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鎌倉時代(2) [まとめプリント]

前回の更新からずいぶんご無沙汰してしまいました、すみません。
今日は、鎌倉幕府(かまくらばくふ)の中身をまとめていきましょう!

鎌倉2.jpg

(1)支配機構
最初の武家政権である鎌倉幕府は、簡素で実務的な組織をつくりあげます。

①中央(もちろん鎌倉のことです)

・将軍(しょうぐん)、正式名称は征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)
…鎌倉幕府の頂点
 鎌倉殿(かまくらどの、鎌倉幕府そのものを鎌倉殿と呼ぶこともアリ)とも呼ばれるが、
 その場合は、とくに初代将軍の源頼朝(みなもとのよりとも)を指すことが多い
 源頼朝のあとは息子の源頼家(みなもとのよりいえ)・源実朝(みなもとのさねとも)が継ぎ、
 この3代をまとめて源氏将軍(げんじしょうぐん)と呼ぶ
 源氏将軍が3代で絶えたあとは、摂関家や皇族から将軍を迎える

・執権(しっけん)
…将軍の補佐役
 源頼朝亡き後は、鎌倉幕府の主導権を握る存在となる
 初代執権は北条時政(ほうじょうときまさ)、北条氏が世襲

・連署(れんしょ)
…執権の補佐役
 執権と名で公文書に名する存在
 初代連署は北条時房(ほうじょうときふさ)、北条氏が世襲

・評定衆(ひょうじょうしゅう)
…重要政務や裁判の評議・裁定を合議するためのメンバー
 はじめ、北条氏のほか有力御家人(ごけにん)や文筆官僚など計11名を任命
 やがて北条氏が過半数を占めるようになる

・評定(ひょうじょう)
…鎌倉幕府における最高決裁会議
 執権1名・連署1名・評定衆11~15名(変動アリ)で構成される

・侍所(さむらいどころ)
…御家人の統率・軍事・警察をになう機関
 初代別当(べっとう、長官のこと)は、和田義盛(わだよしもり)
 のち、執権が侍所別当を兼任するようになる

・公文所(くもんじょ)、のち政所(まんどころ)と改称
…一般政務・財政事務をになう機関
 初代別当は、大江広元(おおえのひろもと)
 のち、執権が政所別当を兼任するようになる

・問注所(もんちゅうじょ)
…裁判事務をになう機関
 初代執事(しつじ、長官のこと)は、三善康信(みよしのやすのぶ)

・引付衆(ひきつけしゅう)
…評定衆の補佐役
 裁判の公正と迅速化をはかるために設置された訴訟審理機関

②地方

・京都守護(きょうとしゅご)
…京都の御家人の統率、京都内外の警備・裁判をになう
 1221年の承久の乱(じょうきゅうのらん)ののち六波羅探題(ろくはらたんだい)となり、
 朝廷の監視・西国の統轄もになうようになる
 初代六波羅探題は、北条時房・北条泰時(ほうじょうやすとき)

・長門探題(ながとたんだい)
…1274年の文永の役(ぶんえいのえき、元寇(げんこう)の1つ)を契機に設置
 長門国(ながとのくに)の防備に当たる長門警固番役(ながとけいごばんやく)を指揮
 
・鎮西奉行(ちんぜいぶぎょう)
…九州の御家人の統率、軍事・警察をになう
 元寇ののち鎮西探題(ちんぜいたんだい)となり、裁判もになうようになる
 ちなみに、鎮西(ちんぜい)は九州の別称

・奥州総奉行(おうしゅうそうぶぎょう)、または、奥州惣奉行
…奥州の御家人の統率、鎌倉幕府への訴訟取次をになう
 奥州藤原氏を滅ぼしたあとに設置(詳しくは鎌倉時代(1)をご覧ください)
 
・守護(しゅご)・地頭(じとう)
…次の(2)で詳しく解説します。

鎌倉幕府の支配機構は以上ですが、これに大きな影響を与えたのが、承久の乱と元寇です。
なので…
・承久の乱以前から設置されていたもの(前回色分けしたもの)
・承久の乱以降に設置されたもの
・元寇をきっかけに設置されたもの
をそれぞれ色分けしておくと分かりやすいですよ!

*   *   *

(2)守護と地頭
1185年、後白河法皇(ごしらかわほうおう)は、
源義経(みなもとのよしつね)追討の院宣(いんぜん)を出します。
源頼朝は、院宣にしたがって弟である源義経を探し出すことを名目に、
全国に守護と地頭を設置する権利を朝廷に認めさせることに成功したんでしたね!

①守護
…国内の治安維持や武士の統率にあたる地方役人
 はじめは惣追捕使(そうついぶし)とか国地頭(くにじとう)などとも呼ばれる
 幕府が任免権をもつ
◎ 設置
○ 国ごとに1人
 ただし、例外もアリ(大和国(やまとのくに)の守護を興福寺(こうふくじ)がつとめる、など)
 ちなみに、ここでいう国とは飛鳥時代(11)にある旧国名のこと
◎ 資格
○ おもに東国出身の有力御家人
◎ 任務
○ 大犯三カ条(だいぼんさんかじょう)
…1232年に制定される御成敗式目(ごせいばいしきもく)で成文化
・大番催促(おおばんさいそく)
…国内の御家人に京都大番役(きょうとおおばんやく)への勤仕を催促し、指揮にあたる
 京都大番役とは、内裏(だいり)や院御所(いんのごしょ)のガードマンをつとめる役割で、
 御家人のなかから招集され、一定期間(鎌倉時代初期は6ヶ月)それぞれの場所の警固にあたる
・謀叛人(むほんにん)の逮捕
…朝廷や鎌倉幕府に対し、逆らおうとする者を逮捕する
・殺害人(せつがいにん、または、さつがいにん)の逮捕
…人を殺した者を逮捕する
○ 在庁官人(ざいちょうかんじん)の指揮
…東国では、国衙(こくが)の行政事務を引き継いで、地方行政官としての役割も果たすこともアリ
○ 大田文(おおたぶみ)の作成
…大田文とは、国ごとに作成する土地台帳のこと
 国内にある荘園・公領の田畑の面積や領有関係などを記録したもので、課税の基準となる
○国内の武士の統率
…戦時には、国内の武士を率いて将軍のもとに駆けつける
◎ 収入
○ とくになし
…経済力のある有力御家人が任命されるため、守護としての給料はイラナイのです

② 地頭
…土地の管理や租税の徴収にあたる地方役人
 幕府が任免権をもつ
◎ 設置
○ 荘園・公領ごと
…はじめは平家没官領(へいけもっかんりょう)などの謀叛人の所領に限られる
 承久の乱ののち全国化
 ちなみに平家没官領とは、平氏の都落ちの際に朝廷が没収した500あまりの荘園のこと
◎資格
○ 御家人
…荘園で下司(げし)などの荘官であった者や、
 公領で郡司(ぐんじ)・郷司(ごうじ)・保司(ほし)といった地位にあった者
 (荘園と公領については、平安時代(14)を復習してください)
 女性もOK!
◎任務
○ 年貢の徴収・納入
○ 地域の治安維持
○ 新田開発や勧農(かんのう、農業を勧めること)
…やがて年貢納入をめぐって荘園領主などと争うようになる
◎収入
○ 一定の決まりはナシ、場所ごとの慣例による
…1185年、田畑1段(たん)につき5升(しょう)の兵粮米(ひょうろうまい)を徴収する権利が
 地頭に与えられるが、貴族たちの反発が強く、翌1186年に廃止



(3)主従関係
鎌倉幕府では、
将軍が御家人に土地を与え、その見返りに御家人は将軍のために頑張る、
御家人が将軍のために頑張ったら、将軍は御家人にご褒美として土地を与える、
といった主従関係が結ばれます。
このような、土地を仲立ちとして結ばれた主従関係にもとづく制度を、封建制度(ほうけんせいど)と呼びます。
鎌倉幕府は、封建制度にもとづいて成立した日本で最初の政権なのです。

①御恩(ごおん)
将軍が御家人に与えるご褒美のこと

・本領安堵(ほんりょうあんど)
…頑張った御家人がもともと所有していた土地(本領、ほんりょう)を、
 その御家人の土地であることを将軍が認め、保障(安堵、あんど)してあげること
 ちなみに、本領安堵の「堵」の漢字は注意です!
 右側のパーツをよく見てください、「者」ではありません、すきまに「、」がありますからね!!

・新恩給与(しんおんきゅうよ)
…頑張った御家人に、新たな御恩(新恩、しんおん)として土地を与える(給与、きゅうよ)こと

いずれも、将軍が御家人をその土地の地頭に任命する、という形で御恩を与えます。
ちなみに、地頭などの官職に任命することを補任(ぶにん)といいます。
鎌倉時代(3)でちょっと出てきますので、それまで頭の片隅に入れておいてくださいね☆

そのほか、御家人が将軍から朝廷の官職に推挙してもらう、という御恩もあります。

②奉公(ほうこう)
御家人が将軍のために頑張ること、御家人役(ごけにんやく)と総称される

◎戦時
・軍役(ぐんやく)
…緊急事態が起こると、全国の御家人たちは「いざ鎌倉!」と鎌倉に駆けつけ、
 将軍のために尽力する
 もちろん、いざというときのために、日頃から体を鍛えておくことも大切です!

◎平時
・京都大番役
…諸国の御家人が交代で担当する、内裏や院御所のガードマン
 国内の御家人のうち、誰に行かせるかを決定して指揮するのが、守護の役割(これが大番催促!)
・鎌倉番役(かまくらばんやく)
…東国御家人が交代で担当する、鎌倉幕府のガードマン
・長門警固番役・異国警固番役(いこくけいごばんやく)
…元寇をきっかけに編成された、長門国・九州北部のガードマン
・関東御公事(かんとうみくうじ、または、かんとうおんくうじ)
…御家人がになう経済的負担
 使い途は、鎌倉幕府の建物や鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)の修造費用など多岐にわたる

御恩と奉公で結ばれた将軍と御家人の関係をイラストにまとめると、こんな感じです!

鎌倉2-1.jpg

御恩と奉公って、たま~にどっちがどっちか分かんなくなりませんか…?
そんなときは、
エラい将軍からいただく「恩」なので、リスペクトして「御」をつける、
と覚えて下さい!

ところで、冒頭から「御家人」「御家人」と頻繁に出てきますけど、
そもそも御家人って何やねんって話ですよね。

鎌倉時代の御家人とは、将軍と主従関係で結ばれた者をさします。
つまり、将軍と“御恩と奉公”の関係にある家人(けにん)、ということなのですが、
ここでもエラい将軍をリスペクトして、「御」をつけて御家人と呼ぶワケです。

とくに、以仁王(もちひとおう)の令旨(りょうじ)によって源頼朝が挙兵したころから彼を支え、
鎌倉幕府の成立に尽力した東国出身の御家人(これを東国御家人と呼びます)たちは、
将軍の信頼もあつく、将軍との絆も強く、鎌倉幕府で重用されることになるのです。

一方、鎌倉と地理的にも気持ち的にも遠くにいる西国出身の御家人たちは、
守護を通じて御家人として名前を登録してもらい、
荘園制のもとでこれまでになってきた職権を幕府から保護してもらう、
という簡単な主従関係を結ぶ者が多かったようです。

*   *   *

(4)公武二元支配(こうぶにげんしはい)
12世紀ごろ、荘園と公領(国衙領)からなる荘園公領制(しょうえんこうりょうせい)が成立し、
荘園は荘園領主が、公領は国司が、それぞれ支配してきたんでしたよね。
(詳しくは平安時代(14)を読んでください!)
しかし1185年、源頼朝が荘園・公領ごとに地頭を設置する権限を獲得したことで、
荘園は荘園領主と地頭が、公領は国司と地頭が、それぞれ支配するようになります。

とはいえ、朝廷はもちろんのこと、荘園領主や国司(朝廷が任命)の力は強いまんまです。
そもそも鎌倉幕府自体、東国支配権と守護・地頭の設置を朝廷から承認してもらった存在で、
朝廷との関係も、新制(しんせい、10世紀以降に出された朝廷の法令のこと)や宣旨(せんじ)で定められています。

つまり、鎌倉幕府は朝廷と荘園公領制を前提として成立した政権なのです。
なので、守護・地頭を通じて国や荘園・公領の治安維持にあたったり、国司や荘園領主への納税を怠る地頭を処罰したりして、朝廷の支配や、荘園公領制の維持を助けたりもするのです。

このような、朝廷と鎌倉幕府による二元的な支配体制を、公武二元支配といいます。
ちなみに、「公」は朝廷を、「武」は鎌倉幕府を意味します。

その後、承久の乱や元寇などをきっかけに、鎌倉幕府はどんどん権力をのばし、支配権を広げます。
それにともなって、各地で守護・地頭と国司・荘園領主たちが争うようになるのです。
詳しくはまたのちのち…

*   *   *

(5)経済的基盤
鎌倉幕府の財政を支えるのは、おもに次の3つです。

①関東知行国(かんとうちぎょうこく)、または、関東御分国(かんとうごぶんこく)
…将軍家が支配する知行国(ちぎょうこく)のこと
 知行国主(ちぎょうこくしゅ)である将軍が、一門や御家人をその国の国司に推薦し、
 国衙領からの収入の一部を幕府におさめさせる
 源頼朝の時代、最大9ヶ国(相模・武蔵・伊豆・駿河・上総・下総・信濃・越後・豊後)を数える
 旧国名が分からない人は飛鳥時代(11)で確認してくださいね!

②関東御領(かんとうごりょう)
…将軍家の直轄領のこと
 将軍家が本所(ほんじょ)、または領家(りょうけ)として支配する荘園
 もともとの将軍家の荘園に、
 謀叛人から没収した所領(平家没官領・承久の乱で没収した所領など)を加えたもの

③関東進止所領(かんとうしんししょりょう)
…将軍が地頭などの任免権をもつ荘園・公領のこと
 国司や荘園領主から奪った所領が幕府の支配下になり、
 御家人をその地の地頭に任じることが可能となったもの

はー、政権の中身を学ぶのは、淡々としていてしんどいですね…
お疲れさまでした!

では最後に解答を載せておきましょう。

鎌倉2解答.jpg



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次回は、北条時政が執権に就任する過程を、ゴロ合わせとともにお届けします!

*プリント内、鎮西探題の設置年を1296年から1293年に修正しました(2022.10.25)
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鎌倉時代(1) [まとめプリント]

今日からいよいよ鎌倉時代に突入です!
といっても、プリントは前々回前回の続きです。

今回は、 ↓ このまとめプリントの…
鎌倉1.jpg

残りの ↓ 緑色の部分を埋めて、穴埋めを完成させてしまいましょう!
鎌倉1-1.jpg
(黄色の部分は前々回、青色の部分は前回解説のうえ空欄を埋めています)



1180年8月に挙兵した源頼朝(みなもとのよりとも)は、
石橋山の戦い(いしばしやまのたたかい)に敗れたのち、
相模国(さがみのくに、現在の神奈川県)の鎌倉(かまくら)に入ります。

鎌倉は、源頼義(みなもとのよりよし)の時代に源氏の所領となった場所で、
彼はこの地に鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)という神社を建立しています。

八幡宮(はちまんぐう)とは、武運の神様である八幡神(はちまんしん)をおまつりする神社です。
なんでも、源頼義が前九年合戦(ぜんくねんかっせん)の戦勝を、
京都の石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)にを祈願したところ見事に勝利をおさめたため、
石清水八幡宮の神様の霊を分けてもらって、鶴岡八幡宮におまつりしたんだとか。

結果、鶴岡八幡宮は武士である源氏のあつい信仰をあつめ、
鎌倉は源氏にとってたいへん思い入れのある土地になったというワケです。

また鎌倉は、北・東・西側の三方を険しい山に囲まれ、残る南側は海に面していて、
防御に適した地形をしています。

源頼朝が鎌倉を政治的拠点に定めたのも納得ですよね。

富士川の戦い(ふじがわのたたかい)に勝利した源頼朝は、
弟である源範頼(みなもとののりより)・源義経(みなもとのよしつね)に軍勢の指揮を任せ、
自身は鎌倉に戻って、東国の経営に乗り出します。

ちなみに、石橋山の戦いと富士川の戦いって、
どっちが勝ってどっちが負けたか分からなくなりませんか?
なので、こんなイラストで覚えてしまいましょう!!

鎌倉1-3.jpg

東国の武士たちをまとめる組織が必要だと考えた源頼朝は、
1180年11月に侍所(さむらいどころ)を設置します。
これは、御家人(ごけにん)の統率・軍事・警察をになう機関で、
初代別当(べっとう、長官のこと)には和田義盛(わだよしもり)が就任します。

とはいえ、源頼朝の勢力は、あくまで私的なものに過ぎません。

そこで1183年10月、源頼朝は、後白河法皇(ごしらかわほうおう)から寿永二年十月宣旨(じゅえいにねんじゅうがつせんじ)を引き出し、
朝廷から東海道(とうかいどう)と東山道(とうさんどう)の支配権、
すなわち東国の支配権を認めてもらうのです。

これにより、源頼朝の勢力は、朝廷から認められた正当なものとなるのです。

そして1184年10月には、
一般政務・財政事務をになう公文所(くもんじょ)を設置し、
初代別当に大江広元(おおえのひろもと)を任命します。
また、裁判事務をになう問注所(もんちゅうじょ)も設置し、
初代執事(しつじ、これも長官のこと)に三善康信(みよしのやすのぶ)を任命します。

大江広元も三善康信も、源頼朝が鎌倉に招いた京都出身のお公家さんです。
大江も三善も姓ですので、姓と名前の間に「の」が入ります。
読み方に注意してくださいね!
(姓と名字の違いについては飛鳥時代(5)を読んでください)

源頼朝が東国で支配機構をどんどん整備するなか、
1185年3月、源範頼と源義経が、壇の浦の戦い(だんのうらのたたかい)でついに平氏を滅ぼします。

源頼朝は「弟たち、よくやった!」と大喜びかと思いきや…
実は源義経にめっちゃ怒っています!!

原因はいろいろあるのですが、
源義経が、棟梁(とうりょう)である源頼朝の許可を得ることなく、
後白河法皇から官位(かんい)を授かったことが大きいようです。

また源頼朝は、安徳天皇の身柄と三種の神器(鏡・剣・玉の3点セット)を確保し、
その引き渡しをもって朝廷と様々な交渉をするつもりでいたのに、
源義経は、壇の浦の戦いで安徳天皇の自害を止められず、
三種の神器が海に沈むのも阻止できず、鏡と玉は回収したものの剣を失ってしまいます。

さらに、源頼朝が源義経の補佐役につけた家来から、
「源義経は手柄(てがら)を独り占めしようとしていてアリエナイ!みんな不満いっぱい!!私も早く頼朝様のもとに帰りたい!!!」という内容の手紙まで、源頼朝のもとに届きます。

兄弟といっても、2人は育った環境が全然違いますし、考え方も違いますからね…
源義経もワキが甘いというかなんというか…

そんなこんなで、源頼朝は源義経にめっちゃ怒っているのです。

*   *   *

一方、源義経はというと、
壇の浦(だんのうら)で泳いでるところを捕まえた平宗盛(たいらのむねもり)を引き連れて、
ババーン!!と凱旋(がいせん)するべく鎌倉に向かいます。

しかし、源頼朝は平宗盛だけを引き取り、源義経には近くのお寺で待機するよう命じます。
源義経は、源頼朝の誤解を解くため手紙を書きますが、鎌倉に入ることは許されませんでした。

怒った源義経は、「源頼朝のことがキラいなヤツは、みんなボクについてこい!」的な発言をのこして京都に戻ります。
この発言を耳にした源頼朝は、源義経の所領をすべて没収し、
さらに京都に軍勢を派遣して源義経を襲撃させるのです。

これを返り討ちにした源義経は、
源頼朝の強大化をおそれている後白河法皇から源頼朝追討の院宣(いんぜん)を引き出しますが、
源義経に賛同する者はほとんど現れず、源義経は京都を離れます。

かたや源頼朝は、後白河法皇が源頼朝追討の院宣を出したことに怒り狂います。
あわてた後白河法皇は、なんと源義経追討の院宣を出して源頼朝をなだめようとします。
さらに、鎌倉に使者を派遣して「源頼朝追討の院宣は、後白河法皇の本心ではないよ!源義経に脅されて、もうホントに仕方なく出しただけなんだよ!!」的な言い訳をしまくります。

そんなビビりまくりの後白河法皇に対して源頼朝は、
「え?本心じゃないのに院宣とか出しちゃえるんだ??それって超無責任だよねー。
こっちは追討の院宣出されて謀反人(むほんにん)扱いなんだから、マジやってられんわー。
もうホント、後白河法皇は日本国第一の大天狗だよ!!」みたいな悪口まみれの手紙を送りつけ、
後白河法皇をさらに追い詰めます。

1185年11月、源頼朝は、義理の父である北条時政(ほうじょうときまさ)に大軍を率いて上洛(じょうらく、京都に行くこと)させ、後白河法皇を震え上がらせます。
そこで、源義経追討の院宣にしたがって、源義経を探し出して捕らえることを名目に、
国ごとに守護(しゅご)、荘園・公領ごとに地頭(じとう)を設置する権利を朝廷に認めさせるのです。

またこのとき、地頭が田畑1段(たん)につき5升(しょう)の兵粮米(ひょうろうまい)を徴収する権利(貴族たちの反発が強く、翌年停止)や、在庁官人を支配する権利も獲得します。

こうして源頼朝の権力は全国に及ぶようになり、
事実上、鎌倉幕府(かまくらばくふ)が成立するのです。

*   *   *

源義経追討の院宣によって謀反人となった源義経は、源頼朝による厳しい包囲網に苦しみます。
家来たちは次々と殺され、恋人の静御前(しずかごぜん)も捕まってしまいます。
ちなみに、「ドラえもん」に出てくるしずかちゃんの名前って、“みなもとしずか”なんですよー。
どうやら静御前がモデルの1人みたいです(源義経と静御前は結婚していませんけどね)。

その後、源義経は、藤原秀衡(ふじわらのひでひら)を頼って奥州(おうしゅう)へ逃れます。
藤原秀衡は、源義経をたてて源頼朝の勢いから奥州を守ろうとしますが、
1187年10月、病気のためこの世を去ってしまいます。
あとを継いだのは、息子の藤原泰衡(ふじわらのやすひら)です。

源義経が奥州にいることを知った源頼朝は、藤原泰衡に源義経を倒すよう圧力をかけまくります。
これに耐えかねた藤原泰衡は、1189年閏(うるう)4月、源義経を襲撃するのです。

藤原泰衡の兵力はおよそ500騎、対する源義経の兵力はわずか10数騎です。
次々と家来を失ってゆく源義経は、最後は妻と子どもと一緒にお堂にこもって自害します。

このとき、お堂の前に家来の弁慶(べんけい)が立ちはだかって源義経を守りますが、
全身にたくさんの矢を受けて、立ったまま亡くなったと伝わっています。
これを弁慶の立ち往生(たちおうじょう)といいます。

大雪で車が動けなくなってしまうことを立ち往生と言ったりしますが、
本来は、立ったまま往生(おうじょう)する、つまり亡くなることをいいます。

鎌倉1-5.jpg

藤原泰衡は、源頼朝に源義経の首を差し出すことで奥州を守ろうとします。
でも、そもそも源頼朝の目的は、奥州を自分の支配下に入れることなんですよね…

1189年9月、源頼朝は自ら大軍を率いて奥州を攻撃し、
源義経をかくまった罪により、藤原泰衡を斬首します。
これにより、奥州、すなわち陸奥国(むつのくに)と出羽国(でわのくに)を支配下に入れた源頼朝は、
ここに奥州総奉行(おうしゅうそうぶぎょう)を設置するのです。

ちなみに、藤原泰衡の首は、平安時代(18)でもご紹介したように、
奥州藤原氏3代のミイラとともに、中尊寺金色堂(ちゅうそんじこんじきどう)におさめられています。

藤原清衡(ふじわらのきよひら)・藤原基衡(ふじわらのもとひら)・藤原秀衡、そして藤原泰衡。
奥州藤原氏4人の名前は、これで覚えてしまいましょう!

鎌倉1-4.jpg

1190年11月、源頼朝が上洛し、
朝廷から右近衛大将(うこのえたいしょう、または、うこんえのだいしょう)に任命されます。

朝廷の警護などを担当する近衛府(このえふ・こんえふ)は、
左近衛府(さこのえふ・さこんえふ)と右近衛府(うこのえふ・うこんえふ)に分かれているのですが、
そのうち右近衛府の長官を、右近衛大将、略して右大将(うだいしょう)といいます。
これは、朝廷における武官の最高位です。

しかし、朝廷の警護を担当するだけあって、右近衛大将は常に京都にいなければなりません。
鎌倉を本拠地としたい源頼朝は、10日あまりでこれを辞職してしまいます。
すぐに辞めてしまったとしても、源頼朝にとって「右近衛大将に任命された」という事実があれば、
自身を権威づけるには充分なのです。

さっそく鎌倉に戻った源頼朝は、1191年正月、公文所を政所(まんどころ)と改称します。
政所とは、従三位(じゅさんみ)以上の公卿(くぎょう)などが開設できる家政機関です。
すでに従二位(じゅにい)という位階にあってその権利を得ていた源頼朝が、
ここで政所をひらくことで、鎌倉幕府にさらなる正当性をもたせようとしたのかもしれません。

1192年3月、後白河法皇が病気のためこの世を去り、
その後1192年7月、源頼朝は後鳥羽天皇(ごとばてんのう)から征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)、
略して将軍(しょうぐん)に任命されます。
これにより、名実ともに鎌倉幕府が成立するのです。

プリントの冒頭には、鎌倉時代を1185年頃~1333年と表記しています。
鎌倉時代のはじまりは、
1183年の寿永二年十月宣旨とするか、
1185年の守護・地頭の設置とするか、
1192年の征夷大将軍任命とするか、ナドナドさまざまな説があります。
なので、「鎌倉時代がはじまった年を答えよ」なんて問題が出ることは、まずないでしょう。

では、最後に解答を載せておきますね!

鎌倉1解答①.jpg

いや~、ようやく完成しましたね!
ほんと3回にわたってややこしかったですね…お疲れさまでした。

今日出てきた鎌倉幕府の支配機構の枠は、解答のように同じ色で色分けしておいてください。
鎌倉時代(2)以降でも鎌倉幕府の支配機構を取り上げてゆくので、分かりやすくなりますよ!



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1185年 壇の浦の戦いが起こる [年号のゴロ合わせ]

前回に続いて、治承・寿永の乱(じしょう・じゅえいのらん)を見ていきましょう!

今日は、↓ このまとめプリントの…
鎌倉1.jpg

↓ 青色の部分を埋めつつ、ゴロ合わせも紹介していきますね~!!
1185-1.jpg
(黄色の部分は平安時代(20)をご覧ください)

ちょっとほんとに文章長いですけど(スイマセン…)、
イラスト多めにしますので頑張ってついてきてくださいね☆



以仁王(もちひとおう)と源頼政(みなもとのよりまさ)の挙兵をきっかけに、
平氏への反発がはじけることを恐れた平清盛(たいらのきよもり)は、
1180年6月、大寺院や貴族たちの反対を押し切って、
摂津国(せっつのくに)の福原(ふくはら、現在の神戸市)に都を遷(うつ)します。
大輪田泊(おおわだのとまり)に近い福原は、平氏の瀬戸内海支配の拠点となる場所であり、
また平清盛にとっては、サナダムシの攻撃から復活したあと別荘を築いたほどお気に入りの土地です。
(詳しくは平安時代(17)を読んでください)

福原に遷都(せんと)後、
源頼朝(みなもとのよりとも)や源義仲(みなもとのよしなか)らの挙兵を知った平清盛は、
孫の平維盛(たいらのこれもり、超イケメンらしいよ!)に大軍を託して東国へ派遣します。
しかし平維盛は、富士川の戦い(ふじがわのたたかい)で源頼朝に敗れてしまうのです。

すると、近江国(おうみのくに)の園城寺(おんじょうじ、または、三井寺(みいでら))や奈良の興福寺(こうふくじ)が、反平氏の動きを強めます。
なんてったって、以仁王が挙兵前に身を寄せたのが園城寺で、そのあと向かおうとしたのが興福寺ですからね。
園城寺も興福寺も、もともと反平氏の立場にあったわけです。
(詳しくは1180年のゴロ合わせを読んでください)

このような反平氏勢力に京都を制圧されないように、
また高倉上皇(たかくらじょうこう)や平氏一門からも還都(かんと、都を元の場所に還(かえ)すこと)を求める声が高まっていたこともあり、
1180年11月、平清盛は都を京都に戻します。

翌月、京都に近い近江国で源氏軍が蜂起します。
平氏はこれを鎮圧し、さらに源氏軍に加担した園城寺を焼き払います。
さらに、平清盛の息子である平重衡(たいらのしげひら)が南都焼打ち(なんとやきうち)をおこない、
興福寺のほとんどを焼き尽くします。
このとき、お隣の東大寺も伽藍(がらん)の多くを失い、
大仏も頭と手が焼け落ちてしまったんだとか…

その後、1181年閏(うるう)2月、平清盛が満63歳でこの世を去ります。
とてつもない高熱に苦しみながらの最期だったようで、
当時の人々は、「お寺をいっぱい焼き払ったからバチが当たったんだ!」とウワサしたようです…

1185-2.jpg

平氏一門を率いるのは、平清盛の息子である平宗盛(たいらのむねもり)ですが、
平清盛という強烈なリーダーを失った平氏に、次々とピンチが訪れます。

1181年、前年の雨不足の影響により養和の飢饉(ようわのききん)が発生し、
西日本は深刻な食料不足に陥ります。
西国(さいごく)を経済的基盤とする平氏は、大打撃を受けてしまいます。

さらに、倶利伽羅峠の戦い(くりからとうげのたたかい、または砺波山の戦い(となみやまのたたかい))で平維盛が源義仲に敗れ、源義仲の入京を許してしまいます。

そして1183年7月、安徳天皇(あんとくてんのう)を奉じて都落ち(みやこおち)をするのです。
このとき、三種の神器(さんしゅのじんぎ)も一緒に持ってゆきます。

三種の神器とは、鏡(かがみ)・剣(つるぎ)・玉(ぎょく)の3種類の宝物をさします。
古来より天皇が受け継いできたもので、即位の際に新しい天皇へと継承されます。
三種の神器を所有することが、正当な天皇である証なのです。

令和元年5月1日に、剣璽等承継の儀(けんじとうけいしょうのぎ)がおこなわれましたよね。
剣璽(けんじ)とは、三種の神器の剣と玉のことで(鏡は動かせないそうです)、
それらを継承する様子は、現在も首相官邸が配信する動画で拝見することができます。

動画の7:00を過ぎたあたり、3番目に入ってきた人が持っている細長い箱に剣が、
次に入ってきた人が持っている四角い箱に玉が入っているそうです。
歴史を目の当たりにするようで感動しますね…

ちなみに、三種の神器は絶対に人の目にふれてはいけないそうで、
誰一人として実物を見たことがないんですって!

話を平安時代に戻しましょう。

京都では、正当な天皇の証である三種の神器のないまま、
後鳥羽天皇(ごとばてんのう)が即位します。
このことは、彼にとって大きなコンプレックスとなるのですが、それについてはまた後日!

都落ちした平氏の追討と三種の神器の奪還に向かうのは、
源頼朝の弟である源義経(みなもとのよしつね)です。

*   *   *

源義経がまだ幼く、牛若丸(うしわかまる)という名で呼ばれていたころ、
お父さんの源義朝(みなもとのよしとも)が平治の乱(へいじのらん)で敗れてしまい、
彼は京都の山奥にある鞍馬寺(くらまでら)というお寺に預けられます。
ここで牛若丸を鍛えたのは、なんと天狗(てんぐ)だった!!…とゆー伝説が残っています。
なんだか、いま大流行している某漫画の主人公みたいですね!(笑)

その牛若丸と出会うのが、弁慶(べんけい)という僧兵(そうへい)です。
腕に自信のある荒くれ者の弁慶は、
京都の町で太刀(たち)を携えた人に戦いを挑んでは、勝ってその太刀を奪う、
という行為を繰り返しており、気づけば手に入れた太刀の数は999本になっていました。

ある夜、いよいよ1000本目!と意気込んで五条大橋(ごじょうおおはし)で待ち構えていたところ、
前から立派な太刀を腰に帯びた若者が、横笛を吹きながらこちらに向かって歩いてくるではないですか!
「1000本目はコイツの太刀に決定~ ♪」とばかりに、弁慶が勢いよく攻撃をしかけたところ…

その若者はなんと!
弁慶の攻撃をひらりとかわし、橋の手すりに着地したのです!!

驚いた弁慶ですが、その後も攻撃を繰り返します。
しかし、どれだけ攻撃しても、若者は手すりの上をひらりひらりと飛んでかわすばかり。
すっかり参ってしまった弁慶は、若者の家来にしてもらうのです。

この若者こそが牛若丸、のちの源義経です。
そりゃ天狗に修行してもらったんだから、運動神経ハンパないよね(笑)

1185-3.jpg

天狗に修行をつけてもらった話も、弁慶との出会いの話も、
どこまで真実か分かりませんが(そもそも真実の部分はあるのだろうか…笑)、
とにもかくにも弁慶という僧兵が源義経に仕えたことは確かなようです。

やがて、自分が源義朝の息子であることを知った牛若丸は、
僧侶になることを拒んで鞍馬寺を抜け出します。
そして、元服(げんぷく)して名を源義経と改め、
奥州(おうしゅう)の藤原秀衡(ふじわらのひでひら)のもとに身を寄せるのです。

奥州の藤原氏といえば…
そうです、奥州藤原氏(おうしゅうふじわらし)です。

初代の藤原清衡(ふじわらのきよひら)、
2代目の藤原基衡(ふじわらのもとひら)、
3代目の藤原秀衡と、
およそ100年にわたって平泉(ひらいずみ、現在の岩手県)を拠点に繁栄した、
奥羽(おうう、陸奥国(むつのくに)と出羽国(でわのくに)のこと)の一族です。

奥州は金(中尊寺金色堂(ちゅうそんじこんじきどう)を見れば一目瞭然!)や良質な馬の産地であり、
奥州藤原氏はこれらを献上することで、朝廷や藤原摂関家と良好な関係を保ちます。
また中国の北宋(ほくそう)やアイヌなど、北方の地との交易もおこない、独自の文化を築きます。

そんな奥州藤原氏のもとで暮らす源義経は、
あるとき、お兄ちゃんである源頼朝の挙兵を耳にします。
いてもたってもいられなくなった源義経は、平泉を抜け出し、
富士川の戦いで勝利した源頼朝のもとに駆けつけて感動の再会を果たすのです。

そして、鎌倉にとどまって東国の経営に専念したい源頼朝から
もう一人のお兄ちゃんである源範頼(みなもとののりより)とともに軍勢の指揮を任されます。
いよいよ源義経が、歴史の表舞台に立つのです。
ちなみに、源頼朝は源義朝の三男、源範頼は六男、源義経は九男です。

*   *   *

さて当時の京都はというと、
養和の飢饉による食料不足にあえいでいるなか、源義仲が大軍を率いて入ってきたため、
治安は乱れ、食料事情はさらにめちゃくちゃになっています。

後白河法皇は、源義仲に都落ちした平氏を追うよう命じて京都から厄介払いし、
かわって源頼朝に寿永二年十月宣旨(じゅえいにねんじゅうがつせんじ)を出して接近します。
これに焦った源義仲は、急ぎ京都に戻って後白河法皇を幽閉したりしますが、
宇治川の戦い(うじがわのたたかい)で源範頼・源義経によって討たれてしまいます。

いやー、源氏めっちゃモメてますね~…

この隙に、なんと平氏は大復活!
一時は大宰府(だざいふ)まで都落ちしたにもかかわらず、
このころには京都を目指して福原に陣を構えるほど、平氏軍は態勢を立て直しています!!
そこで、源範頼と源義経が平氏の追討と三種の神器の奪還に向かうのです。

こうして1184年2月に摂津国で起こるのが、一の谷の戦い(いちのたにのたたかい)です。
一ノ谷の戦いと表記してもOKです。

正面からの攻撃は源範頼に任せ、源義経はわずか70騎を率いて一の谷の裏側にまわります。
そこは鵯越(ひよどりごえ)と呼ばれるガケで、とても降りられるような場所ではありません。
平氏軍はこれを背にして、守りの堅い陣を構えているわけです。

おもむろに、源義経はガケから馬を2頭落とします。

な、なんてことを!!

1頭は途中で足をくじいて落っこちてしまいますが(かわいそう…涙)、
もう1頭はそろそろと降りることに成功します。

それを見た源義経は「イケる!!!」と判断します。

え?
なにが??

イヤイヤ、成功率50%ですやん!
絶対ケガするやつやん!!

しかし!
源義経の軍勢は、ガケを馬で駆け降りて平氏軍の背後を衝くのです!!

パニック!
いやもう平氏軍パニックですよ!!
絶対安全だと思いこんでた後ろのガケから敵が降ってくるんですからね!!!

てんやわんやになった平氏軍は、
平清盛の甥っ子にあたる平敦盛(たいらのあつもり、古典の授業で習いました?)をはじめ、
たくさんの犠牲者を出すにいたり、
船で瀬戸内海を渡って讃岐国(さぬきのくに)の屋島(やしま)などに逃れるのです。

*   *   *

瀬戸内海の制海権を有する平氏軍に対し、
水軍(すいぐん、海上で戦う武士団のこと)をもたない源氏軍は手出しできない状態が続きます。
その間、源範頼は山陽道や九州で平氏軍との戦いを続けますが、
進むことも退くこともできない状況に陥ってしまいます。

そこで1185年2月、源義経はいくつかの水軍を味方につけ、
暴風雨のなか、淡路島の南を船ですすんで阿波国(あわのくに)に上陸します。
そして、瀬戸内海に向けた守りを重点的にしている平氏軍を背後から襲うのです。

また背後から!
平氏軍これまたパニックです!!

両者の間で激しい戦いが繰り広げられ、やがて日が暮れ始めて休戦状態となります。
すると、源氏軍のまえに、平氏の小舟が1隻あらわれます。
小舟には、先っちょに扇がつけられた竿(さお)と美女が乗っており、
美女は「この扇の的(まと)を弓で射てみろ、失敗したら源氏の恥だ」なんて言うのです。

いやー、これはやりたくなーい!
めっちゃ責任重大ですやーん!!

源氏軍のなかで、誰が矢を射るかでタライ回しがおこり、
最終的に那須与一(なすのよいち)という人物に決まります。

もし失敗したら切腹する、という覚悟のもと、
那須与一がいろんな神々に祈りまくって1本の矢を放ったところ…

1185-4.jpg

なんと見事に的中!
美しい夕日を背景に、扇は空を舞い、波の上に落ちたのです!!

このエピソード、古典の授業で習いましたか?
『平家物語』に収録されている「扇の的」(おうぎのまと)という有名なものです。

これで源氏軍のテンションは一気に上がります。
さらに源氏の援軍がくることを知った平氏軍は、そそくさと壇の浦(だんのうら)へと逃れるのです。

*   *   *

1185年3月、長門国(ながとのくに)で壇の浦の戦い(だんのうらのたたかい)が起こります。
壇ノ浦の戦いと表記してもOKです。
あと、「壇」の漢字、右下のパーツは「且」ではなくて「旦」ですからね!
書き間違えが多発する漢字なので、何回も書いてしっかり覚えてくださいね!!

潮の流れの激しい関門海峡(かんもんかいきょう)で、
平氏の水軍と、源義経が率いる水軍が激突します。
また、ピンチを切り抜けた源範頼も、陸から応戦します。

はじめは船の扱いに詳しい平氏軍が圧倒的に優勢で、どんどん源氏軍を追い詰めます。
しかしこの戦い、数時間後には源氏の勝利に終わるのです。

その理由は、
潮の流れがかわったから、とか、
平氏軍のなかで寝返った者が多数いたから、とか
源義経が非戦闘員である平氏軍の船の漕ぎ手たちを殺害する許可を出したから、とか、
さまざまな説があるようです。

源義経は、船から船へと飛び移って戦うなど鮮やかな活躍を見せ、
(この技、のちに八艘飛び(はっそうとび)と名付けられたそうな…さすが天狗の教え子…)、
平氏軍はみるみるうちに劣勢となり、
平清盛の息子である平知盛(たいらのとももり)は平氏の敗北を悟ります。

すると平知盛は、安徳天皇のもとにゆき、ホウキを手に船の掃除を始めます。
安徳天皇の船が汚かったとあっては、あとあと笑いものになるかもしれない…と思い、
美しい最期にすべくお片付けを始めたというわけです。

そんな息子の様子を見て、平清盛の奥さんである平時子(たいらのときこ)は自害の道を選びます。
「おばあちゃん、どこに行くの?」と訪ねる孫の安徳天皇(このとき満6歳ですよ…涙)に、
「極楽浄土です。海の下にも都があるのですよ」と答え、ともに海に身を投げて亡くなります。
このとき、三種の神器も海に沈んだとされています(鏡と玉は回収できたんだとか)。

1185-5.jpg

平氏の人々は、これにならって次々と海に沈みます。
そして、平氏の滅亡を見届けた平知盛も、
「見るべきものはすべて見た」という言葉を遺(のこ)して入水(じゅすい)します。

このとき、自らの遺体が源氏にわたらないよう、
鎧(よろい)を二重に着込んだとも、碇(いかり、船のおもり)を抱いたとも伝わっています。
壇の浦にある平知盛の銅像はこの通り、碇をかかげて綱を体に巻きつけております。
DSC06820.JPG

ちなみに、総大将である平宗盛は、水泳が得意だったんですねー。
入水してみたものの、得意なもんだから、つい泳いじゃうんですよ!
で、すいすい泳いでいるところを、源氏軍に捕まってしまったんですねー。
壇の浦の戦いから3ヶ月が経とうというころ、子ども達とともに斬首されてしまいます。

長くなりました…
ほんとに長くなりました…
ゴメンナサイ…

最後に、プリントの青色のところを埋めた回答を載せておきますね。

1185-7.jpg

そして、壇の浦の戦いのゴロ合わせも載せておきましょう!

1185年.jpg

いよいよ次回から鎌倉時代です。
残りを埋めて、まとめプリントを完成させてしまいましょう!!



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平安時代(20) [まとめプリント]

前回は、治承・寿永の乱(じしょう・じゅえいのらん)のはじまりである、
以仁王(もちひとおう)と源頼政(みなもとのよりまさ)の挙兵を、ゴロ合わせとともにお届けしました。

その続きを説明してゆきたいのですが、
とにかく色んな事件がぎゅうぎゅうに起こってややこしいので、
これから3回に分けて解説することにします。
↓ 今日は、鎌倉時代のまとめプリント(1)のうち…
鎌倉1.jpg

↓ 黄色の部分だけを、平安時代(20)として取り上げることにしますね。
鎌倉1-2.jpg

旧国名や七道(しちどう)がたくさん出てきますが、
分かんない人は飛鳥時代(11)を復習してください~。



平治の乱(へいじのらん)のあと、伊豆(いず)に流された源頼朝(みなもとのよりとも)は、
伊豆の在庁官人(ざいちょうかんじん)である北条時政(ほうじょうときまさ)による監視のもと、
父である源義朝(みなもとのよしとも)をはじめ、亡き源氏たちを供養する日々を過ごします。

そんな生活が20年も続いた1180年4月。
源頼朝のもとに、平氏を打倒せよとの以仁王の令旨(りょうじ)が届きます。

どれほどの衝撃だったことでしょう!
だって流人(るにん)生活20年ですよ、20年!!
生まれた赤ちゃんが成人しちゃう年月ですからね!!!

ちなみに、この20年の間に源頼朝は結婚しています。
お相手は、ご存じ北条政子(ほうじょうまさこ)、北条時政の娘にあたる人物です。

あれ?
北条時政って、源頼朝の監視役だったのでは??

そーなんですよ!
あるとき、北条時政が出張先の京都から帰ってきたら超ビックリ!!
なんと自分が留守の間に2人はデキてしまっていたのです!!!

なんだよ!
20年も流罪だったなんて源頼朝ったら可哀想…とか同情したのに!!
禁断の恋なんてしちゃって、ちゃっかり流罪ライフをエンジョイしてんじゃん!!!
って感じですよね(笑)

立場上、このカンケイに大反対だった北条時政ですが、
2人の情熱はアツく、また娘のお腹が大きいこともあって、最終的には結婚を許します。
これにより、源頼朝は北条氏を味方につけることになるのです。

平安20-1.jpg

1180年8月、源頼朝は挙兵します。
しかし、相模国(さがみのくに)で平氏方の大庭景親(おおばかげちか)と戦い、敗れてしまいます。
これを石橋山の戦い(いしばしやまのたたかい)といいます。
なんとかその場から逃れた源頼朝は、
味方を増やしながら相模国の鎌倉(かまくら)に入って態勢を整えます。

そして1180年10月、駿河国(するがのくに)で起きた富士川の戦い(ふじがわのたたかい)で、
平清盛(たいらのきよもり)の孫にあたる平維盛(たいらのこれもり)と戦います。
このとき平維盛の軍勢は、富士川の近くにいた鳥の大群が一斉に飛び立った音を、
源氏の軍勢が攻撃してきた音だと勘違いしてパニックになって逃げてった、と伝わっています。

そんなこんなで富士川の戦いに勝利した源頼朝のもとを、一人の青年が訪ねてきます。
その青年とは、平治の乱のあと生き別れになった、弟の源義経(みなもとのよしつね)です。

弟と感動の再会を果たした源頼朝は、
源義経と、もう一人の弟である源範頼(みなもとののりより)に軍勢の指揮を任せ、
自らは鎌倉に戻って東国の経営に乗り出します。
ここでさまざまな支配機構をつくるのですが、これについては鎌倉時代(2)で説明しますね。

*   *   *

源頼朝の挙兵からほどなくして、イトコの源義仲(みなもとのよしなか)が挙兵します。
信濃国(しなののくに)の木曽谷(きそだに)で育った人物なので、
木曽義仲(きそよしなか)とも呼びます。
姓が源、名字が木曽、とゆーことですよ!
(姓と名字の違いについては、飛鳥時代(5)を復習してください)

源義仲は、1183年5月に倶利伽羅峠の戦い(くりからとうげのたたかい)で平維盛と激突します。
倶利伽羅峠(くりからとうげ)は、加賀国(かがのくに)と越中国(えっちゅうのくに)の境に位置する砺波山(となみやま)にある峠であることから、
別名を砺波山の戦い(となみやまのたたかい)といいます。

このとき、平維盛の軍勢はおよそ10万騎(騎は、馬に乗った兵のことです)、
対する源義仲の軍勢はおよそ3万騎です。

圧倒的不利!
ビビるぐらい不利!!

そこで源義仲は考えます。
考えに考えたすえ…

夜、平氏の軍勢が寝ているところに、いきなり大きな音をたてながら攻め込んだのです!
一説によれば、火のついた木をツノにくくりつけた牛を数百頭ほど解き放ったんだとか!!

平安20-2.jpg

パニック!
これはパニック!!
結果、平氏の軍勢はバラバラになり、平維盛は命からがら何とかその場から逃れます。
平維盛、鳥やら牛やらほんま大変ですね…

なお、イラストで源義仲の隣にいるのは、妾(めかけ、愛人のこと)の巴御前(ともえごぜん)です。
もんのすごく強い女性だったらしく、この戦いにも参加したと伝わっています。
女武者、カッコイイですね~…

倶利伽羅峠の戦いののち、北陸道(ほくりくどう)を制圧した源義仲は、
1183年7月、その勢いのまま京都に入ります。
平氏は安徳天皇(あんとくてんのう)を連れて都を離れ、西へ西へと逃れてゆきます。
これを平氏の都落ち(みやこおち)といいます。

源義仲の入京(にゅうきょう、京都に入ること)によって、
およそ20年ぶりに、京都の空に源氏の目印である白い旗がはためきます。
ちなみに、平氏の旗は赤色です。
いまも「紅白戦」や「紅白歌合戦」などといって赤チームと白チームに分かれて戦うのは、
源平の争いの名残なんだそうですよ(諸説アリマス)。

しかし、このころの京都はというと、
1181年に発生した養和の飢饉(ようわのききん)による深刻な食料不足に見舞われています。
町には死体があふれ、異臭がただよっていたんだとか…

そこに大軍を率いた源義仲がやってきたんだからたまりません。
食料事情はますます悪化し、
さらに寄せ集めで統制がきかない源義仲の兵たちが、腹ぺこによる略奪を繰り返したため、
治安まで悪化してしまうのです。
源義仲に対する不満はふくらむばかりです。

そんなとき、源義仲は後白河法皇(ごしらかわほうおう)から呼び出され、
西に逃れた平氏を追討するよう命じられます。
京都から出て行けというわけですね。
源義仲は、失った信頼を取り戻すべく、平氏を追って急ぎ京都をあとにするのです。

源義仲の厄介払いに成功した後白河法皇は、かわって源頼朝に近づきます。
西国は平氏が、北陸道は源義仲が支配するなか、
食料不足が続く京都で、なんとしても食べるものを確保しなければならない後白河法皇は、
東国を支配する源頼朝をたよるしかなかったのです。

1183年10月、後白河法皇は、源頼朝の位階(いかい)を平治の乱以前の状態に戻します。
そして、寿永二年十月宣旨(じゅえいにねんじゅうがつせんじ)を出して、
源頼朝の東国の支配権、
すなわち東海道(とうかいどう)と東山道(とうさんどう)の支配権を認めるのです。

これにより、源頼朝は流罪に処された謀叛人(むほんにん)ではなくなり、
彼が私的に築いた東国の勢力は、朝廷に認められた正当なものとなったのです。
その見返りとして、朝廷は源頼朝に東国からの年貢(ねんぐ)と官物(かんもつ)の納入を保証させます。
両者の利害がガッチリ一致した、というわけですね。

さぁこれに焦ったのが源義仲です!
誰よりも先に入京して一歩リードしたつもりでいたのに、
後白河法皇は自分を京都から追い出した隙に、源頼朝に超接近していたのです!!

あわてて京都に戻った源義仲は、
後白河法皇を幽閉してまで源頼朝追討の命令を出させますが、そんな彼に従う者は少なく、
1184年正月、宇治川の戦い(うじがわのたたかい)で源範頼と源義経の軍勢に敗れ、
近江国(おうみのくに)の粟津(あわづ)という場所で、顔に矢を受けて亡くなってしまいます。

ギリギリまで巴御前が一緒だったようですが、源義仲は最後の最後に逃げるよう促したようです。
別れ際、巴御前は左右から襲いかかってきた敵をそれぞれ両脇ではさんで絞めあげ、
頭をもぎとってやっつけた、と伝わっています。
す、すごすぎるよ巴御前…
想像をはるかにこえてきたよ巴御前…

*   *   *

このあと、源範頼と源義経の軍勢は、
1184年2月、摂津国(せっつのくに)で起こる一の谷の戦い(いちのたにのたたかい)、
1185年2月、讃岐国(さぬきのくに)で起こる屋島の戦い(やしまのたたかい)で平氏の軍勢に勝利し、
1185年3月、長門国(ながとのくに)の壇の浦(だんのうら)で平氏を滅ぼすにいたるのです。

これらの戦いについては次回、
壇の浦の戦い(だんのうらのたたかい)のゴロ合わせで詳しく書きたいと思います。

はー、ややこしかったですね…
最後に解答を載せておきましょう。

鎌倉1解答1.jpg

今日埋められるのは、この部分だけです。
残りは次回と次々回で解説しますので、もうしばらくお待ちください!



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1180年 以仁王と源頼政が挙兵する [年号のゴロ合わせ]

長かった平安時代もそろそろおしまいです。
今日は、治承・寿永の乱(じしょう・じゅえいのらん)のはじまりである、
以仁王(もちひとおう)と源頼政(みなもとのよりまさ)の挙兵をお届けします。

治承・寿永の乱とは、
1180年、以仁王と源頼政が兵を挙げ、
これをきっかけに各地で源氏などが次々と平氏打倒の反乱を起こし、
1185年に壇の浦の戦い(だんのうらのたたかい)で平氏が滅亡するまでの大規模な内乱をさします。
いわゆる源平の争乱のことです。

ちなみに、治承(じしょう)も寿永(じゅえい)も元号(げんごう)です。
以仁王と源頼政が挙兵した1180年は治承4年で、
平氏が滅亡した1185年は元暦(げんりゃく)2年です。

え?あれ??
元暦ってナニ?寿永じゃないの??って思いますよね。

このころの元号は、
治承(1177~1181年)→養和(ようわ、1181~1182年)→寿永(1182~1184年)→元暦(1184~1185年)
と変化しているのですが、平氏は元暦という元号を認めず、寿永を使い続けます。
壇の浦の戦いが起きたのは、世間では元暦2年なんだけど、平氏的には寿永4年というワケです。
平氏の気持ちに寄り添ってか、現在でも源平の争乱を治承・寿永の乱と呼んでいます。

では、治承・寿永の乱が起こるきっかけとなった、以仁王と源頼政の挙兵を見てゆきましょう。



以仁王は、後白河法皇(ごしらかわほうおう)の息子です。
幼いころから優秀で、学問や書道はもちろんのこと、
歌や笛の才能にもたけた多才な人物であったようです。
しかも、お兄ちゃんは二条天皇(にじょうてんのう)で、
甥っ子は六条天皇(ろくじょうてんのう)というロイヤルな血筋で、
天皇になる可能性を存分にもった人物です。

しかし、六条天皇にかわって即位したのは、弟の高倉天皇(たかくらてんのう)です。
このころ権勢を誇る平氏が、なかでも高倉天皇のお母さんである平滋子(たいらのしげこ)が、
以仁王の邪魔をして、平氏の血を引く高倉天皇を即位させたと言われています。

なんだか平氏に対する不満がムクムクとわいてきますよね…

その後、鹿ヶ谷の陰謀(ししがたにのいんぼう)などを経て、
平清盛(たいらのきよもり)はクーデターを起こし、
後白河法皇を幽閉して院政を停止させてしまいます。
このとき、以仁王も平氏に荘園の一部を没収されるという憂き目に遭っています。

ますます平氏に対する不満がムクムクしてきますよね…

さらに1180年、高倉天皇と平徳子(たいらのとくこ)の間に生まれた満1歳の安徳天皇(あんとくてんのう)が即位し、
平清盛は天皇の外戚(がいせき)としてますます権力をほしいままにします。

高位高官を独占し、
たくさんの荘園や知行国(ちぎょうこく)を所有し、
日宋貿易(にっそうぼうえき)の利益を独占し、
さらに天皇の外戚となった平氏はもう栄華を極めまくりです。
そりゃ平時忠(たいらのときただ)も、「平家にあらずんば人にあらず」なんて言っちゃいます。

その一方で、平氏と血のつながりをもたない以仁王は、天皇になる可能性を完全に失ってしまいます。

もうね、以仁王の平氏に対する不満はムクムクの最高潮ですよ!

1180-1.jpg
  (イラスト内の①~⑤は、系図内の即位順です)

平氏ムカつきます!
平氏まじムカつきます!!

しかし、以仁王一人では何もできません。
だって軍事力をもっていないんですもん。

そこで手を組むのが、源頼政なのです。

*   *   *

源氏といえば、源義家(みなもとのよしいえ)や源義朝(みなもとのよしとも)、
源頼朝(みなもとのよりとも)・源義経(みなもとのよしつね)兄弟などを思い浮かべますよね。
彼らはいわば、源氏を代表するスーパースターです。

源頼政は、この人たちとは血のつながりがちょっと遠い源氏の一人です。
(詳しくは平安時代(13)のプリントの系図で確認してみてください)
保元の乱(ほうげんのらん)では後白河天皇(ごしらかわてんのう)サイドについて勝利し、
平治の乱(へいじのらん)では平清盛に味方して、その勝利におおきく貢献したという過去をもつ人物です。
平治の乱で源氏が次々と処分されるなか、
源頼政は一人、平清盛のあつい信頼を得て平氏政権でも大活躍するのです。

ところが、ちっとも出世しないのです。
あるとき、源頼政がそのことをうらむ和歌を詠んだところ、
平清盛が「忘れてたーッッ!!」と、すぐに従三位(じゅさんみ)に昇進させてくれました。
「忘れとったんかーーーーいッッ!!!」という突っ込みはさておき、
従三位といえば公卿(くぎょう)ですからね!
源氏にとってはそれはそれはもうアリエナイ大出世です!!
(公卿については飛鳥時代(8)を復習してください)
とにかく平氏は源頼政をめちゃくちゃ信頼していたのです(忘れてたけどね…笑)

このとき源頼政は、74歳のおじいちゃんです。
翌1179年には息子の源仲綱(みなもとのなかつな、覚えなくていいですよ)にあとを任せて出家します。

そんな平氏からの信頼あつい源頼政が、なぜ平氏打倒に立ち上がったのでしょうか。
『平家物語』には、こんなエピソードが収録されています。

源頼政の息子である源仲綱は、木の下(このした)と名付けた立派な馬をもっていました。
そのウワサを聞きつけたのが、平清盛の息子である平宗盛(たいらのむねもり)です。

あるとき、平宗盛は「木の下を見せてほしい」と源仲綱に頼みます。
なんだかイヤな予感しかしない源仲綱は、「ちょっと今、うちにいないんです」と答えます。
いないのなら仕方がない…と、いったんは引き下がった平宗盛ですが、
「え?木の下なら最近見ましたよ?」とか、「さっきいましたよ?」とかいう声を耳にします。

腹を立てた平宗盛は、馬を譲るよう何度も何度も、ほんとに何度も何度も源仲綱に要求します。
「オレは平氏だぞ!オレのパパは平清盛だぞ!!」とばかりに圧力をかける平宗盛に、
源頼政もおそれて要求をのむよう息子を説得し、源仲綱はしぶしぶ木の下を平宗盛に渡します。

念願の名馬を手に入れた平宗盛ですが、源仲綱の対応にムカついたようで…

なんと馬の名を「仲綱」と改めて焼き印を押し、
みんなの前でその馬を「仲綱」と呼んで、ムチでたたいたりして笑いものにしたそうな。

1180-2.jpg

む…むねもり…まじ最低やな。

脚色の多い『平家物語』に載っているエピソードなので、真偽のほどは分かりませんが、
もし事実だとしたら…源仲綱はもちろん、源頼政も怒り狂いますよね。
いくら平氏とあつい信頼関係を築いていたって、平氏許さん!!って思いますよね。

*   *   *

1180年4月、以仁王はついに平氏を打倒せよとの令旨(りょうじ)をくだします。

令旨とは、皇太子(こうたいし)や親王(しんのう)などが出す命令文書のことです。
(天皇や太政官(だじょうかん、または、だいじょうかん)の命令は、宣旨(せんじ)です)

ここで「ん?以仁王って令旨出せんの??」って疑問に思いませんか?

そうなんです、以仁王は皇太子でも親王でもないから令旨を出せないんです!
以仁王は親王の地位を与えられておらず、王のまんまなので令旨を出せないんです!!
でも「オレ後白河法皇の息子だし…もうこれ令旨ってことで!」と出しちゃったのです!!!

以仁王の令旨は、平治の乱のあと熊野(くまの)に隠れ住んでいた源氏の一人に託され、
彼が各地の源氏に伝えてまわります。

しかし翌5月、この動きが平氏にバレてしまいます。
平氏はすぐさま以仁王の身柄をおさえようと自宅を包囲しますが、以仁王の姿はありません。
女装(!)して自宅を脱出した以仁王は、すでに滋賀の園城寺(おんじょうじ)にのがれていたのです。

以仁王の居場所を知った平氏は、いそぎ園城寺に向かう軍勢を組織します。
軍勢の大将の一人に選ばれたのは、源頼政です。

その日の夜、源頼政は自宅に火をつけ、園城寺にいる以仁王と合流します。

平氏はここで初めて源頼政の裏切りを知るのです。
ギリギリまで平氏の味方だと信頼していた源頼政が、
まさか以仁王とともに平氏打倒に立ち上がるなんて思ってもみなかったことでしょう。

これは平氏、大ショックです…

以仁王と源頼政は、平氏の軍勢からのがれるべく園城寺をあとにして、
奈良の興福寺(こうふくじ)に向かいます。

途中、平等院(びょうどういん)で休憩をとっていたところを平氏の軍勢に追いつかれ、
交戦のすえ源頼政と源仲綱は平等院で自害します。
現在も、平等院のなかに源頼政のお墓がたっています。
DSC02889.JPG

以仁王はというと、なんとか平等院から逃れられたものの、
敵の放った矢に当たって落馬したところを討ち取られてしまいます。

こうして以仁王と源頼政の挙兵は、あっけなく失敗に終わってしまいます。

しかし、以仁王の令旨は、源頼朝や源義仲(みなもとのよしなか)をはじめ、
各地の源氏の挙兵をうながし、平氏は滅亡へと向かうことになるのです。

では、今日のゴロ合わせ。

1180年.jpg



次回は、治承・寿永の乱のラスト、壇の浦の戦いを中心にお届けします。

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お知らせ☆ [その他]

茨木市にある天文観覧室プラネタリウムのキャラクター、
プラネタ童子くんのイラストを描きました。

プラネタ童子1.jpg
著作権は茨木市が所有しますので転載禁止です

ドームにも投影されております。

プラネタ童子.JPG

お近くの方はぜひどうぞ!



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平安時代(19) [まとめプリント]

今日は院政期の文化(いんせいきのぶんか)の2回目、
絵巻物(えまきもの)と装飾経(そうしょくきょう)をまとめていきましょう。

平安19.jpg

まずは絵巻物です。
絵巻物とは、絵と詞書(ことばがき)を交互にかいて、
人物の動きや時間の進行を表現する巻物です。
とくに院政期には、大和絵(やまとえ)の技法をもちいた立派な絵巻物がたくさんつくられます。
当時の貴族たちは、これをどんな風に楽しんだのでしょうね…

平安19-10.jpg

これから、院政期につくられた絵巻物の代表例を5つご紹介しましょう!
おもしろいものが多いので、ついついアツく語ってしまうと思いますが、何卒ご了承ください(笑)

①「源氏物語絵巻」(げんじものがたりえまき)
紫式部(むらさきしきぶ)の『源氏物語』(げんじものがたり)を題材とする絵巻物です。
絵の部分は、華やかで雅な貴族社会の様子を繊細に描いており、
作者は藤原隆能(ふじわらのたかよし)ではないかと言われていますが、確証はありません。
現在は断片的にしか残っておらず、
愛知県の徳川美術館(とくがわびじゅつかん)などが所蔵しています。

「源氏物語絵巻」に用いられているおもな技法は、次の2つです。
● 引目鉤鼻(ひきめかぎばな)
…大和絵で顔を描くときに用いられる技法
 目は細い筆でスッと線を引いて描き、
 鼻は同じく細い筆で鉤(かぎ)のような形(釣り針みたいな形のこと)に描くこと
● 吹抜屋台(ふきぬきやたい)
…建物の屋根と天井がないものとして、部屋の中を描く技法

平安19-6.jpg

↑ この場面は、最近めっきり見なくなった二千円札の裏面に用いられているのですが、
引目鉤鼻と吹抜屋台の技法がよく分かりますね!

*   *   *

②「伴大納言絵巻」(ばんだいなごんえまき)
866年に起きた応天門の変(おうてんもんのへん)を題材とする絵巻物で、
絵は常盤光長(ときわみつなが)が描いたとされています。
現在は、東京都の出光美術館(いでみつびじゅつかん)が所蔵しています。

ところで、応天門の変…
覚えていますか??

866年のある日、朝廷の門の1つである応天門(おうてんもん)が炎上。
大納言(だいなごん)の伴善男(とものよしお)の告発によって、
左大臣(さだいじん)の源信(みなもとのまこと)が容疑者として捕まるも、ほどなく釈放。
最終的には、伴善男が真犯人として捕まり流罪となった、という事件です。
ちなみに、「伴大納言絵巻」の伴大納言とは、大納言の伴善男を意味しています。

ここで、プリントにも載せた場面を見てください。

1920px-Ban_dainagon_ekotobaL.jpg

↑ 衣冠(いかん)姿の貴族や弓矢を携えた武士など、様々な人間が表情豊かに描かれています。
よく見ると、ほとんどが右の方を見てビックリしていますね。
そっちの方向にナニがあるのかというと…
そうです、燃えさかる応天門です!

Ban_Dainagon_Ekotoba_-_The_fire.png

↑ ちょっと想像以上の燃え方してるーーーッッ!!!(汗)
炎や黒煙の描き方がかなり写実的で、その恐ろしさが伝わってきます。
黒煙の流れ方を見ると、さきほどの群衆は風上にいることが分かります。

平安19-7.jpg

↑ 青丸のところを見てくださいよ!
風上だからって安心しているのでしょうか、
どさくさにまぎれてチカンをしようとしている男性が描かれております…(チカンアカン!)

絵巻物はこのあと、
源信の逮捕→源信の釈放→真犯人の発覚→伴善男の逮捕、と続いてゆきます。

それにしても、事件から300年もたった院政期に、
どうしてこんな立派な絵巻物が描かれたのでしょうか…
事件も絵巻物も謎だらけです。

*   *   *

③「信貴山縁起絵巻」(しぎさんえんぎえまき)
奈良県の信貴山(しぎさん)という山に、
朝護孫子寺(ちょうごそんしじ)というお寺があります。

これは、朝護孫子寺の命蓮(みょうれん)というお坊さんが起こしたミラクルの数々を描いた絵巻物です。
・「山崎長者の巻」(やまざきちょうじゃのまき)
・「延喜加持の巻」(えんぎかじのまき)
・「尼公の巻」(あまぎみのまき)
というタイトルのついた3本の絵巻物で構成されているのですが、
なかでも有名なのが「山崎長者の巻」、通称「飛倉の巻」(とびくらのまき)です。
おもしろいので、簡単にストーリーをご紹介しましょう。

信貴山にこもる命蓮は、ふもとにある長者の家まで法力で鉢を飛ばし、
そこに食べ物などを載せてもらって修行に励んでいました。

ん?
ホーリキで??
ハチを飛ばす???

え?
なにそのミラクル…
ちょっと理解できないんだけど…

ですよね。
分かります。
分かりますけど、命蓮のミラクルはこんなもんじゃありませんので、
とりあえずこのまま続きを読んでください。

ある日、いつものように長者の家に命蓮の鉢が飛んできたのですが、
何度も何度も飛んでくる鉢をうとましく思った長者は、
鉢を米倉のなかに入れたまんまカギをかけてしまいます。

すると!
突然米倉がゴゴゴゴゴと地面から浮き上がったのです!!

そして!
米倉の扉がバーンと開き、なかから鉢が飛び出したのです!!

さらに次の瞬間!
鉢が浮き上がった米倉を載せて飛んでいってしまったのです!!

エエェェェーーーッッ!!!でしょ。

Tobikura_no_maki_(flying_storchouse).jpg

↑ ホラ見てください、みんな表情豊かに「エエェェェーーーッッ!!!」って驚いてます。

果たして米倉はどこへ飛んでいってしまったのでしょう…
命蓮のミラクルは、まだまだ続きます。

長者たちが空飛ぶ米倉のあとを追ったところ、たどり着いたのは信貴山でした。
米倉は、命蓮の庵(いおり)のそばにドスンと落ちていたのです。

長者は「米倉を返してください…」と命蓮に訴えます。
すると命蓮は、
「せっかく飛んできた米倉はここで使わせてもらいたい。中身だけ返しましょう」
と答えます。

米倉返さへんのかいっ!!という突っ込みはさておき、
とりあえず長者は、米倉の中にある大量の米俵は返してもらえることになりました。

とはいえ、米俵ってめちゃくちゃ重たいんですよ。
とてもじゃないけど長者の家まで運べそうにありません。
困り果てている長者を見かねた命蓮は、米俵を1つだけ鉢の上に置くよう命じます。

すると!
米俵を乗せた鉢がフヨフヨと浮き、長者の家の方へと飛んでいったのです!!

さらに!
残りの米俵もフヨフヨと浮き、先頭の鉢を追って次々と飛んでいったのです!!

そして!
米俵は、米倉のあった場所にドサドサドサッッと返ってきたのです!!

超ミラクル~!!!!

Return_of_the_rice.jpg

↑ 米俵が空から降ってきたときの、長者の家にいる人たちの顔を見てくださいよ!
もうみんな「ウギャーーーーーッッ!!」って表情です!!
そりゃそーだよ、ビックリするよ!!!

以上、長くなりましたが「山崎長者の巻(飛倉の巻)」はこんなお話です。
とにもかくにも、米俵が戻ってきてめでたしめでたしです(あれ?米倉は??)。

プリントには、「延喜加持の巻」の一場面も載せています。

延喜といえば…?
そうです、延喜の治(えんぎのち)です。

誰がおこなったか覚えていますか?
そうです、醍醐天皇(だいごてんのう)です。

忘れたなー!って人は、902年のゴロ合わせを復習してくださいね。

せっかくなので、「延喜加持の巻」も簡単にストーリーを紹介しておきましょう。

あるとき、醍醐天皇が重い病気にかかってしまいます。
命蓮のミラクルを耳にした醍醐天皇の側近は、信貴山にいる命蓮に加持祈禱(かじきとう)を依頼します。
ところが、命蓮は都には行かず、ここ、つまり信貴山で加持祈禱をおこなうと主張します。
基本、命蓮は信貴山から動かないのです。

「私の加持祈禱によって醍醐天皇の病気が癒えたときは、
剣の鎧(よろい)を着た護法童子(ごほうどうじ)を遣わしましょう」と言う命蓮。

それから3日後、醍醐天皇のもとにやってきたのは…

Bishamonten_messager.jpg

↑ 剣の鎧をなびかせながら、
霊力を秘めた輪宝(りんぽう)をサッカーボールのように転がしながら疾走する護法童子です。
ワタシ的には髪の毛の散らかり具合がツボです。

右から左に見ていく絵巻物のなかを、
左から右へビューーーンと飛んでくる護法童子のスピード感が素晴らしいです。
輪宝の回転と、護法童子の速さをあらわす線の表現なんて、まるで現代のマンガですよ。

この輝く護法童子の姿を夢に見た醍醐天皇は、たちまち元気になったといいます。
命蓮、すごいよね!!!!

*   *   *

④「鳥獣戯画」(ちょうじゅうぎが)
これは超有名ですね~。
カワイイ動物たちが登場する、とってもコミカルな絵巻物です。
4本の絵巻物で構成されていて、なかには人間が登場するものもあるので、
「鳥獣人物戯画」(ちょうじゅうじんぶつぎが)と呼ぶこともあります。
所蔵しているのは、京都府の高山寺(こうざんじ)です。

なかでも有名なのは、このシーンでしょう!

平安19-4.jpg

↑ ウサギとカエルが相撲をとっています。

まずは右側。
2匹のウサギが応援するなか、ウサギとカエルが組み合っています。
なんとカエルがウサギの耳をかんでおります!
それ反則じゃないのか!!

そして左側。
ウサギを投げ飛ばすカエル!
勝者であるカエルの口からは、まるで「おりゃーっ!!」という声が出ているかのようです。
観客のカエル3匹は、仲間の勝利に大喜びです。

いやー、楽しそうでいいですね。
なんてったって、みんなカワイイです。

ちなみに、平安時代(9)にも書きましたが、相撲は宮中における年中行事の1つです。
貴族社会をまねているのでしょうか、
「鳥獣戯画」には、ほかにも年中行事に興じる動物たちの様子が描かれています。

次のシーンは、プリントに載せた部分です。

平安19-5.png

↑ サルのお坊さんが、カエルの仏様の前でなにやらお経を読んでいます。
その奥では、嘆き悲しむキツネやサルの姿が見て取れます。
ワタシ的には、烏帽子を(えぼし)をかぶってタレ耳になっているウサギがたまりません。

これに続くのは、こんなシーンです。

平安19-3.jpg

↑ 読経を終えたサルのお坊さんのもとに、お礼の品々がどんどん運ばれます。
それを見てニンマリするサルのお坊さん。
このシーンは、仏教界を風刺しているものと考えられます。

作者は、ながらく鳥羽僧正覚猷(とばそうじょうかくゆう)だとされてきましたが確証はなく、
おそらく複数の人間によって描かれたものだと考えられています。
ちなみに、「鳥獣戯画」には詞書の部分はありません(当初はあったのかもしれませんが…)。

*   *   *

⑤「年中行事絵巻」(ねんちゅうぎょうじえまき)
後白河上皇(ごしらかわじょうこう)の命令によってつくられた、宮中の年中行事を記録した絵巻物です。
残念ながら、江戸時代のはじめに火災によって焼失してしまい、
現在は焼失前に描かれたとされる模写がいくつか残っているのみです。



次に装飾経を2点、ご紹介しておきましょう。
装飾経とは、美しくデコられた写経のことです。

①「扇面古写経」(せんめんこしゃきょう)
 または「扇面法華経冊子」(せんめんほけきょうさっし)
扇面(せんめん、扇形の紙のこと)に大和絵で下絵を描き、
その上に法華経などを書きうつした装飾経です。
プリントに載っているのは、大阪府の四天王寺(してんのうじ)が所蔵するもので、
お経の下絵として、女房装束(にょうぼうしょうぞく)を身にまとった女性と、
衣冠姿で笛を手にしている男性の姿が描かれています。
このような「ザ・貴族」な下絵だけでなく、庶民の生活をイキイキと描いたものもあります。

*   *   *

②平家納経(へいけのうきょう)
平清盛(たいらのきよもり)らが、平氏一門の繁栄を祈願するため、
広島県の厳島神社(いつくしまじんじゃ)に奉納した装飾経です。
金ピカピンでとにかくゴージャス!
平氏のセレブぶりがよく伝わってきます。
ちなみに、平清盛自筆の部分もあります。

最後に解答を載せておきましょう。

平安19解答.jpg

絵巻物5点と装飾経2点だけなのに、アツく語りすぎてしまいました…すいません。
プリントの空欄部分を中心に覚えてくださいね(汗)



次回から、ゴロ合わせをお届けします。

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画像出典
wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/源氏物語絵巻
     https://ja.wikipedia.org/wiki/伴大納言絵詞
     https://ja.wikipedia.org/wiki/信貴山縁起
     https://ja.wikipedia.org/wiki/鳥獣人物戯画
     https://ja.wikipedia.org/wiki/扇面法華経冊子
広島県教育委員会HP https://www.pref.hiroshima.lg.jp/site/bunkazai/bunkazai-data-101020010.html
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平安時代(18) [まとめプリント]

今日から2回にわたって、院政期の文化(いんせいきのぶんか)を取り上げます。
今回は、文学・芸能・建築・彫刻を解説してゆきます。

平安18.jpg

この文化が栄えたのは、院政期、すなわち11世紀末から12世紀ごろです。
文化の中心地は平安京ですが、地方への広がりも見られます。
担い手は、上皇や貴族はもちろんのこと、新たに台頭してきた武士や庶民も加わります。

特徴を3点にまとめると、
(1)これまでの貴族文化にくわえ、
   新たに台頭してきた武士や庶民とその背後にある地方文化を取り入れた、新鮮で豊かな文化
(2)歴史物語(れきしものがたり)・軍記物語(ぐんきものがたり)・絵巻物(えまきもの)の普及
(3)浄土教(じようどきよう)が広まり、各地に浄土教建築や浄土教美術が見られる
です。

*   *   *

では、文学から見ていきましょう。

①歴史物語
武士が台頭し、いよいよ武家政権が成立しようという時代、
貴族たちは華やかな過去に思いを馳せ、それらを振り返ろうとします。
そこでつくられるのが、歴史を題材とする物語、すなわち歴史物語です。
これらの多くは、ひらがな中心の和文体(わぶんたい)で書かれています。
(和文体に対し、漢字だらけの文章は漢文体(かんぶんたい)といいます)

●『栄華物語(栄花物語)』(えいがものがたり)/赤染衛門(あかぞめえもん)?
…宇多天皇(うだてんのう)~堀河天皇(ほりかわてんのう)の時代を、
 編年体(へんねんたい)でまとめた歴史物語
 藤原道長(ふじわらのみちなが)を中心に宮廷貴族の栄華を描き、それを賛美します
 作者は赤染衛門という女性が有力で、続編はのちに別の誰かが書いたと考えられています
 よって、国風文化に区分されたり、院政期の文化に区分されたりするのですが、
 近年は国風文化に区分されることが多くなっています

●『大鏡』(おおかがみ)/作者不明
…文徳天皇(もんとくてんのう)~後一条天皇(ごいちじょうてんのう)の時代を、
 紀伝体(きでんたい)でまとめた歴史物語
 190歳(え?)のおじいちゃんと180歳(えぇ?)のおじいちゃんが語り合う藤原道長の栄華を、
 ワカゾーが質問したり批評したりして批判的にとらえています

*この2冊は藤原道長の栄華を対照的に評価しています
・『栄華物語(栄花物語)』は賛美
・『大鏡』は批判
 と、セットで覚えておくとよいでしょう☆
 (そのために『栄華物語』は院政期の文化で紹介しました)

*編年体と紀伝体
 どちらも中国の歴史叙述法です
・編年体:出来事を年代順に記述する形式
・紀伝体:個人や1つの国に関する情報をまとめて記述する形式
 簡単にいうと、編年体は年表スタイル、
 紀伝体はカテゴリーごとにまとめたスタイル、てな感じです

●『今鏡』(いまかがみ)/藤原為経(ふじわらのためつね)
…『大鏡』のあと、後一条天皇から高倉天皇(たかくらてんのう)の時代を、
 紀伝体でまとめた歴史物語
 150歳(えぇぇ?)のおばあちゃんが語る昔話を記録する、という形で物語が進むのですが、
 なんでもこのおばあちゃん、『大鏡』の190歳のおじいちゃんの孫なんだって!
 すんごい長生きの家系だね!!

*ちなみに、タイトルに「鏡」のつく歴史物語が、
 『大鏡』・『今鏡』・『水鏡』(みずかがみ)・『増鏡』(ますかがみ)と4つあり、
 これらをまとめて「四鏡」(しきょう)といいます
 「ダイ・コン・ミズ・マシ」のゴロ合わせで覚えてねって古典の授業でも習いませんでしたか?
 『栄華物語(栄花物語)』も一緒に、
 「ハナ・ダイ・コン・ミズ・マシ」で覚えるパターンもあります
 『水鏡』は鎌倉文化、『増鏡』は南北朝文化でご紹介しますね~

②軍記物語
戦乱を主題とする物語です。
この時期の貴族たちが、地方武士の動きに関心をもっていたことを表しています。

●『将門記』(しょうもんき)/作者不明
平将門の乱(たいらのまさかどのらん)を日本語風の漢文体で記した軍記物語
 作者も成立年代も不明ですが、最初の軍記物語と考えられています

●『陸奥話記』(むつわき)/作者不明
前九年合戦(ぜんくねんかっせん)の経過を日本語風の漢文体で記した軍記物語
 11世紀後半ごろに成立したと考えられています

③説話集(せつわしゅう)
人々のあいだで語り伝えられてきた昔話や伝承などをまとめたもので、
宗教的訓戒のほか、当時の武士や庶民の生活・風習などを描いています。
この時期の貴族たちが、武士や庶民の姿に関心をもっていたことを表しています。

●『今昔物語集』(こんじゃくものがたりしゅう)/作者不明
…インド・中国・日本に伝わる説話を1000話余り集めた説話集
 すべて「今は昔…」で始まることから、このタイトルがつけられています

 ん?そういえば…
 「受領ハ倒ル所ニ土ヲツカメ」とか言っちゃったヒトって、
 『今昔物語集』に載ってたんでしたよね…

 名前、思い出せますか?
 あのガメツくヒラタケとってきた受領ですよ!!

 正解は…
 藤原陳忠(ふじわらののぶただ)でしたー!
 覚えてましたか??
 詳しくは988年のゴロ合わせをご覧ください~

*   *   *

次に、芸能を見てゆきましょう。

①今様(いまよう)
今様とは「現代風の歌謡」という意味で、平安時代末期に流行した民間歌謡をさします。
もとは庶民の間で流行っていた歌なのですが、
これにドハマりしたのが、まさかの後白河法皇(ごしらかわほうおう)です。
そのハマりようは、今様の歌いすぎで喉を痛めてしまうほどだったようで、
果てはヒット曲を集めた『梁塵秘抄』(りょうじんひしょう)という本までつくっています。
この時期の貴族が、庶民の文化と深く関わりをもっていたことを示しています。

②催馬楽(さいばら)
神事の神楽歌(かぐらうた)や古謡(こよう、古くから伝わる歌謡のこと)をアレンジし、
雅楽(ががく)の伴奏にあわせてうたうもの。
平安時代中期以降、貴族に愛好されます。

③朗詠(ろうえい)
雅楽の伴奏にあわせて、おもに漢詩の名句をメロディーにのせてうたうもの。
朗詠といえば、『和漢朗詠集』(わかんろうえいしゅう)ってのがありましたね…
復習しておいてくださーい!

④田楽(でんがく)と猿楽(さるがく)
● 田楽:豊作を祈って、田植えのときにおこなう農耕儀礼がはじまりと考えられています
    平安時代には芸能として洗練されてゆきます
● 猿楽:ものまねをはじめ、滑稽(こっけい)を主とする雑芸・歌曲のこと
    奈良時代に伝来した散楽(さんがく)という芸能に由来すると考えられています
どちらも、庶民のみならず、貴族の間でも流行し、
やがて祇園祭(ぎおんまつり)などの御霊会(ごりょうえ)や、
大寺院での法会(ほうえ)などでも演じられるようになります



プリントの右上に移って、建築を見ていきましょう。

①浄土教建築
このころ、浄土教の思想は全国に広まります。
それは、寺院に所属しない聖(ひじり)や上人(しょうにん)などと呼ばれる民間の布教者が、
各地で浄土教を説いてまわったためです(聖と上人の厳密な区別はありません)。
浄土教について、詳しくは1052年のゴロ合わせに書きましたが、
阿弥陀仏(あみだぶつ)、または、阿弥陀如来(あみだにょらい)と呼ばれる仏さまを信仰し、
来世(らいせ)において極楽浄土(ごくらくじょうど)に往生(おうじょう)することを願う教えですす。
これが全国に広まった結果、各地の地方豪族たちが、
阿弥陀仏をまつる阿弥陀堂(あみだどう)を建立するようになるのです。

● 中尊寺金色堂(ちゅうそんじこんじきどう、岩手県)
…奥州藤原氏(おうしゅうふじわらし)の本拠地である平泉(ひらいずみ)に、
 藤原清衡(ふじわらのきよひら)が建立した阿弥陀堂
 極楽浄土を再現したかのように(行ったことないけど)、どこもかしこも金ピカです
 ちなみに、台座の部分には、
 藤原清衡・藤原基衡(ふじわらのもとひら)・藤原秀衡(ふじわらのひでひら)三代のミイラと、
 藤原泰衡(ふじわらのやすひら)の首が納められています

● 白水阿弥陀堂(しらみずあみだどう、福島県)
…藤原清衡の娘が、亡き旦那さまのために建てた阿弥陀堂
 「白水」は、平泉の「泉」の漢字を分解したものと考えられています

● 富貴寺大堂(ふきじおおどう、大分県)
…九州最古の阿弥陀堂
 このころ、九州にも浄土教が広まっていたことを今に伝えています

②厳島神社(いつくしまじんじゃ、広島県)
航海の安全をつかさどる神様をまつる神社です。
日宋貿易(にっそうぼうえき)を推進する平清盛(たいらのきよもり)があつく信仰し、
海に浮かぶ寝殿造(しんでんづくり)のような立派な社殿を整えます。
1996年にはユネスコの世界文化遺産に登録されました。

行ったことありますか?
もうね、本当に美しいんですよ…
個人的なことを申しますと、私、大好きなのです。

柱がどっぷりと海につかる満潮のときの姿が美しいのはもちろんですし、
大きな鳥居まで歩いて行けちゃう干潮のときの姿も一興です。

何度か訪れたときに何の気なしに撮った写真ですが、
たまたま同じアングルで撮っていたので見比べてみてください。

↓ 満潮のとき
DSC06556.JPG

↓ 干潮のとき(鳥居のところまで人がいっぱい!)
DSC01038.JPG

日本三景(にほんさんけい)の1つに数えられるのも納得ですね~。

③三仏寺投入堂(さんぶつじなげいれどう、鳥取県)
修験道(しゅげんどう)の修行場である断崖絶壁に建てられたお堂です。
修験道をひらいた役小角(えんのおづぬ)、または、役行者(えんのぎょうじゃ)という人が、
ここに投げ入れて作った、という伝説から投入堂という名前がついています。

平安18-6.jpg

いやチョットこれすごくないですか?
断崖絶壁のくぼみに、見事にジャストフィットしてますよね。
投げ入れたというのも納得してしまいます。
(役小角は飛鳥時代の人ですけどね…)

高校生の時、日本史の資料集で見て衝撃を受けて以来、ずーっと行きたかったんですよ。
10年ほど前に念願叶って参拝してきましたので、いくつか写真を見てください!

↓ まず、どこにあるのかというと…ここです!
 もんのすんごい山の中です!!
平安18-9.jpg

しかもその道中ったら…

↓ ひたすらこんな断崖絶壁なんですよ!(この後ろ姿は母です)
 道中は階段なぞ整備されていませんので、木の根っことかを頼りに登ってゆきます。
 ちなみに、スニーカーよりもワラジがオススメとのことで、ワラジを購入しました。
平安18-7.jpg

↓ とてつもなく巨大な岩を、クサリを使って登らなければならないところもあります。
 「日本一危険な国宝」と呼ばれるのも納得です…
平安18-11.jpg

↓ 休憩することなく(そんな場所もないし…)ひたすら30分ほど登った先にあるのが、
 この文殊堂(もんじゅどう)というお堂です。
 すごく良い景色なのですが…
平安18-12.jpg

↓ 足元はこんなことになっております!
平安18-13.jpg

ここからさらに10分ほど登ると…

↓ ついに!投入堂に到着です!!
(投入堂の中には入れません、この場所から拝観するのみです)
平安18-10.jpg
もうね、すっっっごい感動しますよ!
登る前は「投入堂着いたら何かめっちゃ願い事したるねん!」とか思ってましたが、
投入堂の姿を見た瞬間、おのれの願い事なんてホントどーでもよくなりました!!
ボンノーが消えた気がいたしました…

しかぁし!
感動も束の間…

↓ 帰り道もヤバいのです!イヤむしろ帰り道のがヤバいのです!!
 写真では伝わりにくいですけど、ほんとにすんごい崖なんですよ、コレ。
 ずっとお尻つけてズリズリ滑り降りてかないと絶対落ちて死ぬわ…ってレベルです。
平安18-5.jpg

投入堂のスゴさ、伝わりましたでしょうか?
体力に自信のある方、機会があればぜひ登ってみてください。
季節・天候・服装・人数など様々な入山制限がありますので、
行かれる際は事前に公式HPなどで調べてからお出かけくださいませ!

*   *   *

最後に彫刻を見ておきましょう。

①蓮華王院千手観音立像(れんげおういんせんじゅかんのんりゅうぞう、京都府)
蓮華王院(れんげおういん)は、三十三間堂(さんじゅうさんげんどう)とも呼ばれるお堂で、
平清盛が、後白河法皇の院御所(いんのごしょ)のすぐ近くに造営し、寄進したものです。

現在もなかにはズラズラズラーーーッと1000体もの千手観音立像が並んでいるのですが、
このうち124体が院政期のもの、つまり平清盛が創建した当時のものなんだとか。

とにもかくにも、1000体の千手観音立像が整然と並ぶ姿は本当に圧巻です。
ちなみに、一体一体みんな違うお顔をしているんですよ。
ガイドさんに「このなかにアナタにそっくりな観音様が必ずいますよ」なんて説明されたりして、
ついつい「どれどれ?」と探してしまいます(笑)

なお、蓮華王院の建物自体は鎌倉時代に焼失し、再建されています。
そして、本尊の千手観音坐像(せんじゅかんのんざぞう)も鎌倉時代の作品です。
どちらも鎌倉文化でまた紹介しますね~。

念のため説明しておくと、
千手観音立像は立っている千手観音さまで、
千手観音坐像は座っている千手観音さまです。

②浄瑠璃寺本堂九体阿弥陀如来像(じょうるりじほんどうくたいあみだにょらいぞう、京都府)
極楽往生の仕方には9通りある、ということからつくられた、9体の阿弥陀如来像です。

③臼杵磨崖仏(うすきまがいぶつ、大分県)
岸壁を刻んでつくられた、60体あまりの石仏(せきぶつ、石でつくられた仏さま)です。

解答を載せて終わりにしましょう!

平安18解答.jpg



次回は院政期の文化の続き、絵巻物を中心に絵画資料を見てゆきます!

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画像出典
中尊寺HP https://www.chusonji.or.jp/index.html
白水阿弥陀堂HP http://shiramizu-amidado.org/
Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/臼杵磨崖仏
奈良寺社ガイド https://nara-jisya.info/2018/12/16/浄瑠璃寺/#i-4
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平安時代(17) [まとめプリント]

保元の乱(ほうげんのらん)・平治の乱(へいじのらん)を経て勢いを強める平清盛(たいらのきよもり)が、ついに政権を獲得します。
日本史史上はじめての武家政権である、平氏政権(へいしせいけん)の誕生です。
そのあらましと特徴をまとめてゆきましょう!

平安17.jpg

保元の乱平治の乱、この2つの中央抗争を解決したのは、
武士の力、とくに平清盛の軍事力です。

そんな圧倒的な軍事力をもつ平清盛は、
後白河上皇(ごしらかわじょうこう)の院近臣(いんのきんしん)という立場と、
奥さんが二条天皇(にじょうてんのう)の乳母(うば)であるという立場を活かし、
院政と親政をめぐって対立する両者と、それぞれよい関係を築くことにも成功します。

こうして、平清盛は武士としてはじめて公卿(くぎょう)となり、
その後も大納言(だいなごん)・内大臣(ないだいじん)と異例の出世を遂げ、
ついに1167年、太政大臣(だいじょうだいじん、または、だじょうだいじん)に任命されるのです。

皇族か貴族しか任命されないはずの太政大臣に、武士である平清盛が就任する、という、
あまりにも信じられない出来事に、
当時の人々は「平清盛が白河法皇(しらかわほうおう)の子どもだからだ」なんてウワサしたんだとか。

とはいえ、このころ太政大臣はただの名誉職にすぎなかったので、
平清盛はわずか3か月で辞職しています。
「前太政大臣」という肩書きさえあれば充分だったのでしょう!

ちなみに、武士で太政大臣に任命されたのは、
・平清盛
・足利義満(あしかがよしみつ、室町幕府 第3代将軍)
・豊臣秀吉(とよとみひでよし)
・徳川家康(とくがわいえやす、江戸幕府 初代将軍)
・徳川秀忠(とくがわひでただ、江戸幕府 第2代将軍)
・徳川家斉(とくがわいえなり、江戸幕府 第11代将軍)
以上の6人だけです。

翌1168年、平清盛はひどい高熱にうかされ、危篤に陥ります。
平清盛が病気になったことで政情は不安定となり、
後白河上皇はその安定化をはかるため、高倉天皇(たかくらてんのう)を即位させます。
平清盛の影響力、ハンパない…

で。
その平清盛の病気なんですが…

なっがぁぁぁーーーい虫がおしりから出てきて治ったんだそうです。

おしり?
えぇ、おしりです…
おしり。

おそらくサナダムシです。
知ってますか?サナダムシ。
人間のおなかにすみつく寄生虫の一種です。

東京に目黒寄生虫館という博物館がありまして、
大学院生だったころ、ディズニーランドへ遊びに行った帰りに立ち寄りました。
ホルマリン漬けのビンがズラリと並んだ館内には、
約8.8mもあるサナダムシが展示されておりました。
「こ…こんな長いものがお腹のなかに…!平清盛、めっちゃ痛かったやろな!!」
と、心底思いました。
なんだか色んなところがかゆ~くなる気がする博物館ですが、ご興味ありましたらゼヒどうぞ。

平安17-1.jpg

病気の影響により出家した平清盛は、一命をとりとめたのち、
福原(ふくはら、現在の神戸市)にたてた別荘に移り住みます。
政界から引退したのかと思いきや、
そこで厳島神社(いつくしまじんじゃ)の整備や、
日宋貿易(にっそうぼうえき)の拡大に乗り出します。

さらに1172年、平清盛は娘の平徳子(たいらのとくこ)を高倉天皇の中宮(ちゅうぐう)とします。
(のち平徳子には、建礼門院(けんれいもんいん)という女院(にょいん)の称号が贈られます)
平徳子からすれば、お母さんの妹の息子、すなわちイトコとの結婚です。
もし平徳子が男の子を産んで、その子が即位すれば、
平清盛は天皇の外戚(がいせき)になれるわけですから、
彼女のプレッシャーはものすごいものだったでしょう…

平徳子のプレッシャーはさておき、
日宋貿易による莫大な利益と、おびただしい数の荘園・知行国を所有するようになった平氏は、
さらに天皇の外戚になれるかもしれないという可能性を手にしたのです。
そりゃ平時忠(たいらのときただ)が「平家にあらずんば人にあらず」とか言っちゃうワケです。

そんなときに起こるのが、1177年の鹿ヶ谷の陰謀(ししがたにのいんぼう)です。
「鹿ヶ谷(ししがたに)にある山荘で、後白河法皇(ごしらかわほうおう、1169年に出家)の近臣である藤原成親(ふじわらのなりちか)・俊寛(しゅんかん)などが平氏打倒をくわだてている」との密告があり、
藤原成親は備前(びぜん)に、俊寛は薩摩(さつま)に流罪となった事件です。
この事件により、後白河法皇は政治的な権力を低下させ、高倉天皇は親政を強く願うようになります。
平清盛は後白河法皇との距離をとり、高倉天皇との関係をより一層強めてゆくのです。

その翌年、平徳子が待望の男の子を出産します。
ホントに…ホントによく頑張ったよ、徳子…(涙)
この赤ちゃんを生後1ヶ月で皇太子とし、皇太子の外戚としてますます力を伸ばす平清盛は、
後白河法皇との関係をさらに悪化させてゆきます。

そして1179年、ついに平清盛は大軍を率いてクーデターを決行します。
平氏に不満をもつ多くの貴族たちから官職を奪い取り、
後白河法皇を鳥羽殿(とばどの)という離宮(りきゅう)に幽閉し、院政を停止させてしまうのです。

奪い取った官職は、平氏の一族はもちろんのこと、平氏に好意的な貴族たちにも与え、
また知行国の入れ替えなどもおこなって、
平氏の権力が全国におよぶような軍事的支配体制を確立します。

ここでいよいよ、わずか満1歳の安徳天皇(あんとくてんのう)が即位します。
即位にともない、お父さんである高倉上皇(たかくらじょうこう)が院政を開始しますが、
もちろん政界の主導権を握るのは、安徳天皇の外戚である平清盛です。

こうして平氏政権という武家政権が成立するのですが、ながくは続きません。
しかし武家政権は、1867年の大政奉還(たいせいほうかん)まで、700年近く続いてゆくのです。



プリントの右側にうつります。
平氏政権の特徴をまとめてゆきましょう。

①貴族的性格
平氏政権には、摂関家とよく似た部分が見受けられます。

○ 高位高官の独占
平清盛の太政大臣就任をはじめ、一族で高位高官(こういこうかん)にのぼります。
高位高官とは、高い位階(いかい)と高い官職(かんしょく)のことですよ。
位階と官職については、飛鳥時代(8)のプリント右上の表を参考にしてください。

○ 外戚関係の利用
平清盛は、娘の平徳子を高倉天皇の中宮とし、
2人の間に生まれた満1歳の安徳天皇を即位させ、天皇の外戚として権力を握ります。

○ 多くの荘園・知行国を経済的基盤とする
平氏の所有する荘園は全国に500余ヶ所、知行国は約30ヶ国にのぼります。
1179年以降の平氏の知行国は次の通りです。
平安17-3.jpg
数えてみると32ヶ国もありますね~。
このころ全国は約70ヶ国に分かれているので、
日本のほぼ半分が平氏の知行国、ということになります。

②武士的性格
保元の乱平治の乱を制圧したうえに成立した平氏政権には、
もちろん武士らしい面が見受けられます。

○ 武力を背景に、天皇や院の勢力と対抗
圧倒的な軍事力をもつ平氏は、クーデターによって後白河院政を停止させ、
安徳天皇を即位させて高倉院政を開始させます。
安徳天皇の外戚として権力を握るのはもちろんのこと、
平氏の軍事力なしには成立し得なかった高倉院政においても実質的な権力者となるのです。

○ 各地で成長する武士を、荘園や公領(国衙領)の地頭(じとう)に任命
地頭といえば、鎌倉幕府が置いた守護(しゅご)・地頭のセットを思い浮かべることと思いますが、
このころすでに地頭というものは存在していたようです。
残された史料が少なくて、詳しいことは明らかにされていないみたいですが、
平氏政権は各地の武士を地頭に任命することで、
彼らを家人(けにん、貴族や武士に仕える家来のこと)として組織していたんだとか。

分かります?
ちょっとナニ言ってるか分かんないですよね…

武士のおこりについては平安時代(12)で書きましたが、
地方豪族や有力農民が自分の土地を守るために武装したパターンや、
押領使(おうりょうし)や追捕使(ついぶし)に任命された中級・下級貴族が、とある土地に定着したパターンなどがあるんでしたね。

平氏政権は、様々なパターンで成立し、成長してきた武士たちを、
それぞれの土地の地頭に任命することで、彼らがその土地の支配者であることを認めたのです。
そして、平氏政権から地頭に任命されたことで、その土地の支配者であることを認められた武士は、
平氏に仕える家来、すなわち平氏の家人となったのです。

平安17-4.jpg

こうして平氏は、とくに西国一帯の武士を家人として組織してゆくのです。

ちなみに、鎌倉幕府に仕える家人のことを何と呼ぶか分かりますか?
答えは、御家人(ごけにん)です。
鎌倉幕府の将軍に対するリスペクトをこめて、家人に御の字がついておるのです。

③経済活動
11世紀後半以降、日本は朝鮮半島の高麗(こうらい)や中国の宋(そう)との間で、
積極的に商船を往来させるようになります。
といっても、あくまで私貿易です。
国と国の正式な貿易ではありません。

12世紀、宋は女真族(じょしんぞく)が建てた金(きん)という国に皇帝を連れ去られて滅んでしまうのですが、このとき難を逃れた皇帝の弟が、南にうつって宋を再興します。
もともとの宋を北宋(ほくそう)、再興した後の宋を南宋(なんそう)と呼んで両者を区別するのですが、
平氏がおこなった日宋貿易の相手国は南宋です。

そもそも南宋との私貿易に注目したのは、平忠盛(たいらのただもり)です。
彼は瀬戸内海で暴れまわる海賊を討伐して貿易ルートを確保し、日宋貿易を活発におこないます。
平忠盛は、これによって莫大な富を得るだけでなく、
輸入した珍しい品々を白河法皇や鳥羽上皇に献上して、両者からかわいがられるようにもなるのです。

平忠盛の息子である平清盛も、積極的に日宋貿易に取り組みます。
摂津(せっつ)の大輪田泊(おおわだのとまり、現在の兵庫県神戸市)という港を修築したり、
音戸の瀬戸(おんどのせと、現在の広島県呉市)という海峡を開削したりするなど、
よりスムーズに商船の往来ができるよう尽力します。

ちなみに、音戸の瀬戸の開削工事については、次のような伝説が残されています。

いよいよ今日で開削工事が完成するぞ!という日。
太陽が沈んでしまって、残念ながらその日のうちに工事は終わりませんでした。
すると、平清盛はおもむろに岩の上に立ち、
沈んだ太陽に向かい、金ピカの扇を広げて「かえせ、もどせ」と叫びます。

そしたらですよ!

太陽が再び昇り、その日のうちに工事は完成したんだとか!!

平安17-2.jpg

ウッソーん!!って感じですが、
太陽を従えることができた、なんてゆー伝説を残しているあたり、
平清盛の影響力の大きさを知ることができますね。
まぁ…ウソだろけどね!!

日宋貿易の貿易品は以下の通りです。

【輸出品】金・水銀・硫黄・木材・米・刀剣・漆器・扇など
【輸入品】宋銭(そうせん)・陶磁器・書籍・香料・薬品など

銅銭(銅でできたお金のこと)である宋銭の輸入は、日本に貨幣経済をもたらします。
また、書籍のうち、仏教経典は鎌倉仏教に影響を与えることになります。

では最後に解答を載せておきましょう。

平安17解答.jpg



次回から2回にわたって、院政期の文化をまとめてゆきます。

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平安時代(16) [まとめプリント]

今日は、保元の乱(ほうげんのらん)と平治の乱(へいじのらん)をまとめてゆきます。

平安16.jpg

いよいよ源氏と平氏が中央政界で大活躍するので、これまでの流れをおさえておきましょう。

まずは源氏です。

1028年に房総半島で起きた平忠常の乱(たいらのただつねのらん)を、
源頼信(みなもとのよりのぶ)が平定し、源氏は東国進出のきっかけをつかみます。
そして、1051年に東北地方ではじまった前九年合戦(ぜんくねんかっせん)を、
源頼義(みなもとのよりよし)・源義家(みなもとのよしいえ)親子が平定、
次いで1083年にはじまった後三年合戦(ごさんねんかっせん)を、源義家が平定し、
源氏は東国で武家の棟梁(とうりょう)としての地位を固め、勢力を拡大させてゆきます。

とくに、後三年合戦で恩賞を出さなかった朝廷にかわり、
自分の財布から家臣に恩賞を与えた源義家の人気はすさまじく、
東国では源義家に土地を寄進して保護を求める武士が増加し、
朝廷がその寄進を禁止するほどだったとか。

ここまでの流れは平安時代(13)にまとめているところです。

その後はというと、
源義家の息子である源義親(みなもとのよしちか)が朝廷に反乱を起こしたり、
一族のなかでの争いが続いたりと、
源氏は勢力をやや衰退させてしまいます。

次に平氏です。

このころ、伊勢(いせ)・伊賀(いが)を地盤とする伊勢平氏(いせへいし)が勢力を拡大させます。
白河法皇(しらかわほうおう)の命を受けた伊勢平氏の平正盛(たいらのまさもり)が、
源義親の乱の平定に成功したことがきっかけです。
その後、息子の平忠盛(たいらのただもり)も、
瀬戸内海の海賊を平定するなどして白河法皇、そして鳥羽上皇(とばじょうこう)からかわいがられ、
武士として、院近臣(いんのきんしん)として、重用されるようになります。

今日まとめてゆく保元の乱・平治の乱は、
源義親の子である源為義(みなもとのためよし)、その子である源義朝(みなもとのよしとも)、
平忠盛の子である平清盛(たいらのきよもり)の時代に起きる武力衝突です。



1156年に起こる保元の乱の対立関係は、以下の通りです。

1156-1.jpg

1156年のゴロ合わせでは、天皇家の2人を中心に保元の乱を書いたので、
今回は藤原氏の2人を中心に書くことにしましょう。

兄の藤原忠通(ふじわらのただみち)と、弟の藤原頼長(ふじわらのよりなが)です。
この2人、20歳以上年の離れた異母兄弟(いぼきょうだい、お母さんが異なる兄弟のこと)です。

*   *   *

兄の藤原忠通は、鳥羽天皇(とばてんのう)・崇徳天皇(すとくてんのう)・近衛天皇(このえてんのう)・後白河天皇(ごしらかわてんのう)の4代にわたって摂政・関白をつとめた権力者です。
跡継ぎに恵まれなかった彼は、あるとき弟の藤原頼長を養子とします。

ところが…
弟を養子にして20年が経とうというころ…

藤原忠通に息子が生まれるのです!
40歳を過ぎてからの跡継ぎ誕生!!
こりゃめっっっっちゃかわいいわけですよ!!!

てなわけで、藤原忠通は藤原頼長との養子関係を破棄し、
我が子に摂関家を継がせようとします。

デター!
弟を養子にしたあと息子生まれるパターン!!
カワイイ息子を守るために弟とモメるパターン!!!

その後、藤原忠通と藤原頼長はイロイロ対立するようになり、
もう仲直りなんて絶対無理!というレベルまで関係を悪化させてしまいます。

*   *   *

では、弟の藤原頼長とはどんな人物だったのでしょう。

藤原忠通の息子である僧侶の慈円(じえん)が、著書『愚管抄』(ぐかんしょう)のなかで、
「日本一の大学生(だいがくしょう、日本一のすごい学者、という意味)」と評するように、
藤原頼長は非常にすぐれた学者さんであったようです。
読んだ書物の数は1030巻を超えるという読書家で、
移動の時間を惜しんで牛車のなかでも書物を読んでいたんだとか。
また書物に対する敬意もすさまじく、
自宅に当時の最高技術を駆使した防火設備つきの書庫までつくっています。
とくに学んだのは明経道(みょうぎょうどう)、すなわち儒学だったようです。

また、20年近くにわたって『台記』(たいき)という日記を書いているのですが、
ここには朝廷における儀式のほか、政治情勢や人間関係などを克明に記録しており、
彼の学識と事務的能力の高さをいまに伝えています。
とにもかくにもメチャクチャ勉強熱心で、すんごいデキる人だったのです。

そんな藤原頼長が左大臣となったのは、30歳のときです。
律令にのっとった政治を復活させるべく、彼はとてつもなく厳しい改革に乗り出します。
ときには遅刻した貴族の家を焼き払うこともあったとか…
コ、コエー!!!
そのあまりに苛烈な性格から、
「悪左府」(あくさふ)というあだ名をつけられるほど、周囲の人々の反感を買ってしまいます。
(「左府」(さふ)は左大臣のこと。
 「悪」は単に悪いという意味だけでなく、モノスゴイという意味もあります)
裏を返せば、藤原頼長がそこまで厳しくしないといけないほど、
当時の貴族たちはゆるみきっていたのでしょうね…
でも家燃やしたらアカン。

平安16-1.jpg

*   *   *

1141年、崇徳天皇が譲位し、弟の近衛天皇が即位しますが、
ほどなく近衛天皇は17歳の若さでこの世を去ってしまいます。
かわって即位したのは、後白河天皇です。

近衛天皇は眼の病気が原因で亡くなったようなのですが、
「それは藤原頼長が天狗の像の目に釘を打って、近衛天皇を呪ったからだ!」というウワサが流れます。
これにより、近衛天皇をかわいがっていた鳥羽法皇(とばほうおう)の信頼を失った藤原頼長は、
崇徳上皇(すとくじょうこう)に近づいてゆくのです。

1156年7月2日に鳥羽法皇が亡くなると、
今度は「崇徳上皇と藤原頼長が手を結んで反乱を起こそうとしている!」というウワサが流れます。
藤原頼長は謀反人(むほんにん)として扱われ、財産を没収されてしまいます。

追い詰められた藤原頼長は、崇徳上皇のもとへゆき、
平忠正(たいらのただまさ)、源為義・源為朝(みなもとのためとも)親子といった武士を集めます。

一方、後白河天皇と藤原忠通は、
最大の兵力をほこる平清盛を味方につけることに成功し、ここに源義朝らも加わります。

兵力の差は歴然です。
崇徳上皇サイドがあまりにも不利な状況にあるため、源為朝は夜襲(やしゅう)を提案するのですが、
「そんな卑怯なことができるか!」と藤原頼長によって却下されてしまいます。

マジメか!

で、結局、7月11日の未明、後白河天皇サイドが夜襲をしかけ、
崇徳上皇サイドはわずか数時間で総崩れとなってしまうのです。

保元の乱の結果は以下の通りです。

1156-5.png

崇徳上皇は讃岐(さぬき)に流罪、
平忠正と源為義は斬首、源為朝は伊豆大島(いずおおしま)に流罪となります。

藤原頼長は、戦いの最中に首に矢を受けるという重傷を負いますが、
なんとか奈良に逃れているお父さんのもとまでたどり着きます。
40歳を過ぎてから生まれた息子である藤原頼長を溺愛してきたお父さんですが(どっかで聞いた話だな…)、
「謀反人となった息子に会うことはできない」と、藤原頼長との面会を拒否します。
最愛のパパから見放された藤原頼長は、絶望のなか37年の生涯を閉じるのです。
奈良に埋葬された遺体は、のち信西(しんぜい)によって掘り起こされた、とも伝わっています。

ここで、源為朝についてもチラっとお話ししておきましょう。
1156年のゴロ合わせを見てみると…
1156年.jpg
マッスルキャラとして登場していますね(笑)

源為朝は弓の名手で、なんと身長2mを超える大男だったんだとか。
しかもものすごい暴れん坊で、
お父さんである源為義が、九州に追放してしまうほどだったんだとか(よっぽどですね…)。
お父さんにそこまで怒られたんなら、さすがに反省するだろうな…と思いきや、
なんと源為朝はそこで仲間をつくって九州を平定してしまうのです。

都にもどったのち、保元の乱ではお父さんと一緒に崇徳上皇サイドについた源為朝は、
夜襲を提案するも藤原頼長に却下され、自慢の弓で後白河天皇サイドを迎え撃ちます。
その際、超極太の弓を放って、平清盛たちを震え上がらせたんだとか。
保元の乱ののち、弓を放てないよう肘をはずされた状態で伊豆大島に流されたというんだから、
よっぽど怖い思いをさせたんでしょうね…

でもねー、肘はずしたくらいじゃダメだったんですねー。
治っちゃったんですよ、ハイ。

その後、伊豆大島で暴れ回ったり、
鬼の子孫が棲むという鬼ヶ島に行って大男を連れて帰ってきたりともうメチャクチャです。
結果、そんな源為朝を討伐するため、朝廷の軍勢が船でやってくるのですが、
なんとその船も弓を放って沈めてしまいます。
しかし、ここまでと悟った源為朝は、帰宅したのち自害したと伝わっています。

が!
実は自害しておらず、なんとか琉球(りゅうきゅう、現在の沖縄のこと)に逃れ、
そこで生まれた子どもが初代琉球国王になった、という伝説も残っています。
うーん、源為朝ならやりかねないカモ…
この話を題材にしたのが、化政文化(かせいぶんか)で登場する曲亭馬琴(きょくていばきん)の『椿説弓張月』(ちんせつゆみはりづき)です。

*   *   *

ここで、すんごく個人的なことを申し上げてよいですか?

私、大河ドラマのなかでは「平清盛」(2012年放送)が一番好きなんです。
なぜって、山本耕史さん演じる藤原頼長が抜群に良かったからです!
上品で、厳格で、非情で、酷薄で…そんな山本耕史版ライチョウが大好きでした。
(大学で日本史を専攻していたので、頼長のことは音読みで「ライチョウ」と呼んでいます)

保元の乱で藤原頼長が亡くなるシーンなんて、
テレビの前で「ライチョウーーーっっ!!」って大号泣しました。
オウムが…オウムがね…
(ライチョウやらオウムやら、ややこしくてすいません…笑)

で、その大河ドラマ「平清盛」にもありましたが、
彼の日記である『台記』には、子どもたちへの訓戒(くんかい)が記されています。
現代語訳すると、こんな感じです。

 いつか私が死んだ後、私を恋しく思ったなら朝廷に来るがよい。
 私の魂はきっとそこにとどまっている。
 豪華な衣服や家来の数を求めるな。
 忠勤に励み、それで人に嘲(あざけ)られても恥じるな。
 忠を尽くし、決して報いを求めるな。
 努めなさい。努めなさい。

藤原頼長が死んだ後、阿部サダヲさん演じる信西がこの部分を見つけて読むんですよ…
うあぁぁぁー、思い出しただけで泣けます…

機会がありましたら、ぜひ「平清盛」、ご覧ください。

*   *   *

ちなみに藤原頼長は、腐女子のなかでは結構有名人だったりするのです。

えぇ、腐女子です。

『台記』には、男色(だんしょく)の模様がそれはそれは詳細に描かれているからです。

えぇ、男色です。

BLです!
ボーイズラヴです!!

お相手は10人ほど確認できるのですが(プリントの系図にいる源義賢(みなもとのよしかた)もその1人です)、
一番のお気に入りは秦公春(はたのきみはる)という人物です。
『台記』には、彼とのやりとりがピュアに、そして生々しく記録されています。

平安16-2.jpg

一体どんな感じで書かれているのか気になりますよね…
では、ほんの一文だけ紹介しておきましょう。
秦公春ではなく、
「讃」という隠語でたびたび登場するお相手(讃岐国の受領とかかな)と会った日の記録です。

「遂倶漏精、希有事也、此人常有此事、感歎尤深」
(『台記』仁平二年(1152)8月24日条)

あえて白文で載せますので、内容が気になる人は頑張って漢文勉強して下さい(笑)
もうね、セキララすぎるからマジメ(?)な当ブログでは訳せません訳しません。

とはいえこの時代、男色は当たり前のことです。
フツーなんですよ、フツー。
だから藤原頼長がBLしていよーと、そのお相手が10人いよーとフツーです。

でもね、この時代の日記って、他人に読まれることが前提なんですよ(詳しくはコチラ)。
子孫が先例を学ぶために日記を読むのですが、そこにこんな生々しい記録があったら、ネェ?
ちょっと藤原頼長フツーじゃないのかもしれません(笑)



藤原頼長好きが高じて、保元の乱が長くなってしまいました…すいません…
平治の乱は1159年のゴロ合わせで詳述したので、ここではザックリ見ていきましょう!

平治の乱が起こるのは、保元の乱から3年後の1159年です。
対立関係は以下の通りです。

1159-1.jpg

保元の乱で謀反人(藤原頼長のこと)を出した摂関家は勢いを失い、
かわって後白河天皇のブレーンである藤原通憲(ふじわらのみちのり、出家して信西(しんぜい)と名乗る)が権力を手にします。
信西は平清盛と手を組み、平氏の軍事力を背景に政治改革を推し進めてゆきます。

1158年、二条天皇(にじょうてんのう)が即位します。
父親である後白河上皇は院政を開始し、
親政(しんせい)を望む二条天皇と対立してゆきます。

このころ後白河上皇(ごしらかわじょうこう)が頼りにしたのは、
藤原信頼(ふじわらののぶより)という院近臣です。
彼、おそらく後白河上皇とデキてるんですよねー…
ちなみに藤原忠通は、藤原信頼とモメたために後白河上皇によって失脚させられています。
愛のチカラおそるべし…

一方、信西はというと、平清盛を味方につけているのをいいことに、
自分の身内をどんどん出世させてゆきます。
藤原信頼はじめ、周囲はそんな信西に不満を抱きますが、
平清盛が怖くて手が出せません…

が!
チャンス到来!!
1159年のある日、平清盛が熊野詣(くまのもうで)に出かけたのです!!!

すかさず藤原信頼は、源義朝とともに立ち上がります。
彼らはまず後白河上皇の邸宅である三条殿(さんじょうどの)を襲撃して後白河上皇の身柄を確保し、
二条天皇とともに幽閉(ゆうへい)します。
そのうえで信西を自害に追い込み、政権を獲得するのです。
藤原信頼と源義朝のクーデターは大成功です。

が!
熊野詣に出かけたはずの平清盛が、とんでもないスピードで戻ってきたのです!!
そして、藤原信頼のやり方に不満をもつ二条天皇が、平清盛に藤原信頼と源義朝の追討を命じたのです!!!

一気に形勢逆転です。

息子の平重盛(たいらのしげもり)・弟の平頼盛(たいらのよりもり)らを率いる平清盛は、
息子の源義平(みなもとのよしひら)・源頼朝(みなもとのよりとも)らとともに戦う源義朝をあっさり打ち負かし、平治の乱は終息するのです。

平治の乱の結果は以下の通りです。

1159-5.jpg

源義朝は、尾張(おわり)まで逃れたものの謀殺(ぼうさつ)され、源義平も斬首されます。
藤原信頼も、信西を自害に追い込んだ罪などにより斬首されます。
当時13歳の源頼朝は、平清盛のママハハによって命を救われ、
伊豆(いず)に流罪となります。

こうして勢いを得た平清盛が、武士でありながら政権を獲得するに至るのです。

*   *   *

最後に、保元の乱と平治の乱の歴史的意義を2点確認しておきましょう。

①中央政界の抗争を武士の力のみで解決=貴族の無力化
②平清盛の地位と権力の高揚=平氏政権の成立

武力なしでは政権を維持できない時代の到来です。
これを慈円は、著書『愚管抄』のなかで「ムサノ世(武者の世)」と表現しています。

長くなりました。
解答を載せて終わりにしましょう。

平安16解答.jpg



次回は、平氏政権をまとめてゆきます。

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