で病死してしまうのです。

なんともあっけない終わり方をする平忠常の乱ですが、
これによって東国における平氏の力は衰退し、かわって源氏が東国に進出することになるのです。
● 平忠常の乱(1028年~) … 〔負〕平忠常 × 〔勝〕源頼信

ちなみに、源頼信は河内国を本拠地としたことから、彼の子孫を河内源氏(かわちげんじ)と呼びます。

*   *   *

1051年、前九年合戦(ぜんくねんかっせん)、または、前九年の役(ぜんくねんのえき)が、
東北地方で起こります。

この年、陸奥(むつ)の豪族である安倍頼時(あべのよりとき)が国司と対立し、
かわって、源頼信の息子である源頼義(みなもとのよりよし)が、国司(陸奥守(むつのかみ))に任命されます。
両者はしばらく良好な関係にあったのですが、あるとき激突し、
源頼義は、息子の源義家(みなもとのよしいえ)とともに、安倍氏と戦うこととなります。
ところがねー、安倍氏めっちゃ強いんですよー…
そこで源頼義は、出羽(でわ)の豪族である清原氏(きよはらし)に協力をあおぎ、
ようやく1062年、安倍氏を滅ぼすことに成功します。
このとき源頼義は、東国の武士を率いて戦ったため、源氏が東国における勢力を確立することになるのです。
● 前九年合戦(1051年~) … 〔負〕安倍氏 × 〔勝〕源頼義・源義家 + 清原氏

*   *   *

1083年、後三年合戦(ごさんねんかっせん)、または、後三年の役(ごさんねんのえき)が、
東北地方で起こります。

安倍氏の滅亡後、陸奥・出羽の両国で大きな勢力を得るようになった清原氏の内部で、
相続争いが発生します。
父親である源頼義にかわって陸奥守に就任していた源義家は、これに介入し、
清原清衡(きよはらのきよひら)を助けて内紛を平定します。
このとき源義家は、東国の武士団との主従関係を強め、
武家の棟梁としての地位を固めることになるのです。
● 後三年合戦(1083年~) … 〔負〕清原氏 × 〔勝〕清原清衡(藤原清衡)・源義家

ちなみにこのあと、清原清衡は実の父親の姓である藤原を名乗って藤原清衡(ふじわらのきよひら)となり、
奥州藤原氏(おうしゅうふじわらし)の初代として、東北地方を支配してゆくことになります。

*   *   *

以上の流れ、つかめましたか?
最後に、解答を載せておきましょう。

平安13解答.jpg



プリントには、源義朝(みなもとのよしとも)や平清盛(たいらのきよもり)といった名前が登場しましたね…
いよいよ源平の時代です!

が!
まとめプリントはしばらくお休みして、次回から久々にゴロ合わせを見ていきます。

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村
nice!(10)  コメント(2) 
共通テーマ:学問

平安時代(12) [まとめプリント]

今日から2回にわたって、武士(ぶし)を取り上げます。

武士というと、チョンマゲでカタナを持っている姿を思い浮かべませんか?
それはズバリ、江戸時代の武士です。
時代劇の舞台はほとんどが江戸時代なので、
どうしてもそのイメージが強くなってしまいますよね。
(え?時代劇、観ないですか…??)

今から見ていくのは、武士のおこりです。
まだまだ江戸時代の武士みたいなスタイルではありません。
では、はじまりのころの武士とは、一体どんな様子だったのでしょうか。
一緒に見ていきましょう!

平安12.jpg

まずはプリントの左側、①地方政治の変質と武士 です。

前々回前回と、2回にわたって地方政治の変質を取り上げました。
このことは、武士のおこりと密接な関係があるので、簡単におさらいしておきましょう。

 浮浪・逃亡・偽籍などの横行により戸籍・計帳制度が崩壊
    ↓
 政府、財政難に陥る
    ↓
 10世紀、政府は国司に税の徴収を請け負わせ、その見返りとして任国の統治を国司に一任
    ↓
 国司はオイシイ職業となる
    ↓
 成功・重任、さらには遙任が繰り返され、ガメツイ受領まで出現

ザッとまぁこんな感じです。
この流れ、きちんと理解できていますか?

要するに、このころ地方の政治は乱れているのです。
かといって、地方の人々も、黙ってそれに耐えるばかりではありません。

国司のやりたいホーダイに抵抗するため、
自分の土地を維持し、広げるため、
治安を守るため、

地方に暮らす豪族や有力農民たちは、それぞれ武装するようになるのです。
これが、武士のおこりの1つのパターンです。

結果、各地で争いが発生します。

それを鎮圧するのが、押領使(おうりょうし)や追捕使(ついぶし)です。
盗賊を追いかけて逮捕したり、内乱を鎮圧することを任務とする令外官(りょうげのかん)で、
はじめは臨時で置かれたのですが、承平・天慶の乱(じょうへい・てんぎょうのらん)以降、常置となります。
令外官については、平安時代(1)のプリントにまとめてありますので、参考にしてください。

押領使や追捕使に任命されるのは、武芸を身につけた中級貴族や下級貴族たちです。
(地方の有力者が任命されることも多々あります)
その多くは、源や平などの姓を賜って臣籍降下(しんせきこうか)をした賜姓貴族(しせいきぞく)です。

彼らのなかには、地方の争いを鎮圧したあと、そのまま現地にとどまり、
地元の武装有力農民などを配下に入れ、土地を開発し、所領を確保する者もいたようです。
これも、武士のおこりの1つのパターンです。

つまり、
地方豪族や有力農民が武装するパターン、
押領使や追捕使に任命された中級・下級貴族が土着するパターンなど、
さまざまな形で武士は誕生したのです。

ちなみに、武士とはもともと、武芸をもって朝廷に仕える武官(ぶかん)を意味する言葉です。
今回取り上げているような武士のことを、はじめは兵(つわもの)と呼んで区別していたようです。

*   *   *

やがて朝廷や貴族たちは、武士(兵のことですよ!)の活躍を耳にするようになり、
彼らを様々な場面で奉仕させるようになります。

中央の貴族のなかには、自身の警護にあたらせる侍(さむらい)として、武士を雇う者が現れます。
また地方では、武士たちを国侍(くにざむらい)として組織し、国衙(こくが)の軍事力としたり、
受領が、館侍(たちざむらい)という直属の武士として、彼らを組織するようになるのです。

なお、侍は、目上の人にお仕えする、という意味の動詞である「さぶらふ」が語源で、
もともとは主君の側近に仕える人全般を指したのですが、
やがて武士を意味する言葉として定着していったようです。

そして9世紀末、朝廷も武士を宮中の警備員として採用することとします。
滝口の武者(たきぐちのむしゃ)、または、滝口の武士(たきぐちのぶし)の設置です。

滝口とは、清涼殿(せいりょうでん、天皇の日常の住まいのこと)の北東にある場所の名称です。
彼らはここを詰め所にして警備にあたったため、滝口の武者と呼ばれるようになったのです。

ちなみに、1855年に再建された現在の京都御所(きょうとごしょ)でも、
滝口の場所を確認することができるんですよ!

P1010145.jpg

センスのない写真ですいません…分かりにくいですよね…
場所は、下の図の赤丸をつけた部分です。

kyoutogosyo_heimenzu.jpg
(財団法人菊葉文化協会発行『ポケットガイド1 京都御所』より作成)

現在、京都御所は、通年公開をおこなっています(特定の日は除く)。
平安京の内裏が再現された空間ですので、機会があればゼヒ一度訪れてみてください。
詳しくは、宮内庁参観案内をご覧下さい。

*   *   *

武士たちは、血縁関係などで結びつき、連合体を形成してゆきます。
これを、武士団(ぶしだん)といいます。
血のつながりのある親戚を中心に結成された戦闘集団、というところですね。
武士団の構造については、プリントの右側にまとめたのでのちほど。

やがて武士団は、カリスマ性のある人物のもとに集まるようになります。
これを、とくに大武士団(だいぶしだん)と呼んだりします。

では、大武士団のリーダーである、カリスマ性のある人物とは誰かというと、
桓武天皇の血をひく桓武平氏(かんむへいし)や
清和天皇の血をひく清和源氏(せいわげんじ)です。

なんてったって、天皇の血をひいてるんですよ?
めっちゃかっこいいじゃないですか!
カリスマ性むんむんじゃないですか!!

平安12-1.jpg

このような、大武士団の頂点に立つ人物を、武家の棟梁(ぶけのとうりょう)と呼びます。
また、武家の棟梁をはじめ、軍事をメインとする貴族は、
のちのち学者さんたちによって、軍事貴族(ぐんじきぞく)と呼ばれることになります。



次に、プリントの右側、②武士団の構造 を見ていきましょう。

・惣領(そうりょう)
 武士団の頂点に立つ人物
 一族のリーダーのことで、主人や首長などと表記されることもあります
   |
・家子(いえのこ)・家の子(いえのこ)
 原則、惣領と血のつながりのある家臣
 惣領のおじいちゃん・おばあちゃん、お父さん・お母さん、おじさん・おばさん、
 兄弟・子ども・孫などなど、いわば親戚を指します
   |
・郎党(ろうとう)・郎等(ろうとう)・郎従(ろうじゅう)
 惣領と血のつながりのない家臣
 田堵(たと)とか名主(みょうしゅ)などの出身者で、主従関係を結んで戦闘に参加します
   |
・下人(げにん)・所従(しょじゅう)
 武士身分ではない家臣
 馬に乗ることはできません

1人の惣領を頂点に、家臣たちが組織されているのが分かりますね。

*   *   *

では、③大武士団の構造 を見てみましょう。

②で見た武士団が、1人の惣領のもとに結集している様子が見てとれますね。
このような武士団の集まりを大武士団といい、
大武士団のリーダーを武家の棟梁と呼ぶわけです。

最後に、プリントに載せた「粉河寺縁起絵巻」(こかわでらえんぎえまき)の一部分を見てください。
真ん中には馬に乗った男性が、そしてそのまわりには3人の男性が描かれているのが分かりますね。
馬に乗れるのは、惣領・家子・郎党なので、真ん中に描かれている男性はそのいずれかだと考えられます。
そして、まわりにいる3人の男性は、馬には乗っていませんよね。
つまり、下人・所従クラスだと考えられます。

では、最後に解答を載せておきましょう。

平安12解答.jpg



次回は、地方で起こる様々な反乱を、
桓武平氏・清和源氏に分けてまとめてゆきます。

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村

画像出典
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B2%89%E6%B2%B3%E5%AF%BA%E7%B8%81%E8%B5%B7%E7%B5%B5%E5%B7%BB
nice!(9)  コメント(13) 
共通テーマ:学問

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。